噂は真実へ




「痛ッ!」
「大丈夫か?!」

 ある日の手芸部。いつもの程よい緊張感がありつつも穏やかな空気の中に、突然小さく鋭い悲鳴があがった。
 部長である三ツ谷はすぐにその声に反応してミシンを止めると、声をあげた部員、ポロポロと涙を流している一つ下の後輩の女子生徒の元へと駆け寄った。

「部長、すみません……。糸切りバサミで切ってしまって……」
「結構深く切っちまってるな……。今止血する」

 後輩の子の人差し指の傷口からは、ドクドクと脈に合わせて血が溢れてきていた。傷口の大きさはパッと見そこまでではないものの、深々と切ってしまったことで結構な出血量となってしまっていたのだ。そのため、その出血量に周りの部員たちは皆驚いて固まってしまっていた。
 対して普段喧嘩などで傷も血も見慣れた三ツ谷は、ポケットから自分のハンカチを取り出すと、それを後輩の人差し指にぐるりと巻き付けて強めに握った。その強さに驚いた後輩が思わず肩をびくりと振るわせる。それを見た三ツ谷はあっ、という顔をしてから後輩に「驚かせて悪い」と謝った。

「とりあえずオレはこの子を連れて保健室まで行ってくる。血は……制服には垂れちまったけど、床とかには垂れてないな。皆は作業を再開してくれ」
「すみません、ご迷惑を……」
「気にすんな。とりあえず保健室に着くまでは圧迫止血のために強く握るから、痛かったら言ってくれ」
「はい……。ありがとうございます」

 三ツ谷はまだ少ししゃくりをあげる後輩を落ち着かせるために背中をさすりつつ、ハンカチを巻きつけた後輩の人差し指を握って部室を出て行った。

 * * *

「落ち着いたか?」
「はい……」

 後輩の歩みに合わせて少しゆっくり歩く三ツ谷がそう声をかける。後輩はだいぶ落ち着きを取り戻しており、目元や鼻先の赤らみは残っているもののしゃくりはなくなっていた。
 幸いにも部室から保健室まではそう遠くはなく、あとは視線の先にある階段を降りていけばすぐだった。
 患部を後輩本人の心臓よりも上にして握りしめつつ、ゆっくり一歩一歩階段を降りていく。もう少しで保健室のある一階に辿り着くというところで、少し遠くの方から男女の話し声が聞こえてきた。おそらく何かしらの理由で残っていた生徒たちだろう。

「あははっ! ……あっ、ねぇ! あれ見て」
「んあ? ……あっ。アレって確か……隣のクラスの三ツ谷だよな?」
「で、あの隣は一個下の可愛いって有名な子じゃない?」
「おいおいマジかよ……!」

 三ツ谷と後輩が二人で並んで保健室に向かっている後ろ姿を、下駄箱付近でたむろっていた男女四人のグループが見つけた。四人は二人の距離がとても近いこと、そして三ツ谷が後輩の子の手を握っているところを見て実は二人はこっそり付き合っていたのではないか≠ニ盛大な勘違いをした。
 もちろんそんなことは一切ない。三ツ谷はただ後輩の傷を圧迫止血しているにすぎないし、距離が近いのはそうやって止血しながら歩いているからだ。しかし遠目から見ると、二人は仲睦まじそうに距離を縮め、手を繋いで歩いているように見えてしまった。

「アイツらいつから付き合ってたんだ……?!」
「まぁでも三ツ谷って顔良し性格良し、加えてオシャレで家事もできる。言わば超理想的な男じゃん?」
「そりゃあ可愛い彼女の一人や二人いてもおかしくないよね」
「確かに! しっかしオレたち、すっげーところ目撃しちまったな……!」

 四人はその盛大な勘違いをしたままワイワイ大盛り上がりして帰っていった。そんなことも露知らず、二人は保健室へと入って行った。

 ◆◆◆ ◇◇◇

 次の日。ナマエが自分の教室に入ると、いつもとはちょっと違った騒めきでクラス内が満たされていた。何があったのか全く知らない彼女は、自席の隣にいる友人の女の子に声をかけ、何があったのかと尋ねた。すると友人はとても言いづらそうな表情をしつつも、小声でこの騒めきの理由を教えてくれた。

「隣のクラスの三ツ谷、一つ下の後輩の、可愛いって有名な女の子と付き合ってたらしいの」
「え……?」

 友人のその言葉に、彼女は言葉を失った。
 ナマエはこの渋谷第二中学校に入学した当初から三ツ谷のことが好きだった。しかしあの三ツ谷のことだ、同級生からも上級生からも、そして進級してからは下級生からもモテた。それ以前に彼の人間性もあって男女関係なく慕われていた。そのため彼はいつだって誰かと一緒にいることが多く、また呼び出し(という名の告白)も多かった。
 彼女は三ツ谷のことが好きではあったものの、彼に告白する勇気も出ず、そして勇気を持つための自信も持てず、大きくなっていくだけの好意を抱えたまま三年生を迎えていた。

「あくまで噂! 噂だから! ね?」
「うん……」

 ナマエが三ツ谷のことをずっと好きであることを知っている友人は、なんとか励まそうとそう言葉をかけた。しかし彼女の気持ちは既に急転直下にマイナスへと落ちてしまっていて、友人の励ましの言葉もただただ虚しくさせるだけだった。
 さらに、そこに追い討ちをかける言葉がナマエの耳に入ってきた。

「三ツ谷と後輩の子、どっちも美男美女だからすっごいお似合いでさ〜!」
「まさに理想のカップル≠チて感じだったよな!」

 追い討ちにしてはあまりにも痛すぎる言葉。傷口に粗塩を揉みこまれたくらいの追加ダメージを食らってしまったナマエは、あまりの辛さに「お手洗い、行ってくるね」と友人に告げ、足早に教室を出て行った。

 * * *

 一方三ツ谷と付き合っているのでは?!≠ニいう大変な勘違いから生まれた盛大な噂の被害を受けている人がここに一人。それは三ツ谷の彼女≠ニ噂の中で言われている一つ下の後輩だった。彼女は根も葉もない噂のせいで、学校に来てから何人もの同級生たちから「いつ三ツ谷先輩と付き合ったのか」や「付き合ってどれくらい?」などと同じような質問ばかりを投げられてほとほとうんざりしていた。
 当の彼女は三ツ谷のことを慕ってはいたものの、それはあくまでも部活の先輩=Aそして部長≠ニしてだった。もっと言うと、彼女は三ツ谷のことを恋愛対象として全く見てもいなかった。

「だーかーら! 私は三ツ谷先輩とは付き合ってないって言ってるでしょ?!」
「えぇ〜? 本当? だって噂じゃ二人手を繋いで步いてた≠チて話だよ?」
「それはこれ! この怪我! 思ったより出血してたから、三ツ谷先輩が自分のハンカチで包んで圧迫止血してくれただけ!」

 いい加減しつこいと腹を立て始めた彼女は、その根の葉もない噂の火消しをすることにした。どれだけ同じ説明をすることになるかは分からないが、人の噂も七十五日という。それまで悠長に待っている気などサラサラないが、こちらが噂を事実で訂正して否定し続ければ自ずとこの噂も鎮火するのではないかと思った。
 後は単に、善意で自分の対応をしてくれた三ツ谷に悪いと思った。

 後輩はその日一日、ひたすらに片っ端から噂を否定し訂正し続けて行った。すると、とある同級生から「三ツ谷先輩も同じようなことを言ってた」という言葉を聞いた。彼女はその言葉を確かめるために放課後、いつもより少し早めに部室に行き三ツ谷を待った。

「あれ。怪我が治るまでは部活休むんじゃなかったか?」
「そうなんですけど……。今日うんざりする程聞いた私と三ツ谷先輩の噂のことでお話がありまして」

 彼女がそう切り出すと、三ツ谷は少し疲れたような表情をして「あぁ、あれね……」と言葉を漏らした。

「アレ、ちょうどオレも話がしたかったんだわ。今部室開けっからちょっと待ってて」
「はい。ありがとうございます」

 三ツ谷が鍵を開けて引き戸を開け、先に後輩を入れるとその後後輩が入った。
 部室に入ると、いつもならそのまま引き戸をちゃんと閉めるはずの三ツ谷が閉めずに開けっ放しにしていた。気になった後輩がそれについて尋ねると、三ツ谷は「こうしておいた方が、怪しくないだろ?」と答えた。

「それにほら、下手に密室にしてたら噂の信憑性が増すだろ? だからこうして扉を開けっ放しにして、扉の一番近い席に座って話せばいいんじゃないか、って思ってな」
「なるほど。……ということは、やっぱり三ツ谷先輩も噂の火消しを?」
「あぁ。ったく誰だよこんな適当なこと言い出したヤツ……。ごめんな、オレのせいで変な噂に巻き込んじまって」
「いえいえ! こちらこそ、応急処置をしてもらっただけなのに変な噂になってしまってごめんなさい。……それから、あの時はありがとうございました」

 そこから二人は、どうやってこの噂の火消しをするかを話し合った。お互い噂のことを聞かれたり言われたりしたら、正しい情報で訂正していくしかない。という考えは一致していたので、それは前提として、ちょうど彼女が怪我でしばらく部活を休むため、お互いの距離も遠くなるはず。しかし帰りなどのふとしたタイミングでバッタリ会った時には、必ずスルーしたりして距離を取ろう。と決めた。

「ではお互い頑張って火消ししましょう」
「あぁ。さっさとこんな噂、消してやろうぜ」
「はい!」

 そこで二人は別れた。彼女は自分と同じく噂の中心人物にさせられてしまった三ツ谷も、自分と同じように火消しをしていることに安堵し、改めて噂の火消しに気合いを入れることを決意した。
 一方部室に残った三ツ谷もまた、後輩が自分と同じように火消しを行っていることにとても安堵していた。何せ彼には中学入学当初からずっと片想いをしている相手がいるからだ。

「噂、アイツもぜってー聞いてるよなぁ……」

 大きなため息が三ツ谷の口から吐き出された。

 ◆◆◆ ◇◇◇

 三ツ谷と後輩が付き合っている、という噂が流れて一週間が経った。噂は三ツ谷と後輩の二人が必死に火消し活動を行ったことにより、何とか落ち着いていた。しかし、ナマエは今もなお憂いを抱えたままだった。

「ねぇナマエ。あの噂、嘘だって二人が言ってるらしいよ?」
「そう……」
「だからさ、まだチャンスはあるって。ね?」
「……うん」

 友人がナマエを必死に励ますも、彼女の気持ちは変わらなかった。
 彼女は噂を聞いたその日から、身を引くことを決意した。そして必死に自分が積み重ねていって大きく成長してしまった、三ツ谷への恋心を必死に必死に押し殺し、飲み込んで封印してしまおうとしていた。それは行動にもしっかり現れていて、彼女はあからさまに三ツ谷を避けていたのだ。

「そろそろ部活も忙しくなるんでしょ? 本当にこのままでいいの?」
「いいんだよ。……もう、いいの」

 三ツ谷と後輩の二人が噂を否定していることは人伝てだが聞いていたので知ってはいた。しかしそれとは別に、彼女の心に大きく刺さっている言葉があったのだ。

『三ツ谷と後輩の子、どっちも美男美女だからすっごいお似合いでさ〜!』
『まさに理想のカップル≠チて感じだったよな!』

 自分に自信がなかったナマエにとって、この言葉は強烈だった。噂を聞いた後にたまたまその噂の後輩の姿を廊下で見かけた時、その可愛らしい容姿に打ちのめされてしまった。そして「あぁ、確かに三ツ谷とお似合いだ」と思ってしまったのだ。
 自分が三ツ谷の隣に並ぶ姿と、後輩が三ツ谷の隣に並ぶ姿を順番に思い浮かべ、明らかに後者の方が絵になる。それこそお似合い≠ナ理想のカップル≠セと思った。自分なんかが彼の隣に立てるはずがなかったのだ。そう思ったら途端に、数年抱えた恋心が彼女を押し潰さんばかりに重くなり彼女を酷く苦しめた。
 その苦しみに耐えられないと思ったから、彼女はこの恋を押し殺して自分の奥底に封印することを決意したのだ。

「私はナマエと三ツ谷の方がずっとお似合いだと思うよ」
「ありがとう。でももういいよ。その言葉、今はもう辛いだけだから……」
「ごめん……」

 自分は本当に面倒臭いやつだ、とナマエは思った。だけど辛いのだから仕方ないじゃないか、と泣き叫ぶ自分もいて、更に胸が苦しくなった。そんな彼女の姿を見ていた友人は、どうすればいいんだろうと頭を抱えることしかできなかった。

 * * *

 近々大きなコンクールを控えているため、吹奏楽部は早くから朝練をやり、放課後は最終下校時刻のギリギリまで練習を行なっていた。その吹奏楽部に所属しているナマエは、今回メンバーに抜擢されていたためみっちり朝も放課後も練習をしていた。その結果、自然と三ツ谷とも会う機会が減っていた。
 三ツ谷は家に幼い妹が二人おり、母親は仕事で帰りが遅い。そのため妹二人の面倒を三ツ谷が見ており、家事の担当も三ツ谷だ。そのため彼は部活を行ってはいるものの、吹奏楽部の終了時刻よりかはずっと早く帰っていた。そうでないと買い出しや夕食などが間に合わないからだ。

 だがしかし、今日に限って顧問の先生の都合により部活が早く終わることになってしまった。

「はぁ……」

 各教室の窓から差し込む夕焼けに照らされながら、ナマエは一人肩を落として下駄箱へと向かっていた。この時間帯だと、もしかすると三ツ谷がいるかもしれないからだ。絶賛彼への想いを押し殺し、彼を諦めようとしている彼女にとってそれは、今一番避けたいことだった。
 ナマエと三ツ谷の教室は隣同士。そしてクラスごとに固まっている下駄箱、これはちょうど二人のクラスのそれが向かい合っている。もし仮に彼が帰宅するその瞬間だった場合、彼女は嫌でも三ツ谷と顔を合わせることになる。そして更に、二人の帰り道は途中まで同じなため、別れる地点まではどうやっても一緒にいることになってしまうのだ。
 以前だったらそれがとても嬉しくて、わざわざそれを狙っていたりもしたが、今の彼女にとっては逆に辛いだけだった。だから下駄箱で鉢合わせになることだけは避けたかった。

「……よ」
「あ……」

 下駄箱に到着した時に三ツ谷の姿がなく、彼の下駄箱にはまだ外履きが入っていた。つまり彼はまだ校内にいるということ。それならば彼が来る前に急いで帰ってしまえばいい。そう思っていたのに、彼女が外履きに履き替え、脱いだ上履きを下駄箱にしまおうとしたその瞬間に三ツ谷がやってきたのだ。
 気まずい沈黙が二人の間に流れる。だがその沈黙を破ったのは、沈黙に耐えきれなくなったナマエだった。彼女はしまいかけていた上履きを下駄箱にしっかりと入れ、そのまま逃げるために走り出そうとした。

「待ってくれ!」

 焦ったような声色をした三ツ谷の声が背中に投げられた。走り出そうと一歩前に踏み出したナマエの足が止まる。早くここから立ち去らなければ。でないと押し殺そうとした想いが、諦めようと思った恋が、再び大きくなって自分の中を埋め尽くしてしまうから――

「頼む、逃げないで。ナマエ」

 懇願するような声、そして少し弱々しく掴まれた手首。振り解いて逃げようと思えば逃げられるのに、ナマエはどうしてもそれをすることができなかった。
 気づいてしまった。分かってしまった。自分はやはり三ツ谷のことが好きで、それを押し殺すことも諦めることもできないのだと。

「……わかった」

 弱々しく捕らえられたナマエが発した言葉は短い一言だった。

 * * *

「こうやって一緒に帰るの、なんか久々だよな」
「……そうだね」

 ありふれた話題が振られ、当たり障りのない答えをする。そして会話が終わった。あまりにも気まずい雰囲気だというのに、どうしてかお互い歩みが早くならなかった。
 その後、三ツ谷が言葉を続けることもナマエが言葉を続けることもなく、気まずさの残る沈黙だけが二人の間に広がっていた。

 ナマエはどうすればいいのか必死に考えていた。逃げ出したい気持ちは余るほどあるのに、どうしてか体が動いてくれない。だけどこんなにも気まずい空気の中に居続けるのはとても辛い。どうしたらいいのやら。考えれば考えるだけ考えが堂々巡りをしていくので、彼女は目が回りそうになっていた。

 対して三ツ谷は、ナマエに話したいことや伝えたいことが山盛りあることで言葉が渋滞を起こし、喉から出なくなっていた。どの言葉だって彼女に避けられ始めてからずっと、伝えたいと思っていた言葉ばかりのはずだった。だが、今こうして伝えられる絶好のタイミングのせいで、今まで伝えられずにいた言葉たちが俺が俺が、と主張をし出て行こうとするから喉の奥でつっかえて言葉が出てこないのだ。

 黙ってゆっくりと歩いている中、意を決した彼女が口を開いた。

「噂になってた後輩の子、少し前に廊下で見かけたんだけど、可愛い子だね」

 それは三ツ谷が彼女の口から聞きたくないと思っていた、あの噂に関するものだった。
 隣を歩く彼女の方へバッと三ツ谷が視線を向ける。視線が交わらないナマエの横顔は、とても寂しげだった。

「あの噂は――」
「私もお似合いだと思った。噂通り、三ツ谷とあの子はお似合いだよ。まさに美男美女の、理想のカップルだね」

 そこで彼女は言葉を切った。その切り方はなんだか無理やり切ったようにも思えた。まるでその先に続く言葉を飲み込んだような――そんな切り方だった。
 三ツ谷はその言葉を受け、その場で足を止めた。彼が止まったことに一歩遅れて気づいた彼女が、彼の一歩前で立ち止まって振り返る。眩しいほどの夕焼けが二人を照らして、二人の足元には落っこちてしまいそうなくらい真っ黒な影が伸びている。

「……んで」
「え?」
「なんで、そんなこと言うんだよ」

 三ツ谷の顔は寂しげで悔しげで、ナマエは驚いた。どうして彼がそんな顔をするのか、理由が全く分からなかったからだ。
 自分は確かに褒めたはず。言葉も彼を傷つけたりするようなものではなかったはず。それなのにどうしてこんなにも傷付いた顔をしているのか。彼女の頭の中に疑問がぐるぐる回りだし、再び目が回りそうな感覚が襲ってくる。

「いや、その……。本当に二人がお似合いだなぁって思ったから、そう言っただけ、で……」

 言葉を発していく度に言葉が詰まり、終わりにつれて尻すぼみになっていく。言葉を発し、続けていく度に三ツ谷の表情が曇っていく。それにつられて彼女の心がギュッと締め付けられるように苦しくなり、上手く言葉を発せなくなっていった。
 どうして、と言いたかった。なんで、と聞きたかった。三ツ谷がそんな表情をする理由が皆目見当がつかなくて、でもその表情に自分の胸がどんどん締め付けられて苦しくなっていく。どうすればこの表情を元の、自分の好きな表情に戻すことができるのか、何を言ったら彼の憂いを払えるのか。考えが彼女の頭の中をぐるぐると巡る。この十数分の中でどれだけのことが彼女の頭の中をぐるぐる巡ったのだろうか。

「……ナマエはさ、オレが噂になってた後輩の子と付き合ってもいいの?」

 ◆◆◆ ◇◇◇

 あの噂が流れたのは本当にタイミングが悪かった。なにせ入学した当初から想いを寄せていた彼女に、いつこの気持ちを伝えようかと考えていた矢先のことだったのだ。本当に、本当にタイミングが悪いとしか言いようがない。
 ……いや、オレもオレでひよって告白出来ずにいたことも悪かった。部活もクラスも違う上に、彼女の所属する部活はオレのいる部活よりも忙しい。しかし、偶然にも彼女と帰り道が途中まで一緒だったから、時間さえ合えば一緒に帰れた。その偶然により少しずつ築いてきた良き友人≠ニいう関係を壊す可能性のあることをするのを、ほんの少しだけ躊躇ってしまったのだ。
 そんなことさえしなければ、もっと早くに気持ちを伝えられていたというのに。

 あの噂が流れた時、一番初めにオレの頭に浮かんだのは彼女のことだった。……後輩のあの子には悪いとは思うが、あの噂を聞いた彼女がオレから離れていってしまうかもしれないという方がオレにとっては重大なことだった。
 自惚れかもしれないが、彼女も少なからずオレに気があると思っていた。いわゆる脈アリというやつだ。ただ、彼女の所属する吹奏楽部は顧問の先生がかなり厳しいことで有名で、コンクールが近づくに連れて練習もハードなものになっていた。そのため、オレの細やかな楽しみの時間であった彼女と一緒に帰る時間も、ここしばらくは全くと言っていいほどなかった。

 どれもこれも、今となっては全部言い訳にしかならない。ひよって、一歩その先に踏み込むことができなかったオレが悪いだけ。このぬるま湯のように優しくて穏やかで居心地がよかった、ちょうどいい関係≠ノ甘んじていたオレが悪かっただけだ。
 だから彼女から「後輩の子とお似合いだと思った」という言葉を受けても仕方がない。彼女は遠慮をするタイプだから、ああいう噂≠聞いたらそういう言葉をかけてくるだろう。だけど、それがオレは嫌だった。
 何より彼女にそんな言葉を吐かせてしまったオレ自身が、本当に嫌だった。

「オレが噂の火消しをしてたのは知ってるよな?」
「……そういう話は、友達から聞いてはいたよ」
「オレがなんで必死に火消しをしてたか、知ってる?」
「それはその……恥ずかしかったからとか?」
「そんなくだらねェ理由じゃねェよ」

 彼女との間に空いていた一歩分の隙間を埋める。彼女にこんな辛そうな顔をさせてしまった自分を殴りたい衝動に駆られたが、今はそんなことをしている場合ではない。

「ナマエに伝えたいことがある。あともう少しだけ、オレに時間をくれないか?」

 その言葉に、彼女は控えめに頷いてくれた。

 * * *

 近くの小さな公園のベンチに並んで座る。時間が時間なので、あちこちからひぐらしの鳴き声が聞こえる。そして少し離れたところではルナとマナとあまり変わらない年齢の子たちがはしゃいでいた。
 彼女はオレの隣に控えめに腰掛けていて、肩にかけていたバッグを膝の上に抱えるようにして置いていた。視線は少し下げられていてオレの方は向いてくれていない。

「ナマエ、さっきの質問の答えを教えてほしい」
「さっきの質問、って……」
「オレが噂になってた後輩の子と付き合ってもいいのか≠チて質問。ナマエの本音を教えてほしい」

 彼女がバッグを抱える腕に力を込めた。バッグが少しだけひしゃげる。横顔はとても辛そうで、苦しそうで、今にも泣き出してしまいそうに思えた。
 それでも、オレは彼女の口からちゃんと聞きたかった。彼女が押し殺したのであろう本音を。

「私の本音は、さっき言った通りだよ。あの子とはお似合いだと思ったし、二人が付き合ったら……きっと、理想のカップルだろうな、って、思う」
「なら、なんでそんな泣きそうな顔してンだよ」

 そっと彼女の頬に触れる。触れられた彼女がびくりと体を震わせてからゆっくりとこちらを向いた。

「なぁ、それ嘘だろ?」
「嘘なんかじゃ――」
「オレは、ナマエがオレ以外の他のヤツの隣を歩くなんて嫌だ」

 ◆◇◆◇

 三ツ谷の言葉を受けたナマエは目を見開いた。今の彼の言葉はまるで自分を好きだと言っているようではないか。彼女はあまりの驚きに言葉を失ってしまった。

「ナマエの隣を歩くのはオレだけがいいし、ナマエを笑わせるのも幸せにするのもオレだけがいい。辛いなら辛くなくなるまでオレが傍にいたいし、その後その辛さを忘れるくらいオレが笑わせてやりたい。……オレはナマエの一番になりたいんだよ」

 彼からの怒涛の言葉を受けた彼女は、キャパオーバーとなってしまい彼を見つめたままぽろぽろと涙を零し始めた。
 彼女にとってどの言葉も信じ難いもので、今の状況は夢ではないかと疑ってしまうくらいだった。だけど自身の瞳から零れ落ちた涙を優しく拭う彼の指の温かさが、拭われた際に触れられた感覚が、夢ではないと言っていた。

「伝えるのが遅くなってごめん。……入学式の日にナマエを見かけてからずっと好きだった。オレの彼女になってほしい」

 三ツ谷のその言葉に、ナマエは涙を流しながら頷いた。

 ◆◆◆ ◇◇◇

 晴れて恋人同士になった二人は、翌日、ナマエの部活の朝練がない日でもあったので早速二人で登校した。
 二人並んでの登校は今まで何度もあったが、今日からは今までとは違っていた。

「……なんか、緊張する」
「そうか?」
「うん。だって付き合って初めての登校だし、それに……」

 彼女は一度言葉を切ると、視線を自分と三ツ谷の間にある自身の手に向け、そっと持ち上げた。
 持ち上げられた手は三ツ谷の手と繋がれていた。それも恋人繋ぎだ。それが改めて三ツ谷の彼女になった≠ニいうことをナマエに思い知らせるので、恥ずかしさと緊張が彼女の頬を少し赤く染めた。

「ずっと、繋げたらなって思ってた。だけどいざ叶ったら、それはそれでちょっと恥ずかしいなって、思って」
「……朝からあんま可愛いこと言うなよ」

 そんな会話をしながら学校の昇降口をくぐると、ちょうどナマエのクラスの下駄箱の前に、あの噂を流した張本人たちがいた。彼らの姿を見た瞬間、三ツ谷の顔が険しいものに変わり、ついさっきまで優しげだった目が今は少し鋭くなっていた。

「おい、オマエら。ちょっといいか」

 三ツ谷が彼らにそう声をかける。彼らが三ツ谷の方を振り返ると、サッと顔を青くさせた。自分たちを見る三ツ谷の顔が、普段学校で見るような顔ではなく、明らかに不良の顔だったからだ。

「オマエらだよな、テキトーな噂を流したの」
「えっ……とー……」
「面白半分だったんだろうけど、オマエらのせいでこっちは大迷惑だったんだからな」
「ご、ごめん。三ツ谷……」
「オレだけじゃなく、噂でのオレの相手だった後輩の子、それからオレの本当の#゙女であるナマエにも謝れ」
「わかった……って、えっ?!」
「ナマエが、三ツ谷の本当の#゙女……!?」
「そうだよ。だからほら、謝れ」
「「すみませんでした!!」」

 彼らはタイミングを合わせたかのようにバッとその場で一斉にナマエに向けて頭を下げると、走り去るように下駄箱を後にした。いきなり全力の謝罪を受けたナマエは驚いてその場に立って固まっていると、隣に立っていた三ツ谷にポンポンと肩を軽く叩かれて我に返った。

「あっ……ごめん。びっくりしちゃって」
「へーき。とりあえず教室行こーぜ」
「う、うん」

 その後、二人がそれぞれ自分の教室に入ると、教室内にいた同級生たちが一斉に二人の元へと駆け寄ってきて「二人ともいつ付き合ったの?!」と質問責めにあったのだった。

「次ナマエとオレ、どちらかに妙な噂立てたら許さねェからな」