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 へその奥から引っ張られつような、ぐるんと一回転する感覚は、慣れしたんだ感覚ではあるものの、起こりうるはずの無い感覚である。はじかれるように外気に触れた肌は血の気を失いザッと青くなった。目が、鼻が、肌が、明らかに空気がいつもと違うことを感じている。混乱する意識の片隅になんとか理性をとどめ、辺りを見回す。すると脳は足元の白と黒を知覚した。いや、人が倒れている・・・・・・・のを知覚した。胸の中心がどくりと嫌な音を立てる。おそるおそるしゃがみこんで顔を伺うと、ああやはり。先ほどから血のめぐりがどんどん早くなっていくのを感じる。冷たくなった指先で黒い髪を払うと、毎日のように見ていた美しい顔が現れた。
「クルーウェル、先生」
なぜ、どうして、いやそれよりもここは、いや、そんなまさか。ぐるぐる頭の中を駆け巡る言葉がうるさくてかなわない。
「先生、起きて下さい。先生」
 肩を軽く叩いても目は固く閉ざされている。少し怖くなって首筋に指を触れさせると、確かに力強い鼓動を感じることができた。指先から伝わってくる体温に少しずつ落ち着きが戻ってくるのを感じる。ゆるく深呼吸を繰り返し、膝に手をついて立ち上がるとポケットに杖が入っていることに気がついた。手に馴染むそれを軽く振り、クルーウェルの体に目くらまし術をかける。彼の容姿は人目を引きすぎるからだ。もう少しだけ魔法の力を借りて彼を背負い、街のざわめきが聞こえる方角へと足を踏み出した。
 街の人に聞いたところ、ここはロンドンからほど近い場所らしい。これなら飛べそうだ。しっかりとクルーウェルを離さないように掴み、もはや懐かしさすら感じる自分の家を思い浮かべる。……掃除、大変そうだな。背中の重みと併せてやる事がありすぎる。細く長く息を吐き出し、鞭のしなるような音とともに二人は姿をくらませた。
 細いパイプから捻りだされるように久しぶりの我が家へ姿を現すと、積っていたほこりがふわりと舞った。ほとんどクルーウェルを浮かせるように運び、ゲストルームのベッドに下ろす寸前で汚れを取り除く。ようやっと軽くなった身体をソファに深く沈めると、なんとも言えない、うれしいような悲しいような感情が胸の底にじんわりと広がった。杖を一振りして荒れた部屋の中を片付けていく。……ずいぶんと濃い1年を過ごしたものだと、友人先輩の顔が頭の中に浮かんでは消えていくのをぼんやり見つめていると、不意に腹の虫が鳴り響いた。忘れていた空腹感と喉の渇きが急に戻って来たようだ。胃の辺りをさすりながら何か食べるものはないかと貯蔵庫に足を踏み入れる。


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