初めて≠予約
「私もピアス開けたいなぁ」
「ナマエはまだダメ」
「なんで?」
「開けたら不良認定されるから」
「えー。別にいいよ。隆くんとお揃いのピアスとか付けたい」
「だーめ。後で困ンのはナマエだぞ」
中学生の頃、当時既に片耳にピアスを付けていた三ツ谷を見て、恋人であったナマエは同じようにピアスを開けたいと思った。しかし三ツ谷はそれを良しとしなかった。
理由は彼本人も言っていた通り不良と認定されてしまうから≠ナある。きっと彼女は高校進学を考えているはずだ。そうなった場合、素行不良と認定されてしまうような行為はなるだけ彼女にはさせたくなかった。そして、そもそも彼女の体に残ってしまうような傷が付くのが嫌だったのだ。
「隆くんのケチ」
「ケチじゃねーよ。……あっ、ならさ。高校に進学した後、校則的にも大丈夫そうだったらオレに開けさせてよ。ファーストピアス」
「!うんっ!」
「じゃあそれまでは勝手に自分で開けたりしないこと。約束な」
「分かった、約束!」
二人は小指を絡めて、そう約束をした。
◆◆◆ ◇◇◇
「ありがとうございました!」
最近は数が少なくなりあまり見かけなくなった純喫茶。退店する常連客に向けて若い女性が控えめだがハキハキとした声でそう言った。
ここはナマエがアルバイトをしている、彼女の学校近くの喫茶店だ。マスターは初老の男性だが、歳を感じさせないしゃんとした佇まいをしている。そして低く落ち着いた、それでいて聞き取りやすい声で、自身の持つコーヒーに関する知識を教えてくれる優しい人だった。
元々彼女はこの喫茶店に客として来ていたが、ある時マスターから「最近アルバイトの子が辞めてしまって少し人手が足りないから、良かったらここで働いてみないか」と声を掛けられ、アルバイトとして働くこととなった。
「ミョウジさん、よければまたコーヒーを淹れる練習でもするかい?」
「えっ!いいんですか?」
「あぁ、いいとも。しばらくはお客さんもほとんど来ないだろうからね」
「ありがとうございます!お願いします」
彼女は嬉しそうに笑い、出入り口からマスターの立つカウンターの方へと移動する。彼女はここでアルバイトを始めてから、マスターにコーヒーの淹れ方を教わっていた。元々マスターからの提案だったのだが、今ではその練習が彼女の楽しみの一つになっていた。
マスターが先に出していた各道具たちを手に取り、確認をしながらセッティングを行っていく。そして最後に、一番大切なコーヒー豆が入ったガラス製の入れ物を手に取った。
「豆を挽くのはもう大丈夫だろうから、豆を挽き終わって抽出するところから一緒にやっていこうか」
「はい!」
年季の入った手動のコーヒーミルにカップ一杯分の量の豆を入れる。豆を入れ終わったところで、ミルの内部にある臼を回すハンドルの先端に付いた木製の取っ手を握りゆっくりと回し始めた。ガリガリという豆が砕かれる音が店内に響く。
次第にその音が変わり、硬いものを砕くような音は聞こえなくなっていった。そしてミルのハンドルを回す彼女の手も、滑らかであまり力んだ様子のない状態に変わっていた。
豆を挽き終えた彼女は、挽いた豆が落ちて貯まっている土台の小さな引き出しを開けた。途端にふわり、とコーヒー豆の香りが漂う。
豆の粒度は中細挽き。これはペーパードリップやコーヒーメーカーと相性の良い粒度で、マスターが「家で淹れる時にピッタリだろうから」という理由から、ずっとこの粒度で練習をしている。
ペーパードリップ用のドリッパーをガラス製のサーバー――コーヒー専用のポットのようなもの――の上にセットする。そして薄茶色のペーパーフィルターが入った袋からそれを一枚取り出し、慣れた手つきでドリッパーにセットした。
年季が入り、すくう部分が茶色く色付いているメジャースプーンで先ほど挽いたコーヒーの粉を、セットしたペーパードリップの中に溢さないように気をつけながら入れ、お湯を注ぐためにコンロの上に置かれた銀色の細口ドリップポットを手に取ろうとしたその時。
「ちょっと待った」
「えっ――あ!そうだった」
マスターの制止に彼女は自分が抜いてしまった手順を思い出し、持ちかけたポットから手を離して、コーヒー粉の入ったドリッパーに手を添えた。
粉が溢れないよう気をつけながらドリッパーを軽く振り、コーヒー粉の表面を平らにする。これは粉全体にムラなくお湯を注ぐために必要な大切なことだった。美味しいコーヒーを淹れるには、粉全体にムラなくしっかりお湯が注がれることが大切なのだ。
「ちゃんと忘れたことに気付いたのは、成長だね」
「ありがとうございます。でも忘れちゃってるから、まだまだです。次は忘れないようにします!」
「うん。それじゃあお湯を注ごう。少し重いから落とさぬよう、そして火傷に注意して注ぐんだよ」
「はい」
次の工程は蒸らし=Bこれも美味しいコーヒーを淹れるために必ずやっておくべきことだ。
蒸らす工程は、コーヒーに含まれるガスを放出させて、コーヒーとお湯を馴染みやすくするためのものだ。こうすることでお湯の通り道ができ、コーヒーの美味しさを十分に引き出すことができる。
彼女はお湯の入ったポットを慎重に傾け、平らにされた粉の中心にゆっくりとお湯を注いだ。ここで注ぐお湯はそこまで量はないので、傾けてお湯が流れ出たらすぐにポットを元の角度に戻す。トポポ、という音と同時に粉の上に泡が生まれ、コーヒー粉が膨らむ。ここから二十秒待ったらいよいよしっかりお湯を注いで抽出する作業となる。
カランカラン――
「おや、いらっしゃい」
「どもっす。ナマエ、順調か?」
「あっ、隆くん!」
彼女が二十秒を待ち始めたと同時に店のドア上部にぶら下がるドアベルが鳴った。マスターがそちらを見やると、ドアを開いて入ってきた青年がニコリと笑ってマスターに軽く挨拶をした。
青年――三ツ谷は彼女の恋人である。彼は現在自身の夢であるデザイナーになることを目指し、アトリエとする部屋を探したりコンペに出すための作品を制作したりと何かと日々忙しくしているが、彼女がこの喫茶店でバイトをすることを知ってからは、時間が合えば彼女のシフトが入っているところで、休憩も兼ねてこの喫茶店に顔を出していた。
彼女がここでバイトを始めてからここにちょこちょこ顔を出していたため、今ではマスターとも顔見知りとなっている。
三ツ谷はコーヒーを淹れる彼女の前のカウンター席に座ると、優しげな瞳で彼女が真剣にコーヒーを淹れている姿を眺めていた。
彼女が再びコーヒー粉にお湯を注ぎ始める。ポットを器用に動かしてお湯の量を調整しながら、コーヒー粉の中心での≠フ字を描くように優しく注ぎ、ポットの口を上げてお湯を止める。注がれたお湯がコーヒー粉を通ってコーヒーとなり、ポツポツと雨音に似た音を立てながら下のサーバーに落ちていく。
コーヒー粉の入ったドリッパー内のお湯が三分の一程減ったことを確認した彼女が、最初と同じようにの≠フ字を描くようにしてお湯を入れてお湯を止める。同じ動きを合計三回繰り返したところで、サーバーに書かれている一杯分のメモリあたりにコーヒーの水面があった。
「うん。お湯の量も、お湯を注ぐタイミングも、今回はバッチリだったね。これでミョウジさんも一般的なドリップコーヒーが淹れられるようになったね」
「本当ですか!?やったぁ!」
「よかったな、ナマエ」
マスターと三ツ谷からそれぞれ言葉を受けた彼女は、ポットを持っていない方の手で小さくガッツポーズをして喜んだ。
ポットをコンロの上へと戻し、ドリッパーなどを片づけた彼女は、淹れたてのコーヒーを温められたコーヒーカップへ注いで自身の前の席に座る三ツ谷へと出した。
「私の大成功作、良かったら飲んでみて!」
「あぁ。……いただきます」
三ツ谷はカップを持って一口飲んだ。彼の前で緊張した面持ちの彼女が彼の感想を待っている。
三ツ谷は静かにカップをソーサーに置くと、自身の言葉を待つ彼女にニコリと微笑みかけて言った。
「……うん、美味い。今まで飲んだコーヒーの中で一番美味いよ」
「ほんと……?やったー!マスター、ありがとうございます!」
「良かったね、恋人の口にもあったようで。ミョウジさん、バイトの日はいつも練習してたから、それがしっかり報われたってことだよ」
マスターと小さくハイタッチをしながら喜ぶ彼女に、三ツ谷は更に言葉をかけた。
「本当に美味いよ。毎日飲みたいくらいだ」
「もう任せて!毎日淹れるよ!」
「おやおや……まるでプロポーズみたいだね」
マスターからの一言に、それまで全身に喜びをまとっていた彼女がピシリと音を立てて固まり、茹でられたタコのようにどんどんと顔を赤らめていった。対して三ツ谷は確信犯だったのか、少し気恥ずかしそうな笑みを浮かべながらマスターを一瞥した後、彼女へと視線を戻した。
「あのっ、えっと……その、さっきのはー……」
「……もう少ししたら、ちゃんと言うよ」
「ほっほっ。さてミョウジさん、ちょうどあがる時間だ。今日はこのまま着替えてあがってもらって構わないよ」
「でも掃除とか片付けがまだ……」
「大丈夫だよ。今日のくらいは私一人でも問題ないからね」
「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
「うん。それじゃあお疲れ様。気をつけて帰るんだよ」
「はい!お疲れ様でした」
彼女は店の奥にある従業員専用の扉の奥へと消えて行った。
残った三ツ谷とマスターは少しの間無言だったが、三ツ谷が口を開いたことでその無言が破られた。
「今日彼女が淹れたコーヒーの豆を買いたいんですけど、幾らですか?」
「今日使った豆はこれだよ。何グラム買うかによって値段は変わるよ。例えば一杯のコーヒーは大体十グラム程度で――」
* * *
「隆くん、お待たせ!」
「おう。バイトお疲れ様」
「ありがとう。それじゃあマスター、お疲れ様でした。お先に失礼します」
「うん、お疲れ様。気をつけてね」
マスターに見送られながら二人は店を出た。空は赤とオレンジが混ざった色に焼けていて、シルエットのように真っ黒なカラスがカァカァと鳴きながら飛んでいる姿が空に舞う。
三ツ谷と彼女は仲良く手を繋ぎながらゆったりと彼女の家までの道を歩いていた。
「早く二人で暮らしたいね」
「そうだな。そしたらもっと一緒にいられるし、ナマエの淹れたコーヒーも毎日飲めるし。いいこと尽くしだわ」
「ふふん。コーヒーだけじゃなく、ご飯だって作るよ。任せて!」
「ナマエの手料理かぁ……楽しみがまた一つ増えたな」
彼女としては学校に通っている今の時点から一緒に暮らしたい思いは確かにあった。しかし三ツ谷との将来≠考えた結果、早い段階から一緒に暮らすのではなく、実家にいたまま学校でしっかり勉強をし、バイトでお金を貯めることにしたのだ。
彼女の直近の目標は三ツ谷の仕事のサポートをすること=Bそのために彼女は商業関係の学校へと進み、簿記などの経理関係の勉強をしていた。デザイン関係では中々サポートできないと思った彼女は、デザイナーとして活躍する三ツ谷を、経理関係の方でサポートする道を選んだ。そして将来、二人で暮らすとなった時の足しになるよう、バイトで資金を貯めているのだ。
三ツ谷も彼女の考えや思いを知っているからこそ、無理強いはせず、自身のことに専念しながら彼女のことを見守っていた。
「そういえばもう少ししたら卒業だよな。大学進学とかどうすんの?」
「うーん、それが結構悩んでて」
「話聞くくらいならできるけど」
「じゃあちょっと聞いてくれる?」
「あぁ。ちょうど公園あるし、あそこのベンチに座って話そうぜ」
二人は通り掛かりの公園に入り、近くのベンチに腰掛けた。公園の中は人がまばらにいる程度で、それも各々家に帰ろうとしているところだった。もう少ししたらこの公園内にいる人は三ツ谷と彼女の二人だけになるだろう。
ベンチに腰掛けた彼女が小さく息を吐いてから話を始めた。大学に進学して経理や経営に関することを学んでみたい。でも企業経営に就くわけではないから、今ある知識を実践で磨いていきたい。早く三ツ谷のサポートがしたい気持ちともっと知識を深めて地盤を固めてからサポートしたい気持ち、それらが争っている上に同棲がしたい≠ニいう気持ちも重なってきてしまって、自分が三ツ谷の側に行きたいと思うのはその気持ちが強すぎるからなのではないか。もしそうならばそれは少し危ない考えではないか……。彼女の悩みは大雑把に要点を言うとこのようなものだった。
彼女の悩みを聞き終えた三ツ谷は、しばらく黙っていたがやがてゆっくりと口を開いた。
「まず一言目としては、オレとの将来をそんなにしっかり考えてくれてありがとうな」
「だって、一緒になるなら幸せな方がいいじゃん?」
「まァな。んで二言目だけど……。オレにはどっちがいいとか一概に言えねェけど、オレはナマエにはしっかり実力が付いてると思う。それをどう磨いていくかはまぁ……色んな手段があると思うけど、今も実践経験を積むためってことでたまにオレの手伝いをしてくれてるだろ?正直今の時点でもオレとしてはかなり助かってる。だからオレ個人の意見を言うと、学校を卒業したらそのままオレのところに来て欲しい」
三ツ谷の真剣な回答を受け、彼女は再び考える。彼の申し出はとても嬉しいものではあったが、彼女としては現在の状態、お手伝いであっても所々で足りていないな、と思うところが多かった。果たして本当にそんな状態で彼の申し出を受けてもいいのだろうか。
彼女の悩む姿を見た三ツ谷は真剣な表情を少しだけ崩して微笑むと、彼女の頭を優しく撫でて言葉をかけた。
「まぁさっきのはあくまでもオレ個人の意見≠セからさ。学校の先生とか、ナマエのご両親とか、オレ以外の人にも色々相談して意見をもらってみてもいいんじゃねーか?」
「うーん……。うん、そうだよね。ありがとう。もう少し色んな人に相談して、考えてみる」
「ん。っし、じゃあ帰るか」
「うん!話、聞いてくれてありがとう」
「いいよ、ンな気にすんな」
三ツ谷はそう言って、先ほどと異なる元気そうな笑顔を浮かべた彼女の頭を撫でた。彼女はそれを気恥ずかしそうにはにかみながら受けていた。
空の焼け具合が強くなり、夜の藍色と混ざり始めた。その空を見た三ツ谷がベンチから立ち上がり、彼女に手を差し出した。彼女はその手を取りベンチから立ち上がると、再び二人で手を繋ぎ、公園を出た。
「じゃあまたな」
「うん、またね。隆くんも帰りは気をつけてね」
「おう。ありがとな」
彼女の家の前。二人は別れを惜しみつつもお互い別れの言葉を掛け合って別れた。自宅へ入り洗面所に向かった彼女が手を洗っている時、ふと公園で三ツ谷の言葉を思い出した彼女はその場でボッと顔を燃え上がらせた。あの時は真剣に相談をしていたため気づいていなかった彼女だったが、今になって彼の言葉の意味に気づいてしまい羞恥で顔に火がついたのだ。
「あれって……まるで、プロポーズみたい……」
その頃、一人星が光り始めた夜道を歩く三ツ谷は、公園での自身の発言を思い出して彼女ほどではないものの少々顔を赤らめながら自宅へと向かっていた。
「アレって、プロポーズみたい……だったよな」
チラリと自身の片手に下がる紙袋の中身を見る。そこに入っているのはあの喫茶店で買った、彼女が今日喫茶店で淹れていたコーヒーで使っていたコーヒー豆の入った袋だった。
中身は百グラム。お試しにはピッタリだろうというマスターの言葉を受けてそのグラム数にしたのだ。
「……あとはコーヒーミルとか、か」
三ツ谷はコーヒーを淹れるために必要な道具で買い揃える必要があるものを思い浮かべながら、少しだけ歩みを早めて自宅へと向かった。
◆◆◆ ◇◇◇
時は流れ、卒業シーズンとなった。
彼女はあの後周りの人たちに相談し意見をもらいその意見と自身の気持ち、全てをひっくるめて悩みに悩んだ結果、卒業後は進学ではなく三ツ谷のところに行くことにした。
それを聞いた三ツ谷は喜んだものの、「本当にいいのか?」と彼女に確認をした。しかし彼女は既に意思を固め、覚悟を決めていたので彼の問いかけに力強く頷いて返事をした。
卒業式を終え、学校の友人たちと別れを惜しみながら皆「頑張ってね!」と応援の言葉を掛け合う。皆とは少々異なる道を歩むことにした彼女にもまた、友人たちから数々の応援の言葉をかけてもらった。
後日卒業メンバーたちとの食事会の約束をし、彼女は校門の前で待っている三ツ谷の元へと向かった。
「卒業おめでとう、ナマエ」
「ありがとう隆くん!」
胸に造花の飾りを付け、手には綺麗に包装された一輪の花を持つ彼女が嬉しそうに笑う。卒業式ということもあってなのか、いつもより綺麗でどこか大人に近づいたように見える彼女を、三ツ谷は瞳を少しだけ細め、愛おしそうに見ていた。
「ナマエの親は?」
「二人ともまだあっちにいるよ」
「そうか。なら早いところ戻んねーとな」
「うん。でも戻る前にちょっと話があるんだけど、いい?」
「おう。なんだ?」
彼女は自身の肩にかけていたバッグのチャックを少し開け、中に手を突っ込んでごそごそと漁り始めた。やがてお目当てのものが見つかったらしい彼女は「あった」と小さく声を漏らすと、バッグに突っ込んでいた手をゆっくりと取り出した。
「中学の頃の約束、やっと叶えてもらえると思って買っておいたんだ。……お願いしてもいいかな」
彼女が差し出したのは未開封のピアッサーだった。それを見た三ツ谷は少し驚いた表情をした後、嬉しそうに笑って「もちろん」と答えてピアッサーを受け取った。お互い何も言わなかったものの、中学の時のファーストピアスの約束≠果たせる時をずっと待ち望んでいたのだ。
彼がすっと、まだ穴の開いていない綺麗な彼女の耳たぶに触れる。それが少しだけくすぐったくて彼女は小さく身じろいだ。
「ナマエにはまだ言ってなかったんだけど、オレのアトリエの場所がようやく決まったんだ。だから今度の土曜日、来てくれないか?」
「ほんと?!ようやく理想的なところが見つかったんだね、よかった!今度の土曜日は何もないし、ぜひ行かせて!」
「あぁ。それじゃあ当日は家まで迎えに行くよ。時間とかはまた追って連絡する」
「うんっ!楽しみにしてるね」
自分のことのように喜び笑う彼女の頭を軽く撫でた三ツ谷は、そのまま彼女の両肩に手を置いてくるりと後ろを向かせると、背中をぽんっと軽く叩いて「そろそろ戻った方がいい。また土曜日な」と笑い、彼女を彼女の両親の元へと送り出した。彼女は首を動かして後ろの彼の方を見て大きく頷いた後、「またね!」と言って少し離れた場所にいる自分の両親の元へと小走りで戻って行った。
* * *
卒業式から数日後の土曜日。彼女はウキウキした様子で普段以上に念入りに支度をしていた。
三ツ谷が迎えに来るのは今からあと十五分後。卒業式の少し前にショッピングデートをした際に彼が「可愛い」と言ってくれた春物のワンピースに薄手のボレロを羽織る。今日は春らしい暖かな陽気になると天気予報が言っていたので、それを信じての格好だ。
忘れ物の確認や髪型の最終チェックなどを行なっていると、家のインターフォンの鳴る音が響いた。携帯の画面で時刻を確認すれば、約束の十時ピッタリ。彼女は鞄を持ち、少し小走りで彼の待つ玄関へと向かった。
「お待たせ!」
「おう。……へぇ、今日は一段と可愛いじゃん。そのワンピース、前買い物行った時にオレが可愛いって言ったやつだろ?」
「うん。だって今日は初めて隆くんのアトリエにお邪魔するから、気合い入れて綺麗で可愛くしようって思って頑張ってみました」
「……あんま可愛いこと言うなよな」
彼女の言葉を受けた三ツ谷は片手で口元を覆って彼女から少しだけ視線を外した。隠しきれていない頬の一部が赤く染まっていることを見逃さなかった彼女が小さく笑う。それはまるでいたずらが成功した幼子のような無邪気で可愛らしい笑みだった。
ゴホン、とわざとらしい咳払いを一つした彼がまだ仄かに赤い顔のまま片手を彼女に差し出した。彼女がそれに手を乗せれば、流れるような動作で恋人繋ぎとなった。
「さて、そろそろ行くか」
「うんっ」
彼女の家から公共交通機関を利用して約三十分。辿り着いたデザイナーとしての三ツ谷の拠点となるアトリエに着いた。
建物の最上階、というより屋根裏に位置する部屋で天井部分が一部大きく斜めにカットされたようになっている。そこには大きな窓が二枚嵌め込まれている。そこから差し込む太陽光が室内全体を照らしていた。
「まだ色々準備中だから、片付いてなくてな。悪い」
「ううん、大丈夫!むしろなんかこう……何かが始まりそうな感じがしてドキドキする」
「ははっ!確かに。あながち間違いじゃねェからな」
彼女は適当な椅子を借りて座り、改めて周りを見回した。暖かい太陽光に照らされたこの場所はどこもかしこも煌めいていて、これから始まる三ツ谷の本格的なデザイナー人生の開始の合図を今か今かと待っているように思えた。そしてここに自分も仕事のパートナーとして参加するのだと想像し、彼女の胸は再び踊った。
「準備、できたぞ」
「……あっ、ごめん。ちょっとぼーっとしちゃってた」
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ」
三ツ谷は近くの机の上に乗ったものたちを少しだけ押し退けて小さなスペースを作ると、そこにピアッサーや消毒液などの道具を置いていく。それを見た彼女は小さく唾を飲んだ。いよいよ開けてもらうのだと思うと、やはり少しだけ怖かった。
そんな彼女の様子を見た彼は、膝の上に置かれた鞄の両サイドをぎゅっと握り締める彼女の手にそっと手を重ねた。
「怖い?」
「……うん、ちょっとだけ」
「だよな。オレも開ける時ちょっとだけビビったし、気持ちは分かる」
「でも、今日開けてもらうって決めてたから……怖いけど、開けて欲しい」
「……分かった。オレもできるだけ痛くないようにするから」
「うん。よろしくお願いします」
彼女の希望は右耳だったので、まずは右耳の耳たぶに先の細いマーカーで印を付けた。その後に用意していた氷嚢で耳たぶをしっかり冷やし、痛覚を鈍らせる。そして消毒液を染み込ませたコットンで耳たぶを消毒した。ここでようやくピアッサーの封を切り取り出すと、ニードル部分のところを触れないように気をつけながら彼女の耳たぶをそっとニードルの前のスペースに差し込んだ。
「開ける時、かなり大きな音がするからそれだけ我慢な」
「う、ん」
「じゃあ3、2、1で開けるぞ。……3、2、1――」
三ツ谷がそっとピアッサーの左右を指で支えるように持って片方を押し込んだ。バチンッ!と大きな音が響きその後カシャという音が鳴る。彼がそっとピアッサーのカードリッジ部分を持っていた指の力を抜いていくと、彼女の耳を挟むように閉じていた部分が彼の指を押し返すようにゆっくりと元の位置へと戻っていった。
完全に戻ったところでカードリッジを下へと引く。彼女の右耳の耳たぶにはしっかりスタッドとキャッチが装着されていた。
「よし。できたぞ」
「……ふー。緊張したー……!!」
「よく頑張ったな」
そう言って三ツ谷は緊張で息まで止めていたために顔が少し赤い彼女の頭を撫でる。少しずつ緊張がほぐれてきた彼女は、自身の頭を撫でる彼の方を見てニコリとはにかんだ。
その後、彼女は彼からスタッドが外れるまでのケアの仕方などを教えてもらった。個人差はあれど、彼のように自分の好きなピアスが付けられるまでに一ヶ月ほどかかると知った彼女は、少しだけ残念そうに肩を落としたものの「ケア、頑張る!」と言って笑った。
「あー……で、さ。穴が安定するまで付けらんねーけど、これ。先に渡してもいいか?あの頃からずっと渡そうと思ってたんだ」
そう言って彼が彼女に差し出したのは、小ぶりなオレンジ色の石が一つ付いたピアスだった。ピアスを受け取った彼女は嬉しそうに微笑み、ピアスの付いた台紙を少しだけ上に持ち上げ、窓から差し込む太陽光にかざした。太陽光を反射してキラキラ煌めくピアスの石を見る彼女の瞳は、その石に負けないくらいキラキラ煌めいていた。
「ありがとう!すっごく嬉しい!」
「最初のうちは小ぶりなものの方がいいと思ってさ。気に入ってくれたみたいでよかった」
「これ凄い可愛い!早く付けられるようになりたいな〜」
「オレも、早くソレを付けてるナマエのことが見てェよ」
「ふふっ。しっかり手入れして、早く穴が安定するように頑張るね」
「おう。あっ、あとまだナマエに渡したいものがあるんだ。これ片付けてから持ってくるから、ちょっと待っててくれ」
「?うん、分かった」
三ツ谷は机の上のものたちを持って部屋の奥へと消えて行った。数分後、彼は一つの紙袋を持って彼女の元へと戻ってきた。紙袋の中からはカチャカチャと食器同士がぶつかるような音がかすかに聞こえる。
「これからここでナマエと一緒に仕事するから、これ。買ってきたんだ」
「えっ!?これ、って……」
彼が紙袋から取り出して見せたのは、コーヒーミルやドリップポットなど、コーヒー豆からコーヒーを淹れるために必要な道具一式だった。
どれもこれもそれなりの金額はするというのに、それらを全て新品で買い揃えたことに驚いて瞬きを繰り返すだけの彼女に、彼は残っていた最後の一つを差し出して見せた。
「この豆、あの時オレに淹れてくれたコーヒーで使ってた豆と同じヤツ。これでマスターから教えてもらったコーヒーを淹れるのに必要な道具は揃ったはず。だから……これから、オレに毎日コーヒーを淹れてほしい」
三ツ谷が真剣な顔で言う。それを受けた彼女は顔を赤らめながらはにかみ、「もちろん!毎日淹れさせてください」と返答して彼からコーヒー豆の入った袋を受け取った。
数年後、今度は全く別のものを受け取ることを彼女はまだ知らない。