二人でいるならばそこが天国なのだ
今日の自分の誕生日が来た。この日になると少しだけ気持ちが重たくなる。
今日も生き延びてしまったなとか、今日も目を覚ましてしまったなとか、きっと彼女が怒るであろうことばかりが頭を過ぎる。どうせならいっそ、思い切り叱り飛ばして欲しいくらいだ。
いつも履いているビーサンは、今日だけは真っ黒なスニーカーで。少しだけ窮屈だと感じるが流石にここ≠ノ来るにはビーサンじゃ歩きづらいから仕方がない。ザクザクと下に落ちている細い木の枝や木の葉たちを踏み締めて進んでいけば、目的地が見えてきた。
「今年も来たぞ、ナマエ」
辿り着いた目的地は樹齢がオレの年齢の何倍もありそうなくらいの大木が立つ、この山の中に自然と出来た自然の広場のような場所だった。
この山は彼女、ナマエの住むところから少し行ったところにある。自然が好きだった彼女は「お気に入りの場所なんだよ」と無邪気な笑顔をしてオレにこの場所を教えてくれた。それから度々息抜き≠ニ称して二人でここに来ては、都会の空気を忘れて二人で静かに過ごしていた。
あの頃、ここに来る時は必ず彼女と二人だった。だが今はオレ一人になってしまった。彼女が数年前に死んでしまったから。
彼女の墓はオレの独断でここに作った。この広場の主のように佇む大木の根元に彼女の骨が入った骨壷を埋め、こぢんまりとした墓石に彼女の名前を彫って立てた。
『私、何があってもどんなかたちでも、万次郎の誕生日をちゃんとお祝いしたいの。お祝いさせてくれる?』
生前彼女がそう言ったから、オレは毎年自身の誕生日と彼女の命日の年に二日だけここに来ている。オレとしては自分の誕生日なんてどうだっていいが、彼女からのお願い≠セから叶えてやりたくて、誕生日に目を覚ましていたら必ずここに来ていた。
「……ごめんな、ナマエ」
彼女が死んだのは、彼女の誕生日だった。
あの日、彼女は例年通り自身の誕生日に休暇を取って自宅にいた。オレと彼女はほとんど会うことはなかったが、オレの誕生日と彼女の誕生日だけ、この場所で会っていた。その日も彼女はオレに会うために支度をしてここに向かっていた。本来なら山の中を少し行った場所で落ち合ってから一緒に行っていたが、その日だけはオレが仕事の関係で少し遅れてしまった。
その旨を受けた彼女は「分かった。気をつけてね」と返事をくれて待っていたが、オレが着いた時、彼女は落ち合う場所にはいなかった。
必死に辺りを探し回った結果、彼女は落ち合う場所から少し行った先の崖の下に落ちて死んでいた。そして近くには幼い子供が一人、大泣きしてへたりこんでいた。
「何があった?」
「お、おねえっ、ちゃんが、おちっ、おちちゃ、って!!」
「……なんで落ちた?」
「あ、あたしのっ、ことっ、たすけ、ようと、してっ」
その後の分かったことだが、彼女はあの崖の近くで親とはぐれて泣いていた子供を見つけたが、子供の手を引いて山を降りようとした時、カラスたちが木々から飛び去ったことに驚いた子供が足を滑らせて崖下に落ちそうになった。それを、彼女が子供の手を引いて助けたが、勢いの良さと体勢が崩れたことで代わりに彼女が下へと落ちたらしい。その後、部下たちが警察の応酬品から奪ってきた彼女のスマートフォンのメモ帳には、「ごめんね。あいs」という短い文が書かれたページが一番上に保存されていた。それを見たオレはそのスマートフォンにヒビが入りそうなくらい握りしめ、もう流れない涙を流した。
彼女がオレには勿体無いくらい優しい人であったことはよく知っていた。だから彼女があの子供を助けたのだって、彼女らしいといえば彼女らしかった。そして助けた先で死んだのも、最期にオレにメッセージを残そうとしたのも、全て彼女らしいと思ってしまった。
オレは、事故の数日後に火葬された彼女の骨を骨壷に詰めて持ち帰ってこの山のこの場所に埋めた。理由はここがいつだって彼女のお気に入りの場所≠ナあり、オレと彼女が唯一何も気にせず会える場所だったから。
きっと彼女も喜んでくれているだろう。きっと彼女はここに来たオレのことを、変わらない眩しい笑顔で迎えてくれるだろう。オレはそう思っている。
もうオレ以外の誰か≠ノナマエを奪われたくなかった。だからオレとナマエだけ≠フこの場所に、ナマエを埋めたのだ。
「ナマエ、今日はちょっとした話があるんだ」
苔や草花に覆われ始めている彼女の小さな墓石の前にしゃがんでそっと手を載せ、彼女の頭を撫でるようにそっと手を動かす。つるりとした石の感触がまだ残る墓石は少しだけ温かくて、まだ鮮明に覚えている彼女の柔らかい温もりを思い出した。
「多分、もうすぐオレもそっち≠ノ行くと思う。……待っててくれるか?」
返事はない。聞こえるのは木々が揺れ、葉が擦れる音や鳥の鳴き声、木々の隙間を抜ける風の音。聞き慣れた自然の音たち以外は何も聞こえない。それでもオレはここに眠る彼女に言葉をかけた。
「ナマエがいなくなって数年経ったけど、今でも一緒に過ごしたことは忘れてない。初めてここにオレを連れてきてくれた時のナマエの顔も、匂いも、声も、握った手の柔らかさと温もりも、全部覚えてる」
一つだって忘れられなかった。忘れてしまえば楽だったのに、どうやってもふとした時に思い出してしまっていた。その度に心に開いていた穴が広がる感覚がして、その穴の冷たさと空虚さを思い知らされて、ただただ吐き出すことのできない辛苦に苛まれた。
だけどきっと、そうやってオレがナマエのことを忘れずにいれば、その記憶を辿って彼女が迎えに来てくれるんじゃないかと思った。
「ナマエは――ナマエも、オレと一緒にいた日々のこと、覚えていてくれてるよな」
その言葉を受けた彼女が頷いてくれた気がした。オレはそっと墓石に額を当てて祈るように目を閉じてから立ち上がった。
心の穴は開いたままだ。だけどやはりここに来ると穴の冷たさと空虚さが和らいで、代わりに昨日のことのように覚えている彼女の温もりを感じられる。まだこれがあるから、オレは歩ける。
「……一旦さよならだ、ナマエ。だけどもうすぐ会えると思うから。だからその手で、オレを地獄まで連れてってくれよな」
オレは彼女にそう言葉をかけてから踵を返し、その場を後にした。
「……今年もお祝いさせてくれてありがとう。こっち≠ノ来るのならもう置いていかないよ、万次郎。……一緒に地獄に落ちよう」
墓の前に立つそれは、この場を去り行く色を失った彼の背にそう言葉をかけたのだった。
◆◆◆ ◇◇◇
「万次郎」
「……ナマエ?」
「約束通り、迎えにきたよ。……まさか、死因が私と同じようなものとは思わなかったよ」
「……ナマエッ!」
彼はその細くなってしまった身体で、迎えにきた彼女のことをかき集めるように抱きしめた。抱きしめられた彼女はそれに応えるよう精一杯、彼のことを抱きしめた。
「やっと、こうして触れられた。万次郎、細くなったね」
「……ナマエは、変わらないな。全部」
「……うん。だって万次郎が覚えている私≠セから」
抱き合う二人の足元から真っ黒い手が次々と現れ、下へ下へと引きずり込むように二人の体を掴んで引っ張る。二人は離れないようにと相手を抱きしめる腕に力を込めた。
「もう、置いていかないでくれ。ナマエ」
「うん。もう置いていかないよ、万次郎」
二人は幸せそうな笑みを浮かべたまま、真っ黒い手たちに覆われて底の見えない暗闇へと落ちて行った。
たとえその先がこの世の艱難辛苦を全て詰め込んで作られたような地獄であっても、二人でいられるのならそこが二人にとっての天国なのだ。