名前を知らない想い人



今日は佐野万次郎の誕生日だ。
かつて一緒にバカをやった仲間たちは、万次郎を含めて皆大人になり、それぞれ色々な場所で働く社会人となっていた。

「今日のレースも快勝だったな」
「流石マイキー!」

貸し切りとなっている居酒屋は、それなりの広さがあるというのに、今はどの席も全部埋まっていてどうにも狭く感じるくらいだった。そんな中、万次郎は酔っぱらった仲間たちにもみくちゃにされながら、誕生日と今日のレースの優勝を一緒にお祝いされていた。

今でこそ仲間たちの中で楽しく笑っているが、彼はかつて愛した人を沢山失った。大切な存在も沢山手放し、自分が笑える未来を全て手放していた。だが、闇の中に沈んだ彼の手を掴んだ、一筋の光のような存在の、死に物狂いの努力。そして彼自身がようやく発した「助けて」という一言、それらのおかげで彼はこうして皆と笑い合える未来を生きることができていた。

だがそれでも、彼はまだ一人だけ出会えていない大切な人がいる。ここまでの道のりで探し続けても出会えなかったその人は、彼が闇に落ちる世界線の中で出会った人だった。

◆◆◆ ◇◇◇

特別目立つわけでもなかったその人と万次郎の出会いは、道案内だった。
初めて渋谷を訪れたその人が、道に迷ってい所に万次郎が偶然通りかかったのだ。彼自身そのまま素通りしようと思っていたが、その人が彼を見つけ、声をかけた。これが二人の出会いだった。

その人はどうやら方向音痴で地図を読むことも苦手だったらしく、近くの交番で道を教えてもらったものの、途中で迷子になり途方に暮れていた。そこに偶然通りかかった彼を見て「ここで聞かなきゃ!」と思い、とっさに声をかけたのだ。

最初こそ万次郎も面倒くさがってはいたものの、いつもならフォローしてくれるドラケンもその時に限っておらず、仕方なくその人が握っていた、警官の手書きであろうメモ用紙を取り、道案内をすることにした。

後日その話を聞いたドラケンは、大笑いしながら「マイキーが、道案内を?それも知らねー女の?」と言った。
ヤンキーだからと言っても、万次郎は「女やカタギには手を出さない」という決まりを自分にも、そしてチームのメンバーにも徹底していた。だから、ドラケンが笑ったことは、女性に優しくしたという面ではない。
正しく言えば、普段は面倒くさがりで、面倒なことなんてやりたがらない万次郎が、たまたま近くを通っただけで声をかけられ、道案内をお願いされ、承諾した。この一連の流れだった。

笑われている本人の万次郎は、ぶすーっと[#ruby=不貞腐_ふてくさ]れた様子でグラスに注がれたジュースに刺さったストローをくわえていた。

「オレだってなぁ、人の道案内くらいするっつーの。この辺ならバイクでも走ってるから、庭みえーなもんだろ」
「いや、庭ってのは分かるけどよ。……くくっ。テキトーに言ってからどっか行っちまうど思ってたからよ、律義に場所まで案内してやるなんて、オレには想像もつかねぇ」
「ケンチン、オレのことなんだと思ってるわけ。オレだってそれくらいはするから。たまには」

その言葉に、ドラケンはまた大笑いした。

結局彼女と万次郎はそれ以降会うことはなかった。ただ一つ、彼が持っている彼女に関するものは、道案内をして目的地まで送った後、別れ際にもらった栗まんじゅう一つだった。
本来は箱に並べて入れられていたであろうそれは、彼女が間食にしようと買って持っていたものだったらしく、薄く透明なセロファンに包まれているだけだった。

「ごめんね、他にいいものがなくて。でもあなたのおかげで本当に助かった、ありがとう!」

彼女が嬉しそうに笑いながらそう言って、目的地だった小洒落た飲食店の中へと入っていった。
受け取った栗まんじゅうを片手で軽く投げ、それをまた片手で受け止める。そうやって栗まんじゅうは彼の手によって、何度も宙を舞った。

その日以降、万次郎はたびたび、また同じように道に迷っている彼女を見かけ、その度に目的地まで案内をしていた。
万次郎の性格からしても、気が向いて一回やったとて、二回目もやるとは限らない。むしろやる方が珍しいかもしれないだろう。
だが、万次郎は彼女からのお願いを断らず、ちゃんと案内をしていた。そしてお礼は、またもや栗まんじゅうだった。

「オマエ、いつもこれくれるけど、持ち歩いてんの?」
「うん。私、それ好きでね。間食としてもぴったりの量だから、結構持ち歩いているんだ。……もしかして、嫌いだった?」
「いや?うめーし、嫌いじゃねーよ。ただ毎回渡してくるから、気になっただけ。じゃーな」
「そっか、それならよかった。ありがとう!」

お互い名前も知らない関係だった。だが顔を見れば、後ろ姿を見れば、すれ違えば、お互いに気づくくらいに相手のことを覚えていた。
名前は知らない、でも姿と顔、声、香りは覚えている。名前の付け難い、不思議な関係だった。

だがそんな関係も少しずつ壊れていく。
東卍が他のチームと抗争を始めた頃だった。その時には既に、二人は初めまして、から随分と経っていた。案内が終わってから多少の雑談をするくらいの仲だった。だが少しずつ、音もなくかすかに、二人はすれ違い始めた。

元々二人の自宅は少し離れた場所だったため、普段は会うことがない。しかし、彼女の友人が万次郎の自宅のある地域に住んでいるらしく、友人宅に遊びに行くときだけ、二人は会うことができた。

ちょうど彼女が勉学に本腰を入れ始めた時期でもあったため、彼女が友人の元へ遊びに行く機会が減ったこと。そして、彼が抗争の中で大切な人を失ってしまったこと。この二つが重なってしまったのだ。

そうして、二人は二度と会うことがなかった。
名前も知らない、だけど少しだけ特別な感情を抱いていた二人は、再会しないまま世界が[#ruby=違_たが]い、彼女の知らないところで彼は死んだのだった。

◆◆◆ ◇◇◇

相変わらず騒がしい店内を背に、外の風を吸うために外に出た万次郎。扉を開けて外に出れば、室内とは違って少し生ぬるい夜風が彼の頬を撫で、黒髪を揺らした。

「……アイツ、どこにいるんだろ」

ぽつりと零れ落ちた本音。仲間たちとの机を囲み、おめでとうの言葉と一緒に盛り上がる。それはそれで楽しいことではあったが、やはりどうしても、名前の分からない彼女のことが引っかかって仕方がなかった。

ふと、夜空に向けていた視線を下へ落とす。時間も時間なので、会社帰りの人たちがせわしなく通り過ぎていた。その中でひとつ、彼の視界に入った人の姿があった。

その姿を見た彼は、目を見開いた後すぐに駆け出した。人をかき分けるようにして進んでいくと、先ほど視界に入った人の後ろ姿が見えた。

「待って!」

とっさに手を伸ばし、前にいるその人の手首を掴む。掴まれたその人は、驚いてびくりと肩を揺らした後、ゆっくりと後ろを向いた。
その人の顔が見えたとき、万次郎は言葉を失った。その人こそ、彼がずっと探し続けていた彼女だったからだ。

「あの……何か?」
「突然掴んでごめん。……オレ、ずっとオマエのことを探してた。ずっと、オマエに会いたくて、もう一回話がしたくて、探してたんだ」

言いたい言葉は沢山あった。会った時に言おうと思っていた言葉もあった。だけど、ようやく会えた喜びと感動も相まって、感情と言葉が一気に溢れ、彼の喉元でつっかえてしまった。
その中でも、どうにか絞り出した言葉が先ほどのものだった。おそらく、多くの人は今の彼に不信感を抱き、掴まれた手首を振り払って逃げるだろう。もしかしたら警察に駆け込むだろう。

だが彼女は、そんなそぶりを見せなかった。むしろ体ごと彼の方を向いた。

「変なことを言ってるのは分かってる。だけど本当に――」
「私も、多分あなたのことを探していました。ずっと」

彼女はそう言って微笑み、空いている手を万次郎の手に重ねた。

「名前も顔も声も、どんな人かも分からない。でも、ずっと心にいる。子供のころから、そんな人がいました。おかしな話でしょう?でも今、ようやく分かりました。私の心の中にいた人は、きっとあなたです」

彼は少しだけ目を潤ませると、人目も気にせずに彼女を引き寄せて思い切り抱きしめた。
突然抱きしめられた彼女が驚いているのも露知らず、彼は抱きしめたまま、ずっと言いたかった言葉を口にした。

「大好き」

彼女はその言葉に答えるように、彼の背に腕を回した。