現実は創作よりも奇なり




 これは、まだ現実での恋を知らなかったようなウブな二人の話。
 恋という言葉は知っていたけれど、一体それは何がきっかけで始まり、何があって進展し、何があって付き合って恋人になっていくのか、それらについては全て創作物の中で描かれているものばかりだった。だからこそ、現実での恋も同じような展開を経るのだと考えていた。

「あっ」
「あ……」

 だけど現実は創作物の中のように上手くなんていかない。現に今の二人は、偶然にも図書館の一角にある座席で会っただけで言葉を失ってしまっている。お互いリンゴにも負けないくらい真っ赤に頬を染め、視線は右往左往に泳いでいて一秒とて相手に向けられない。

 誰もいない図書館の窓は換気のためにと、ほんの少しだけ開けられていて、そこに掛かっている、図書館の縦長の窓に合わせて作られたクリーム色のカーテンの裾がふわふわと蝶々のように揺れた。裾を揺らした残暑の風が彼女の髪を揺らし、彼女の手元にある本のページを少し揺らして遊んでいく。それがどうにも綺麗で絵になっていて、つい、と彼女から顔を逸らしていた八戒は、顔を逸らしたまま目だけを何とか動かして彼女の方を見た。

「えっと……よかったらそこ、座る?」

 彼女が声を抑えて八戒に声をかける。しかし八戒は彼女の言葉に答えられず、赤い顔のまま黙ってどこかへと立ち去ってしまった。残された彼女は、八戒の姿を視線で追い、その姿が見えなくなるまで見つめていた。八戒の姿が見えなくなったタイミングで小さな溜息を吐いた彼女は、手元に開かれたままの本のページに視線を落とした。

「……上手くいかないなぁ」

 落とされた彼女の視線の先には勇気を出してカレに声をかけてみよう! ≠ニいう一文が太文字で書かれていた。
 彼女が読んでいたものは好きな人に対してどうアピールすべきか、などが書かれている恋愛指南書だった。先ほど八戒に声をかけたのも、この本の太文字の一文の内容を実践してみたからだ。結果は惨敗ではあったが。
 パタン、と本を閉じた彼女は残念そうな、そして少しだけ寂しげな視線を表紙に落としてから席を立ち、本を元の場所へ戻しに向かった。

 * * *

「柚葉ぁ〜〜!」
「八戒、アンタまた一言も喋らずに立ち去ったね?」
「だ、だって無理だよっ! あんなっ、その……か、可愛い女の子と話すのなんて……!」

 図書館の外。赤い顔のまま早足で出てきた八戒は半べそをかいて建物の屋根の下にできた日陰に立っていた柚葉の元へと駆け寄った。その様子を見た柚葉は今回も失敗したのだと分かり、額に片手を当てて溜息を吐いた。

 八戒が自分以外の女性が苦手で、まともに交流ができないのは分かっていた。それでも、八戒本人が真っ赤な顔をして「好きな子ができた」と柚葉に報告して数日後「今日は一人で行ってくる!」と言うものだから、心配したもののその背を押して送り出したのだ。だが結果は惨敗。毎回「一人で行ってくる」と宣言しては会話も出来ずに帰って自分に泣きついてくる八戒に、柚葉は毎度頭を抱えていた。

「ねぇ八戒。やっぱり次はアタシも一緒に――」
「だ、だめっ! オレ、あの子のことは一人で頑張ってみたいんだ、だから柚葉は今日みたいに待っててっ!」
「……はぁ、分かったよ。アンタがそこまで言うなら着いて行かない。でもそこまで言ったならちゃんと頑張りなよ、八戒」
「うんっ!」

 八戒は嬉しそうな笑みでそう大きく頷いた。柚葉はこんな姿を何度見たことか、と思いながらも小さく笑い、可愛い弟の頑張りを引き続き後ろから応援し、見守っていこうと思ったのだった。

 それからも八戒と柚葉は図書館へと向かった。出入り口のところまで行ったところで八戒が深呼吸を一つしてから、覚悟を決めた顔をして図書館の中へと入っていく。その後ろ姿に柚葉は「頑張れ」と小さく言葉を投げかけてから、いつもいる屋根下の日陰へ移動した。

 携帯を弄りながら八戒が戻ってくるのを待つ柚葉。そこに一人、明らかに八戒のものではない人影が近づいてきた。それに気づいた柚葉がパッと顔を上げると、八戒と同じくらいの年齢の女子が一人立っていた。

「なんか用?」
「あの……もしかして、いつもここで背の高い青髪の男の子と一緒にいる方、ですか?」
「背の高い……あぁ、うん。そうだけど、それがどうかした?」

 背の高い青髪の男の子≠ナ八戒だろうと察した柚葉がそう返答すると、彼女はほっ、と小さく息を吐いてホッとした顔をした。彼女はだいぶ緊張していたらしく、少しばかり上がっていた肩も、今は元の位置まで落ちていた。

「よかった。人違いだったらどうしようかと……。あの、一つお聞きしたいことがあるんですけど、いいですか?」
「いいよ」
「ありがとうございます。……実は私、彼の名前も知らないのですが、知らないところで彼に何かしてしまったのでしょうか? 彼、毎週土曜日の決まった時間に私のところにやってくるんですけど、声をかけるまで何も言わずにそっぽ向いたまま近くにいるんです。そして声をかけたら、弾かれたようにその場からいなくなってしまって……」

 彼女の言葉を聞いた柚葉は、八戒のあまりの不器用さと女性に対する苦手意識反応に思わずその場で大きな溜息を吐いた。それを聞いた彼女は困ったように眉をハの字に下げた。

「何かしてしまったのであれば本当にごめんなさい。私、人様の恋人≠ノ手を出す気なんて全くないのです。だから――」
「待って。アンタ今人様の恋人≠チて言った?」
「え? えぇ、はい……」
「アハハ! アタシはアイツの、その背の高い青髪の男の子≠フ恋人じゃなくて姉だよ」

 柚葉が笑いながらそう言うと、彼女は一瞬ホッとした顔をした後、自身があらぬ勘違いをしていたことに羞恥を覚え、今度は顔を真っ赤にして「ごめんなさいっ!」という勢いのある言葉と共に思い切り頭を下げた。その様子にまた柚葉が笑えば、彼女は下げていた頭を上げて視線を左右に泳がせてから俯いた。

「柚葉〜〜どこ行ってもあの子が……っ!?」
「あ、八戒。アンタが探してるあの子≠ヘここにいるよ」
「えっと……」

 おそらく図書館中を歩き回って探したのであろう八戒が図書館の出入り口から出て柚葉のところへ行けば、そこにはずっと探し回っていた彼女の姿があった。そのことに八戒は口から心臓が飛び出そうになるくらい驚き、その場で固まってしまった。
 彼女が八戒の固まり様にびっくりして上手く言葉を出せない様子を見た柚葉は、「似た者同士だなぁ」と思いながら彼女と八戒の元へ行き、肩を叩いた。その衝撃で二人はハッと我に返り、八戒は柚葉のすぐ横に、彼女はその場で顔をほのかに赤く染めながら顔を俯かせた。

「アンタら、自己紹介もしてないんでしょ? ちょうどいいし、まずはこのタイミングで自己紹介でもしたら?」
「えっ! あ、えっと……」
「……わ、私はミョウジ ナマエです」
「お、オレは……柴八戒、デス……」

 あまりにもぎこちない自己紹介だったものの、自分といても自分以外の女性とは一言とて話せなかった八戒が、自分の口で自己紹介をした。この事実に柚葉は八戒の成長を感じて微笑んでから、バシンッと八戒の背を叩いた。

「ってェ!」
「やればできんじゃんか、八戒。このまま二人で話しな。アタシは先に帰ってるからさ」
「ま、待って柚葉っ! 先帰らないでっ!」
「いや、どう考えてもこの状況はアタシ邪魔だろ。後は二人で仲良くやりな。せっかく話せたんだからさ。前々から言ってたじゃん、オレ一人で行く≠チて。今がその時なんじゃないの?」

 柚葉はそう言って自身の腕を掴んでいる八戒の手を押して腕から離した。八戒は不安の色一色の表情で柚葉のことを見ていたが、柚葉はそれに笑いかけてからその場を去って行ってしまった。

「柚葉〜〜!!」
「……あの。柴、くん」
「!! ……な、に」
「よければ近くのファミレス、行かない?」

 恋とは創作物のように上手くはいかない。指南書に書いてあることを試しても上手くはいかない。創作の中の主人公が勇気を出して踏み出したその一歩を、実際に踏み出すには思っている以上に勇気が必要で、その勇気を振り絞るのも想像しているよりもずっと難しいものだ。
 だけど同時に現実とは小説よりも奇なるもので、ずっと上手く行かなかったこともほんの些細なきっかけ、偶然によってあれよあれよと進んでいくのだ。

 ◆◆◆ ◇◇◇

 進み出せば後は上手いこと転がっていく。それが二人の関係だった。
 あの日、図書館の出入り口でナマエが柚葉と一緒にいたこと、そしてそこに八戒がやってきた。そんな些細な偶然が重なって進み始めた二人の関係は十数年経った現在、誰が見ても幸せなカップルと言うであろうカップルになっていた。

「あっ! ナマエ〜〜! ただいま〜」
「おかえり、八戒くん。今日は早かったんだね」
「うんっ! 柚葉に言って早く帰ってきた!」

 仕事から帰ってきた八戒が、キッチンに立つナマエの背後に回ってナマエの腰に両腕をゆるりと巻き付けた。こういうべったり引っ付かれることは付き合って二年後辺りからずっと続いているため、ナマエも慣れていた。なので特に驚くこともなく、動かしていた手をそのままに会話を続けた。

「うーん、それは柚葉さんが大変なんじゃ……」
「なんだよ、オレが早く帰ってきて嬉しくないわけ?」

 ぶすっとした顔をした八戒はその長身を少し丸め、夕食に出すサラダの盛り付けをするナマエの肩に頭を載せた。ナマエは三人分のサラダの盛り付けを終えたところで、軽く手を洗い、近くにかかっていたタオルで手を拭くと、自身の肩に乗る八戒の頭を軽く撫でた。

「嬉しいよ、今日は特に」
「えへへ、そうでしょそうでしょ」

 さっきの不機嫌はどこへやら。今の八戒の顔には嬉しそうな笑顔が浮かんでいる。
 ナマエと共に今日の夕食が盛り付けられた皿をダイニングテーブルへと運ぶ。今日の夕食は、久々に日本に帰ってきた八戒と柚葉のために、とナマエが腕によりをかけて作った和食が中心となっていた。

「ただいまー」
「あ、柚葉さんだ。おかえりなさい!」
「おかえりー、柚葉」

 ちょうど夕食のセッティングが完了したところで、柚葉が帰ってきた。少し疲れた表情をしていた柚葉だったが、テーブルに置かれた夕食を見ると疲労の色が消え、瞳を輝かせた。
 そう、夕食が和食になったのは柚葉の希望があったからだったのだ。もちろんナマエ本人が、久々に日本に帰ってくるから和食を、と考えていたのも事実だが、それと同時に柚葉からも要望が来ていたのだ。

「わぁっ、やった! ありがとう、ナマエ!」
「お礼を言われるようなことじゃないよ。私も作ろうかなって考えていたし。さっ、冷めちゃうし早く食べよう」
「うんっ!」

 三人がそれぞれの茶碗と箸が置かれた場所に座り、三人手を合わせる。その後「いただきます」という三人の揃った声がリビングに響いた。

 * * *

「ナマエ、そろそろアレ出そうか」
「うん、そうだね」

 夕食を終えて少し経った頃、ふかふかで大きなソファの肘置きを背もたれにして、だらりとした姿勢で三ツ谷のインタビューが載った雑誌を熱心に読んでいる八戒を一瞥した柚葉がナマエにそう声をかけた。ナマエはそれに頷き、冷蔵庫に事前に入れておいたアレ≠取り出した。
 ダイニングテーブルの上には柚葉が並べた小皿とフォークがある。そこにテーブル中央のスペースにナマエが冷蔵庫から取り出したアレ≠置いたところでナマエが未だ雑誌を読む八戒に声をかけた。

「八戒くん!」
「……」
「八戒くーん! おーい!」
「……はっ! ごめんナマエ! どうかした?」
「もう、忘れちゃったの? 今日は八戒くんの誕生日でしょ。ケーキ、食べない?」
「食べるっ!」

 八戒は読んでいた雑誌を閉じて近くのローテーブルの上に置くと、跳ね返るようにソファから起き上がり、脱いでいたスリッパに足を突っ込んでパタパタと音を鳴らしながらテーブルのところへとやってきた。

「じゃーん。お誕生日おめでとう! 今年は柚葉さんと相談してイチゴのタルトにしてみました!」
「わぁっ美味しそう! 二人ともろありがとう!」
「んじゃ切り分けるか。三等分だと流石に大きい、よね。四等分でいい?」
「うん、そうだね。余ったケーキは食べ終わった後にどうするか決めよう」

 柚葉が包丁でタルトを四等分に切る。四つに切れたタルトを一つずつ小皿に移してそれぞれに配ったところで席に着いた。
 タルトの上に載ったイチゴはどれも大粒で、上にかかったゼリーのようなものがイチゴに更にツヤを与えて宝石のように煌めいている。八戒の瞳がその煌めきを反射したようにキラキラした状態で、自身の前に置かれた一ピースのタルトを見つめていると、そのタルトの上にそっと白い板が載せられた。
 板の上は最初からケーキの上に載っていたホワイトチョコのプレートで、カラフルなデコレーションがプレートを縁取っている。そしてその中央にはHappy Birthday Hakkai≠ニ焦げ茶色の筆記体が書かれていた。

「写真撮る?」
「撮る! あ、ナマエはこっちね」
「え、あぁうん。分かった」

 八戒に手招きされたナマエが八戒のところへ行くと、流れるように八戒の膝の上に座らされ、後ろから抱きしめられた。二人の正面でスマホを構える柚葉は心做しか楽しげな笑みを浮かべている。

「八戒、ナマエ。準備はいい?」
「いいけど、これじゃあ写真に私たちしか写ってないよ」
「いーのいーの。三人のはまた後で。まずはアンタたち二人の写真だよ。準備はいい? 撮るよ」
「ナマエ――」

 柚葉の「はいチーズ」のコールとほぼ同時にそれは起きた。八戒から名前を呼ばれたナマエが反射的にそちらを向くと、ふに、と唇に何かが触れた。それが何なのかを理解する前にカシャ、というスマホのカメラのシャッターが切られる音がナマエの耳に届いた。八戒にキスされたのだ、ということを理解したのは全てが終わり、ニコニコと可愛らしい笑顔を浮かべている八戒の顔が見えたタイミングだった。

「な、なっ!」
「不意打ち大成功〜。えへへ、びっくりした?」
「ちゃーんと写真も撮れてるよ」
「柚葉さん!? まさか、八戒くんと手を組んで……?!」
「……悪いね。可愛い弟からの頼みだったから、断れなくてさ」
「ねぇねぇナマエ。今年のプレゼントはさ、今日の夜から明日一日までのナマエの時間がいいんだけど……いい?」

 甘えるような声色と、それとは裏腹の少々の夜の気配がある手つき。そしてほのかに熱を孕んだ愛らしい垂れ目がナマエの心も視線も感覚も、全て奪う。甘ったるい空気が八戒とナマエの周りを包み始めていく中、完全に自身の存在を忘れられているな、と察した柚葉がわざとらしく大きな咳払いをした。そこで二人はハッと二人だけの世界から現実へと戻ってきたと同時に一気に理性が働き、先ほどまでのやり取りを思い出して、それぞれ顔から耳先までを真っ赤にした。

「ったく。そういうの・・・・・は、せめてコレを食べ終わってからにしな」
「「は、はい……」」

 ナマエが八戒の膝の上から降り、そそくさと自席へと戻る。ナマエが席に着いたタイミングで改めて三人でケーキを食べ始めた。

 * * *

 ケーキを食べ終え、諸々の片付けを終えたところで柚葉が「地元の友達と約束してるから、後はお二人でごゆっくり」と言って、家を出て行った。その時の柚葉の意味深な笑みを見たナマエは視線を左右に泳がせながらも、あたかも何も知らないという雰囲気で家を出て行く柚葉の背を見送った。
 家に残った八戒とナマエは、お互いのことを意識しつつもどちらも手を出さず、切り出しもせず、微妙な間隔をあけて並んでソファに腰掛けて対して興味のないテレビ番組を流していた。

「……あの、さ」

 流していた番組が終わり、CMに入ったタイミングで八戒がナマエに声をかけた。ナマエはぴくりと肩を少し震わせてからゆっくりと八戒の方を向いて「どうしたの?」と返答した。
 ごくり、と八戒が唾を飲む。ナマエは滑らかに波打った八戒の喉を見て思わず視線を泳がせた。その仕草が照れている時のものだとよく知っている八戒は、ナマエとの間にあった間隔を一気に詰めた。自身の体を片腕で支え、空いているもう片腕をナマエの方へと伸ばす。じわじわと顔の赤らみを取り戻していくナマエの頬にそっと手を添えれば、ナマエの視線は一瞬八戒に向いたと思えば下に下がり、また一瞬八戒に向いたと思えば今度は右にズレた。

「ナマエ……触っても、いい?」

 真っ赤な顔をした八戒が確かな熱を孕んだ瞳で真っ直ぐナマエを見つめてそう問い掛ければ、あちこち泳いでいたナマエの視線が八戒の視線と交わった。こくり、とナマエが小さく頷いたのを合図に、二人の距離はゼロとなった。

「ナマエ、好き。大好き」
「私も、八戒のこと大好き。生まれてきてくれてありがとう。来年もお祝い、させてね」