寒い冬の日だった。
芯まで冷えてしまいそうなほど寒くて、私はすっかり冷え切った指先はもう感覚なんてなくなっていた。
寒かった。体も、そして心も。終わりが見えないくらい寒くて、冷たくて、このまま凍死してしまいそうだと思った。
もうどうなってもいい。なら、気持ち悪い肩の上の温度に身を任せてしまおうか。どうせ私という存在は誰にも愛されていないのだから。

◆◆◆ ◇◇◇

私の家族は普通ではなかったことを知ったのは、本当につい最近だった。
母親はいつだって私の全てを把握したがった。それは一日の予定から友人関係、学校での生活、お金の使い方……とにかく私に関する全てだ。それは幼い頃からずっとそうだったので、これが『当たり前』だと思っていたが、同級生の友人にそのことを少し溢せば、「それはちょっと変だよ」とみんなが言った。でも私には何が『変』なのか分からなかったし、母親の行動は『私に対する愛情』からくるものだと思っていた。
そう、母親はいつだって「これはあなたを思ってのことよ」と言っていたから、私はそれを純粋に信じていたのだ。

父親は母親と違って私に興味がなかった。後に知ったことだが、どうやら父親は男の子が欲しかったらしい。
子供が長らくできなかった両親の間に、ようやく出来た子供が私だったが、性別は女。父親は少なからずショックだったそうだ。
父親はその後「お前との子供なんていらない」と言い、病的なまでに仕事に打ち込むようになった。だから家に帰ってくるのだって最低限だった。その最低限の帰宅の際に私と鉢合わせると、あからさまに嫌な顔をして思い切り舌打ちをした。酷い時は「出ていけ!」などの言葉を投げられた上に引っ叩かれた。

母親はようやく授かった子供だから、ということで病的に愛してくれた。父親はようやく授かった子供が自分の望んだ性別でないから、ということで一切の愛情を向けることはなかった。そんな間にいる私は、日に日に自分自身の存在に疑問を抱き始めた。
そこからは、ただ真っ逆さまに落ちていくだけだった。疑問を抱き、考えるところから始まり、それが大きくなって悩みとなり私の精神を蝕んだ。そして今、私は自暴自棄になっている。

母親が私を愛すのは、孤独となった家の中で唯一、無条件で自分の味方になってくれる娘だから。愛情を注げば注ぐほど、娘は自分を愛してくれる。だからたとえ父親が自分に見向きしなくなっても、外で自分以外の女と関係を持っていても、自分の傍から離れない存在がいてくれるならそれでいい。そう思っていたのだ。
だからこそ、母親は私の全てを把握しようとした。自分が知らないことがあれば、どんなに小さく些細なものであってもヒステリーを起こす。母親は、私に関することで自分が知らないことがあると、ヒステリーを起こすほど不安になるのだ。

私の家庭が普通ではない、ということに気づくきっかけは学校にいるカウンセラーの先生との会話だった。
小学校から一緒だった友人が、私がおかしくなっていることに気づいていたらしく、私の知らないところでカウンセラーの予約を取っていてくれた。何も知らない私がカウンセラーの先生のところまで連れていった。
最初こそ戸惑いがあったものの、何度か話していくうちに先生に話すことに慣れた私は、ある日母親のことを話した。

「私のお母さん、私のこと何でも知りたがるんです。学校でのことも、友人のことも、全部。でもそれって私のことを愛してくれているからですよね? 友達は皆『おかしい』って言うんですけど、愛してくれているからこそなら、普通じゃないですか?」
「……ミョウジさん。本当はこんなことを言ってはいけないんだけど……ミョウジさんのお母さんのそれはね、歪んでしまった愛による支配なのよ」

先生もまた、私と似たような境遇だったらしい。自分の家庭がおかしいことや、親から支配されていたことに気づいたのは、大学の講義がきっかけだった。講義内で『家族としての機能が壊れてしまっている家庭』の例として挙げられていた家族の状況が、自分の家庭とほとんど一緒だったのだ。そこから先生は自分の状況などを知るために、心理学やカウンセリング関係の道へと進み、今に至っていた。
カウンセラーとは、本来こういった断定するようなことは言わないらしい。もちろん100%断定しないわけではないものの、家庭環境や親子関係などについては、断定した物言いはあまりしないそうだ。特に先生はそれを意識していたらしい。
だけど自分と似た境遇である私の話を聞き、私自身が精神的に満身創痍であることに気づいたためはっきり言ったそうだ。

私はそこで初めて気づいたのだ。皆が言っていた『おかしい』という言葉の意味に。
周りの友人たちが親と喧嘩した話をしているのを聞き、どうして親と喧嘩ができるのか分からなかった。当日に遊びに行く予定を立てて遊びに行くことを、どうして許されているのかが分からなかった。
そんなことしたら、母親はヒステリーを起こして私を叩くだろう。「どうして私の言うことが聞けないの」「どうして私の知らないところで約束をするの」「あなたは私の子供でしょう」そんな言葉を叫ばれるだろう。
これらは全て、母親が私を支配しようとしていたが故のものだったのだ。喧嘩をしないのではなく、反抗すること自体が許されていない。当日に遊びに行くことが許されないのではなく、自分が把握していること以外のことをすることが許されていない。私には自由が一切なかったのだ。

そう思った途端、私の短い人生の全てが崩れていく音が聞こえた。

その日の夜、私は初めて母親にささやかな抵抗をした。
私はシチューに入っているじゃがいもがあまり好きでなかったので、その日の夕食のシチューにじゃがいもを入れなかった。シチューの作り方は母親直伝のもので、母親の教えた通りの具材と手順で作らなければ許されなかった。

「あら。ナマエちゃん、じゃがいもは?」
「……ないよ」
「……どうして? お母さん、シチューにはじゃがいもを入れるって教えたわよね?」
「そ、れは……そう、なんだけど……」
「ねぇ、どうして? どうしてお母さんの言ったことが守れないの? ナマエちゃんもお母さんのこと裏切るの? ねぇ、そうなの? あなたもお父さんみたいに私のことを捨てるのっ!? あなたは私の子供でしょう?! どうして私の言うことが聞けないのっ!!」

パチンッと乾いた音がして、私の片頬が痛みと熱を持った。初めて胸の内側が痛かった。先生の話を、どこかで信じたくないと思っていた自分がいた。だけどこの小さな抵抗に対する母親の返事が、全てを物語っているような気がして心が痛かった。

私は打たれた頬に手を添えながら、家を飛び出した。
辛かった。愛されていたと思っていたのに、それは皆がもらっているソレとは違ったのだと、分かってしまったから。
私は走りながら涙を流していた。それは打たれた頬が痛かったからではない。胸の内が痛くて痛くて仕方がなかったからだった。

寒い夜の空気を切って泣きながら走り続けた私は、気づいたら普段は近づかない路地裏に迷い込んでいた。
ここらの地域は、大通りは人の目もあり治安が比較的良いのだが、一歩大通りから出ると途端に治安が悪くなるため、子供、特に女の子は『大通り以外には行ってはいけない』と教えられていた。

家に帰ろうと思ったが、母親がいることを考えると帰りたくはなくて。でも何も考えずに外に飛び出してしまったため、携帯や財布などもない。本当に身一つしかなかった。
なんなら上着すらも着てきてないため、立ち止まってしまった今は全身が冷え切ってとても寒かった。

「こんなところで何してんの〜?」
「そんな薄着で寒くない?オレたちがあっためてあげよーか」

柄の悪い男の人が二人、立ち尽くす私に声をかけてきた。馴れ馴れしく私の肩に腕をかけてきて、酒とタバコの匂いが混ざった息を吐き出しながら、返事をしない私になおも声をかけてくる。

「おいおい、無視か〜?」
「ひっでぇなぁ。さむそ〜にしてたから、あっためてやるって言ってんのにさぁ」

気持ち悪かった。早くここから抜け出したい。そう思ったけどもう足が動かなかった。
だが私はふと思った。もうどうにでもなってしまえ、と。どうせこの先も私を愛してくれる人などいないだろう。だって親にすら愛されていないのだから。そんな存在を誰が愛してくれると言うのだろうか。それならばいっそ、今私の肩に乗る、この気持ち悪い温度に身を任せてしまおうか。そう思った矢先だった。

「邪魔だ」

低い声がした。そのすぐ後、私の肩に乗っていた温度が消えた。
何が起きたのか分からない間に、私に絡んできていた男二人は冷たいアスファルトの上に伸びていた。気持ち悪い温度に包まれていた肩に、再び冷たさが戻る。

「オイ」

後ろから声がする。寒さで固まっていた身体を何とか動かして後ろを向けば、そこには私よりも、そしてアスファルトの上に伸びている男たちよりもずっと大きい男の人が立っていた。
濃い青と薄い青の二色に彩られた髪が冬の冷たい風に靡いている。街灯によって少し影があるが、今まで見てきたどんな動物よりも鋭く強い瞳がハッキリと私を見下ろしているのだけは分かった。

「テメェも退け。ソイツらのようになりたくなければな」
「ぁ……」
「……チッ」

その人は私が寒さで上手く動けなくなっていることに気づいたのか、少し強めに私の肩を押して強引に退かした。押された強さに耐えきれなかった私は、バランスを崩して尻餅をついた。お尻から氷のように冷たくなった、硬いアスファルトの感触を鈍く感じる。だけどそんなことどうでもよかった。
理由はどうであれ、あの人は私を助けてくれた。この男の人たちよりも簡単に倒せる私には手をあげず、男の人だけに手をあげ、一発で倒したのだ。

去っていく後ろ姿を見つめる。深紅のロングコートに何やら黒字で描いてあるが、それが何を意味するのか分からない。ただ、その後ろ姿が目にも記憶にも焼き付いて離れなかった。

◆◆◆ ◇◇◇

私を助けてくれた男の人にもう一度会ったのは、その次の日だった。
あの後私は家に帰った。芯まで冷え、真っ青を通り越して真っ白になっていたが、母親はそれを気にも留めず私に自分の感情をひたすらぶつけてきた。
母親からの理不尽な感情をぶつけられた後、私は夕食も食べずにお風呂に入り、母親と顔も合わさずに自室に入って眠りについた。
私の身体はえらく丈夫なのか、幸いにも風邪はひかなかったので次の日は普通に学校に登校した。友人たちに挨拶をしながら校門をくぐり下駄箱へ向かう。そこで靴を履き替え、視線を上に向けた時だった。その視界に、あの二色の青色が見えたのは。

「あっ……」

まさか同じ学校にいるとは思っていなかった。だけどこれはチャンスだ。あの時言いそびれたお礼を言わなければ。
私は急いで青色を追った。身長が違うことで歩幅も違うので、追いつくために小走りになった。だらだらと気怠げに歩く人たちの間を縫って走り、ようやくその背に追いつく。

「あのっ!」

大きな背中だと思った。強くて、大きくて、私とは真逆だ。

「なんだ」

その人がこちらを振り向く。あの時見たのと同じ、鋭く強い瞳が私を見下ろしている。だけど不思議と怖いとは思わなかった。それは多分、この人が崩れた私の世界に現れた、たった一つの強い光だからだろう。

「昨日は、助けてくれてありがとうございました」
「昨日? ……あぁ、あの時の女か。別にあれはオマエを助けたわけじゃねェ。オマエと、オマエに群がってたアイツらが邪魔だったから退かしただけだ」
「それでも、私からしたら助けてもらったも同然なので……」
「用はそれだけか」
「えっ。あ、はい」

戸惑いつつもそう答えると、その人は少しだけ目を細めてから舌打ちをし、視線を前へと戻して歩いて行ってしまった。
あとになって友人から聞いたが、あの男の人は柴大寿という名前らしく、一つ上の先輩で、学校のみならずこの周辺で名の知れた不良らしい。そして――私は知らなかったが――この近辺の学生なら大体の人が知っている暴走族、黒龍ブラックドラゴンの総長をやっているそうだ。

「助けてもらったのかもしれないけど、これからはもう近づかない方がいいよ。危ないから」
「うん――」

『でも』と言いかけて言葉を飲む。他の人から見たら怖い存在で、危ない存在で、近づくべき存在ではないのかもしれない。それでも私にとって柴大寿という男は、光なのだ。
だから誰が何と言おうと、彼が助ける気持ちで行った行動でなくても、あの時あの瞬間、彼は私の世界を照らしてくれた強くて眩しい、光に他ならなかったのだ。
私の世界はもう暗くなどない。寒くて冷たくても、壊れてしまって道が分からなくなっていても、私には光がある。だからこれからはその光に向かって歩けばいい。もう迷うことはない。たとえその道が危なくても、『普通』から逸脱するとしても、光の下に行けるのであればなんだって構わない。

あの日あの時あの瞬間、私は柴大寿という光を信じて、この先を生きると決めたのだから。