さようならと再会の約束
今年が始まってもう少しで二ヶ月が経つ頃。雪が降った二月二十二日、彼女の恋人が凶弾を受けて死んだ。
『抗争、気をつけてね』
『あぁ』
いつも通りの会話。彼の返答も、雰囲気も、声色も、何一つとして変わりのないものだった。だから彼女も、いつも通り「ただいま」と言って帰ってくると思っていた。そう信じていたのだ。
だが現実は違った。彼は腹心と共に病院へ運ばれ、最後は物言わぬ姿で病院の霊安室に安置された。
当時の彼女は、冷たく眠る彼を見て静かに涙を流していたが、少ししてその場で意識を失ってしまった。彼が死んだ事実を、目の前で物言わぬ姿で横たわっている現実を、受け止めきれなかったのだ。だから泣き叫んだり喚くことすらできなかった。全ての言葉を忘れてしまうくらい、意識が遠のいてしまうくらい、彼女はこの非情な現実を受け止めることも、受け入れることも、できなかった。
その日を境に、彼女はまともな生活を送ることができなくなってしまった。食欲は誰が見ても心配するくらいには低下し、食が細くなった。それに比例して、身体もみるみるうちに痩せ細っていき、かつて彼が褒めてくれたツヤのある綺麗な髪もそのツヤを失ってしまった。
当然彼女の両親は娘が日に日に弱り、衰弱していく痛々しい姿を見て心配になり、少しでも食事を摂ってもらえるようにと工夫をした。弱った彼女でも食べられるのではないか、とお粥を作ってみたり、じっくり煮込んだ野菜スープ、ゼリー飲料タイプの軽食などを彼女に与えた。しかし彼女はどれもまともに食べることができず、数口摂取して食べるのをやめていた。
そんな生活が一ヶ月ほど続いたある日、とうとう彼女は栄養失調により自室で倒れてしまった。自室で大きな音がしたため駆けつけた父親が、彼女が倒れているところを発見し、急いで病院へ連絡をして近くの病院に救急搬送された。彼女の身体の状態から、そのまま運ばれた病院に入院することになった彼女だったが、入院をして数週間経っても彼女は一向に目を覚さなかった。
両親はできるだけ毎日彼女の面会に行き、早く目を覚ますようにと祈ってはいたが、彼女の瞼は一向に震えることはなかった。
彼女が目を覚さない原因、それはこのまま目を覚ましたくない≠ニ思っているからだった。彼の、イザナのいない世界でひとり生きていかなければいけないことが、彼女には何よりも耐え難い辛苦だった。だが死ぬ勇気が出る前に生きる気力を失ってしまい、衰弱していった結果死ぬ気力も出ず、そのまま倒れたのだ。
倒れて意識を失う直前、彼女はこのまま目を覚さないでイザナの元に行けたらいいな≠ニ願った。それは自身の死を願うことと同義であったが、結果として病院に運ばれたのが早かったことで一命を取り留めた。そのため、彼女の願いは叶うことはなかった。
願いが叶わず今も眠り続ける彼女は、幸せな幻想に浸っていた。
◆◆◆ ◇◇◇
「ただいま」
「おかえり、イザナ」
帰宅したイザナがリビングに入ってくる。キッチンで夕食の準備をしていた彼女は、イザナの帰宅に気付き、一度料理の手を止めてイザナの方を向いて声をかけた。
帰宅したイザナは、リビングに置かれている二人掛けのソファの背もたれに着ていたジャケットを適当に掛け、手を洗うために洗面所へと向かった。ちょうど作っていたおかずである肉じゃがの盛り付けが終わった彼女は、一度軽く手を洗った後、彼がソファの背もたれに適当に掛けたジャケットをハンガーに掛けるためにキッチンから移動した。
「今日の飯は?」
「今日は肉じゃがだよ」
「へぇ。うまそうじゃん」
「今回結構上手くいったんだ。きっといつもより美味しく出来たと思う」
彼女は嬉しそうな声色でそう言いながら、イザナのジャケットをハンガーに掛けていた。その姿を少し離れた場所から見ていたイザナは、ほんの少しだけ目を細めて彼女の姿を見つめていた。
「もう食べる?」
ジャケットをハンガーに掛け、クローゼット横の定位置に閉まった彼女が、イザナの方を向いてそう声をかけた。イザナはそれに「あぁ」と小さく返事をすると、彼女は幸せそうにはにかんで「それじゃあすぐ準備するね」と言い、履いているスリッパをパタパタ鳴らしながらキッチンへと戻った。
二人用のダイニングテーブルには既に箸や取り皿などが置かれている。イザナは自身の箸が置かれている方の席に座ると、隣のキッチンにいる彼女の方を見た。彼女はイザナの視線に気づくと、一瞬動きを止めてイザナの方を見ると、ニコリと笑ってから止めていた動きを再開した。
「お待たせしましたーっと。それじゃあ、食べよっか」
彼女が両手を合わせる。イザナもそれに合わせて自身の手をそっと合わせた。
「いただきます」
「……いただきます」
彼女がいつも言っていたこともあり、施設にいた時以来の食事の時の挨拶をイザナが口にする。その言葉を言い慣れていないせいか、どこかぎこちなさのある言い方ではあったものの、その言い方が好きだった彼女は小さく微笑んで自身の箸を手に取った。
* * *
夕食を食べ終わり、彼女が夕食の片付けを終える頃。いつもならソファにゆったりと座っているイザナが、珍しくダイニングテーブルの椅子に座ったままだった。それを不思議に思った彼女は、最後の洗い物を水切りカゴに入れ、タオルで手を拭いてからイザナのところへと行った。
「珍しいね、ここにいるなんて」
「あぁ。オマエに少し、話があったから待ってた」
「なんだ、それなら言ってくれればよかったのに。どうしたの?」
彼女がイザナの向かいにある椅子を引き座る。イザナはほんの少しだけ何かの感情を抱いた瞳で真っ直ぐ彼女を見た。初めて受ける視線に、彼女は少し驚きつつも「真剣な話なんだろう」と思い、少しだけ姿勢を正して真っ直ぐ彼を見た。
「ナマエ、もう分かってンだろ」
静かに口を開いたイザナから発せられた言葉。その言葉に、彼女はなぜか後ろから頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。
「急にどうしたの?」
衝撃で一瞬頭が真っ白になり、思考が停止した彼女が絞り出せた返答は短い一言だった。イザナの表情は変わらず真剣なもので、彼女はそれにほんの少しの恐怖を感じた。自分の頭の中で誰かが「嫌だ」と叫んでいる。だけどそれが誰で、何が嫌≠ネのかが分からない。ただ、一つだけ分かることがあった。それは次にイザナが言うであろう言葉は、自分が――なぜか――もっとも聞きたくない言葉だろう、ということだ。
「夢≠ヘもう終わりだ。さっさと目を覚ませ」
「ち、ちょっと待ってよ。夢?どういうこと?だってこれは現実≠ナしょう?」
彼女はまだ気付いていない。今自分の前にいるイザナの姿が
彼女の焦ったような顔を見たイザナは、そこで初めて表情を歪めた。眉間にシワを寄せ、どこか苦しそうな表情。イザナはこんな夢など望んではいなかったのだ。
表情を歪めたイザナが再び口を開く。彼女は焦りと絶望、そして困惑が混ざった青い顔で小さく首を横に振り、イザナにこれ以上言葉を紡がないでほしいと願った。
「……オレはオマエを迎え≠ノ来たワケじゃねェ。さっさと目を覚ませって言いに来ただけだ」
「なんでっ……どうして、そんなこと言うの……?」
彼女は瞳に涙を浮かべ、震えた声でそう言った。今の彼女にはまだかろうじで、少し成長した、あるはずのない<Cザナの姿が見えている。だがその姿も涙のせいか歪んでいて、時折彼女が知っているイザナの姿が見えた。
「これは夢なんかじゃないよ……。だって、ほら、イザナ、生きている≠カゃん……」
「ナマエ」
「夢なんかじゃないッ!これがっ、イザナが生きていることが現実≠セよッ!!だって、イザナは強いから……だから、死ぬなんて……そんなこと……」
彼女の瞳から堰を切ったように涙がこぼれ落ちていく。とめどなく溢れ出る涙は、真っ白な地べたにへたり込んでいる彼女の服などに落ちて小さなシミを作った。彼女は何度も何度も、必死に自身の手で涙を拭っていたが涙は止まってはくれない。必死に言葉を紡ごうとしても嗚咽で言葉が詰まり、乱れて少し浅くなった呼吸のせいで酸素が足りなくなり、頭の中が白くぼやけ始めた。
彼女から数歩前に行ったところで静かに立っていたイザナは、カツカツとかかとを鳴らしながら彼女の元へとやってくると、その場でしゃがんで彼女のことをそっと抱き締めた。
自身の肩に額を当ててなおもなく彼女の背中をぎこちなくも優しく撫でながら、イザナは彼女が必死に紡ごうとしている言葉を待った。
「い、やだっ……。なん、で……なんで、死んじゃった、の……イザナ……」
「オレも、こんな予定じゃなかったんだけどな」
「もどって、くるって……しんじてた、のにっ……!」
「……悪かったな、オマエを置いて逝っちまって」
幼子のように震えて泣きじゃくる彼女を抱き締める腕に少し力を込める。彼女は縋り付くようにイザナの背に腕を回し、イザナの肩口で泣いた。彼女の流した涙がイザナの着ている、三つの穴が開きその周辺に血が滲んでいる褪せた朱色の特服に染み込んで色を変えていった。
「でも、オマエまでこっち≠ノ来るな」
その言葉に彼女は首を横に振った。たとえ都合のいい夢であっても、再び会って話ができ、触れられたイザナを失いたくなかったのだ。それが自身の死に繋がるとしても、イザナの元へといきたいと願っていた彼女はそれを喜んで受け入れるつもりだった。
だから「来るな」と言われた彼女は、駄々っ子のように首を振ってその言葉を聞き入れようとしなかった。イザナはそんな彼女の頭に手を置き、宥めるように撫でながら再び彼女に言葉をかけた。
「オレはもうそっち≠ノはいねェけど、オマエが忘れない限り、オレはオマエの記憶の中にいる。姿が見えなくても、オマエの側に居てやる。だから早く戻れ、そして目を覚ませ」
彼女はゆっくりとイザナの肩口から頭を上げ、真っ赤に泣き腫らした顔でイザナを見た。先ほどまでイザナの肩口を濡らしていた涙は何とか彼女の目元に留まっていて彼女の瞳を滲ませている。
「……イザナ。さいごに、一つだけワガママを聞いてほしい。いいかな」
「……言ってみろ」
彼女はスン、と小さく鼻をすすってから滲む瞳で真っ直ぐイザナの瞳を見つめると、まだ震えの残る声でワガママ≠言った。
「一回だけ。一回だけでいいから、キスしてほしい。そしたら私、ちゃんと戻るから。イザナのいない世界でも、ちゃんと生きるから」
そのワガママ≠聞いたイザナは、彼女を自身の腕の中から解放し、彼女を自分の前へと立たせた。そしてそっと片手を彼女の泣き腫らした赤い頬に添え、まだ残っている涙の跡を親指でそっと撫でた。
イザナの瞳は優しい色をしていた。そんな瞳を、生前のイザナは一度だって彼女に見せることはなかった。ただしたことがないわけではなかった。生前、彼女が知らないところでその瞳をして、彼女にその瞳を向けていた。そしてその瞳を今、初めて彼女に直接向けたのだ。
一瞬だけ時が止まったような感覚が彼女を襲った。彼女の瞳を潤ませていた涙が目尻からはらり、と一粒零れ落ちる。
それは音などなかった。子供同士が真似事をするように行う、可愛らしい触れるだけのキス。唇が重なっていたのは一秒程度の短い時間だったが、彼女にとっては何倍も長く感じた。
そっとイザナが触れ合っていた唇を離した。彼女の顔は泣き腫らしたのとはまた別に赤く染まっている。
「じゃあなナマエ。ちゃんと生きろよ」
「……うん。私、しわしわのお婆ちゃんになるまで長生きする。だから、私が大往生した時は、迎えに来てね」
「仕方ねェな、その時は迎えに行ってやるよ」
イザナはそう言って綺麗に笑って彼女の頭をわしゃわしゃと雑に撫でた。それに懐かしさを覚えた彼女は、目尻に涙を滲ませながら嬉しそうに笑った。
「それじゃあ……またね=Aイザナ」
「あぁ。またな=Aナマエ」
彼女の視界に映るは、
幸せな夢に終わりが訪れる。二人がいる空間を塗り潰すように真っ白な光がこの空間を侵食していく。消えていく空間にいる彼女の意識が上へと急激に引っ張られ始めた。空間に取り残されているイザナが、上空へと引っ張り上げられていくのを静かに見上げながら真っ白な光に侵食されて姿が消えていく。その姿に、彼女は力一杯叫んだ。
「ずっとずっと、愛してるよ!イザナ!!」
その言葉を聞いたイザナは、自身が完全に消えるその一瞬前に、満足そうな笑みを浮かべた。
世界が真っ白な光に塗り潰され、あまりの眩しさに彼女が目を閉じる。次に目を覚ました時、ぼやけた視界には目覚める一瞬前まで見ていた白さとは異なる白さが広がっていた。
「お父さんっ!!ナマエがっ!!」
「!ナマエっ!」
ぼんやりした意識の中、彼女は自身の横にいるぼやけた人の姿にゆっくりと視線だけを向けた。その後、再び視線を正面へと戻す。身体のあちこちの感覚がぼやけているが、唯一、自身の唇にだけ何かが触れていたような感覚が確かに残っていた。
彼女は未だぼやけた頭で、長いこと見ていた幸せな夢≠思い出した。自身が思い浮かべていた未来=Aそれはもう二度と叶うことはないけれど、それでも夢の中でいっときでも叶った。そして最後に、イザナがワガママを聞いてこの人生で最後となるキスをしてくれたこと。
夢であっても、それでも彼女にとっては全てが事実で、それだけで彼女にとっては泣いてしまうくらい幸せだった。
はらりと、彼女の目尻から涙が一粒零れ落ちた。
* * *
「誕生日おめでとう。イザナ」
彼女が目を覚まし、数ヶ月が経った今日。彼女は初めて、イザナのいない世界でイザナのいない八月三十日を迎えた。
まだ夏の暑さが残る夏と秋の間だったが、今日は運良く過ごしやすい気候だった。彼女は時折吹く柔らかい風に、ツヤを取り戻した髪をなびかせながら墓前で微笑んでいた。
「今年も、イヤイヤ言いながらも付き合ってくれるんだろうなって、思ってたんだ。イザナの誕生日パーティー。……だけど、今年のパーティーは私一人だけになっちゃった」
寂しげな声色でそう言った彼女だったが、その顔に寂しさはなかった。
ふわりと風が吹いた。その風が彼女の髪を揺らしていく。それが何だか頭を撫でているようで、彼女はそっと自身の頭の上に片手を添えた。まるでそこに彼≠フ手があるかのように。
風が止んだと同時に手を下ろした彼女は、墓石を見つめながら言葉を紡いだ。
「あの日のこと、まだ昨日のことのように覚えてるんだ。もう夏も終わるっていうのにね。夜に降った雪も、病院まで全力で駆けたことも、冷たくなってしまったイザナの体温も、全部……」
彼女の目尻にじわりと涙が滲む。それに気づいた彼女が、持っていたカバンからハンカチを取り出してそっと目尻に押し当てた。
小さく鼻をすすり、目を伏せてふぅっ、と息を吐く。伏せられた瞳が元に戻った時、彼女の顔には一瞬浮かんだ寂しさや悲しさの色はなかった。
「寂しいって思うことも、会いたいなって思うこともある。だけど、あの時イザナと約束したから。……それに、私には今までの思い出も、あの夢の記憶もある。だから寂しくても、会いたいなって思っても、もう死んでしまおう≠ネんて思わないよ」
たくさん言いたい言葉があった。伝えたい想いがあった。しかしそれらを渡す相手はもういない。それでも彼女は良かった。それらを全て抱えて、明日を生きようと決めたから。
彼女はこの先に待つ、寂しさを感じさせる秋も、喪失感を覚えさせる冬も、優しさを感じさせる春も、彼との記憶を思い出させる夏も、全て一人で過ごさなければならない。隣にいた愛する人の存在はもうない。それでも、彼女にはたくさんの彼との記憶≠ェあった。それらを大切に抱きしめることができるようになった彼女は、もう後ろを見て涙を流すことはない。それが彼との、イザナとの最後の約束だから。
「私、いっぱい長生きするよ。たくさんの楽しいことを知って、経験して、それらを全部持ってイザナに会えるように頑張る。それで、迎えに来てくれた時にそのことをいっぱい話すから、良かったら聞いてほしいな」
彼女はそう言ってから墓前を離れた。数メートル歩いたところで、夏が残る風が彼女の後ろから吹きつけた。風が止んだ後に彼女がその場で振り返り、イザナの眠る墓の方を見る。もちろんそこには誰もおらず何もない。
それでも彼女は、誰も、何もないそこにむかって柔らかく微笑むと、再び前を向いて歩き出した。