第二王子と鼠



「よう、調子はどうだ?」
大丈夫かと声を掛けてきたのは二つ下の弟だった。軽く返事を返し目を開ける。木漏れ日の向こう、燃えるような赤い瞳が自分を見下ろしていた。
「どうかな……もうそんなに悪くはないと思うんだけどね」
木に背を預けたまま答える。
末の弟が誘拐(後に誤解であったと判明したのだが)されたのだ。編成した兵士と共に行軍し、魔人と戦闘した。
疲労を感じる隙はなかった。
しかし疲れが消えた訳ではない。その反動が今来ているという訳だった。
腰を降ろしている木陰は涼やかだ。
不意に襲ってきた疲労も幾分か和らいだように感じる。そう思って、心配して様子を見に来てくれた弟に問題ないと応じる。返事を聞いた弟は納得せず眉をくいと上げて自分を見た。
「本当かぁ?アル兄はすぐ無理するからなあ」
何かあっても隠すしよ、と疑ってくる弟に苦笑いで返す。
暫く鋭い目が向けられたがもう一度問題ないと応えて宥めすかす。その甲斐あってか、何かあればすぐに呼べよ、と最後まで疑りながらも弟はそう言って離れた。
「……はぁ」
息を吐く。
実のところ、調子が戻ったとは言い難い。
日々の業務を終え睡眠を取ろうと横になった直後、実務をこなした後の休息を取る直前の行軍だった。想定外の戦闘があり、魔力も使い過ぎた。身体が辛くならない筈がない。しかし弟も疲れているのだ、誤魔化されてくれて良かった。まさか付きっきりで様子をみてもらう訳にもいかない。
遠くで鎧を外して寛いでいる兵士達が見える。同じように休みなく付いてきてくれた者達だ。疲弊した様子が窺える。兵士もよく頑張ってくれたと思う。
後で労ってやらねば、

「アルベルト様」

───名を呼ばれた。
聞き慣れない声だった。
周囲に危険はない。解っていても身体が固まる。
浮かんだ焦りを押し隠して声の方向に目を向けた。
「お休みのところ申し訳ありません。飲み物をお持ちしました」
言葉と共に目の前へすっと液体の入った杯を差し出される。
声の持ち主は暗殺者ギルドの一人、バビロンだった。
思いもしなかった相手に虚を衝かれ、瞬く。盆に乗せられたそれを受け取ることが出来ずにいた。
彼はどう受け取ったのか、何かに気付いた様子を見せ「申し訳御座いません」と一言謝罪して差し出していたそれを呷って口に含んだ。

毒味だ。

「いやしなくて良いよそんなこと」
早口に言って止めさせる。
彼はそうですか?と訝しげな様子をみせながらも杯を傾けるのを止めた。
王族であるからには常に気を配らなければならない。口にする物に対しては特に厳重に。よって当然、必然ともいえる行いであった。しかしながらつい先程自らが認めた、信頼するといった者にさせたい行為ではない。
必要でないと再度示し受け取るために手を差し出せば触れていた縁を指で拭ってから、どうぞと渡される。
硝子の杯には透き通った透明な液体がなみなみと注がれていた。飲水に際して目にすることの少ない無色だった。
掌から伝わる温度は程よく冷たく、口に含めば微かな酸味と甘さが口内に広がる。想定していた苦味や口当たりの重い感覚、喉越しの詰まるような感覚はなく、心配した飲み辛さを感じることはなかった。
「……美味しい」
「果実を絞った果汁水です。お気に召して頂けて幸いです」
予想に反して飲みやすかったそれに瞠目して彼を見れば疑問を口にする前に答えが齎される。
へえ、と物珍しく思って杯を透かす。色の無いそれは光を通して美しく揺蕩った。
この国で飲み物といえば紅茶で、火を通さずにただの水として飲むことは少ない。そもそも生水は飲料に適していないのだ。魔術で水を生成することも出来るが、一般的ではない。
冷えた飲み物は酒か果汁くらいであるが、どちらとも違う仄かな爽やかさをもたらすそれを存外に気に入った。
「酔いをはやく治める効果があります。召し上がれた方がよろしいかと思いまして」
「ああ、助かるよ」
もう一度口に含めば甘すぎない水のひんやりとした冷たい感覚が身体を抜ける。気怠い身体と頭の疲れが冷たさに流され癒やされるようだった。
水がこんなにも美味しいなんて、と感動していると様子に気付いた彼が説明してくれた。使っているのは生水ではなく、それを鍋で煮沸させ蒸留したものらしい。そうして集めた水を川で冷やして果汁と混ぜている、ということだった。
彼は魔術を使えない。魔術で水を作り出すことが出来ない。蒸留して集められる水の量なんてたかが知れている。この一杯にそれだけの労力が掛かっているのだと理解して驚く。
なんてことないように話す彼の気遣いに感謝した。
「いえ、そんな大層なことは…」
そう彼は謙遜してみせる。そうだろうかと疑問に思って彼を眺めるが視線から逃れるように彼は首を振って、ともかくそのことは良いんです、と口を濁しながらも言う。そして咳払いを一つ落とした。綺麗に背筋を伸ばし深々と頭を下げる。
「その、先程はタリアが大変失礼なことを……」
佇まいを正して、誠に申し訳御座いません、と深く頭を下げて謝罪する姿に、成程と理解する。先の戦いの時と打って変わって酷く恐縮した様子で接してくるのはそれが理由だったらしい。道理で先程とは全く違う、礼儀正しい態度で話すのだと解った。
酔いを特殊な能力で共有してきた彼女は罰として彼の仲間である言霊使いに眠りにつかされている。いやただ単に酔いつぶれただけかもしれない、彼女が抱えている酒瓶は城でもそう目にすることがない度数の強いものだった。
「はは、そんな気にしないで」
自分がこうして木陰で休んでいるのは酔いのせいというよりは強引な急行軍と魔力切れのせいなのだ。酒はきっかけになっただけで普段は飲んだ程度で体調を崩すことなどない。そう説明するが彼は信じていなさそうな表情でぎこちなく頷く。駄目な印象を残してしまったようだ。遠慮がちな態度も変わらないままで、それを少し寂しく思った。
「ガリレアに悪いことしちゃったな…」
話題を変えるため目に入った人物に対して呟きを零す。彼は今度は居心地の悪そうな顔をした。眠りに落ちている髪の長い女性の隣、巨漢が同じように生気を抜かれた状態で横たわっている。
末の弟の服をどんな理由があって剥ぎ取ったのか、罪人に対する尋問のような厳しい詰問をしてしまった結果だった。
いや、でもまあ、『能力の暴走』という、仕方のない理由があったとはいえ、弟の服を汚して剥いたのだ…追求するくらいは勘弁してもらいたい
「ぅえッあ、はい、そうですね……申し訳御座いません」
口に出したつもりはなかったが言葉として漏れ出ていたらしい、狼狽した同意と謝罪が隣から返ってくる。はっとして目を向けるも視線が合わない。
慌てて怒りはもう無いことを示すが何処まで通じているのか、こくこくと彼の首が縦に振られる。
これも話題選びが悪かったようだ。
誤魔化すように笑って、残りの果汁水を煽って飲み干す。
ともあれ随分と気が楽になった。
気が晴れれば今度は小腹が空いてきたような気がする。夜通しの行軍で、夜が明けてからは飲み物以外まだ何も口にしていなかった。
食事を摂る者達に向ける視線に気付いたのか、彼が口を開いた。
「アルベルト様、何かお持ちしましょうか」
「ああ、じゃあ軽く…貰おう、かな……」
頷けば、畏まりましたと返答があり彼の姿が遠くに見えた。上げかけた腰を再度落ち着ける。
そういえば彼が料理を振る舞っていたのだった。
城の料理人ではない他人の作ったものを口にする機会など遠征時でもなければそう訪れない。どんなものが運ばれてくるのだろうと楽しみになって、遠くに見える姿を追う。
同じ年の頃の、どこにでもいそうな青年だった。
そう普通の、何処にいてもおかしくない、青年。
───先程は、気を抜いていた訳ではない。決して油断などしていなかった。けれどいつの間に側に、隣にまで近付かれていたのか気付けなかった。名を呼ばれるまで分からなかった。足音も、気配も。一切の予兆を感じることが出来なかった。
そしてそれは、恐らく。彼の意図したことではない。

『巨鼠のバビロン』
組織の名が出回る前から裏で密かに馳せていた名だ。報告や書類で何度か上げられたことがある。賞金首として似顔絵が出回るようになって長く経つが現在に至るまで一度でも捕らえたという報告は受けたことがない。跳ね上がる賞金額に冒険者がこぞって捕縛に挑んだが動向どころか尻尾さえ掴めないまま、長年上手く逃げ続けていた者の、名前。

ぐっと歯を噛み締めた。
まだ自分の手の届かない場所にいる国民が存在する。
王子として、為政者として、不甲斐なさを感じる。
腹立たしくもあり、同時に遣る瀬無かった。

「どうかされましたか?」
「……いや。何でもないよバビロン」
またも意識外から声を掛けられる。側に立つ彼に気付けなかった。歩み寄る様に違和感はない。潜入の達人の名に相応しい自然さ。
不自然を感じさせない、『訓練』を受けた動きだった。意識せずとも動けるよう、そうあれと『教育』された貴族のように。
それがまた、胸を痛めさせた。
盆に乗せられて運ばれてきた料理は想定していたよりも種類が多く、食べきれるか少し不安になる。だが口にしたことのない料理ばかりだったからか楽しく頂くことが出来た。初めに驚いた量の多さなど全くの無用の心配であったようで皿の上は直ぐに空となった。
城で出されるような時間を掛けて作られる手の混んだ料理ではなく質より量に重きを置いた、質素な庶民向けの料理。そのような物に触れる機会は貴重だ。そして深く重い意義がある。それにどれも美味しかった。思わずそう零せば彼がほんの僅かに顔を綻ばせる。先程の水のときも同じようにしていたのだろうか。
「バビロン」
「はい」
名を呼べば直ぐに返事が返ってくる。
彼は皿を片付ける手を止めて自分に向き直った。
正式に場を設けるべきではないかと考えが過ぎるが、その時にはもう、こんな風に話すことは出来ないように思えた。
「ありがとう」
装飾のない感謝の言葉を彼に渡す。息を呑む音が聞こえた。
「君達には危ない所を助けてもらった」
危機を救われた先の戦い。この地で起きた騒動について。事前に把握することが出来なかった、知らなかったでは済まされない出来事。
彼の反応を待たず言葉を続ける。
「改めて礼を言わせてくれ」
魔人の襲来。此処で食い止めることが出来なかったならば何が起こったか、想像に難くない。
国を揺るがす厄災となっていた筈だ。それこそこの国を存亡の危機にまで追い詰めた『禁書の魔人』の再来となる程に。

「君達のおかげで人民の命が救われたんだ」

言葉に。彼は何か言おうとして、結局何も零さず口を引き結んでしまった。
沈黙が落ちる。
思い出されるのは先程の戦いでの彼の震えを隠した声音。
彼は騒動で仲間を一人、亡くしている。
口を閉ざした彼の胸中を察して。押し殺した胸の内に、真意に、それ以上無遠慮に踏み入ることは出来なかった。

わっと歓声が上がる。
「……ああ、ロイド達が戻ってきたんだね」
見れば城の麓に湧いて出た温泉から戻ってきたらしい末の弟の姿が見えた。弟妹が声を掛けている。兵士達も良かったよかったと声を上げて安堵していた。
和やかに落ち着いて来ていた場が再び沸き上がる。
「そのようですね」
落とされた言葉は静かに、平淡としていて感情を読み取ることは出来ない。
それは悲しいことだった。
そして自分は、彼に掛ける言葉をまだ、持っていない。
それが許される立場になかった。

騒ぐ者たちに視線を戻す。騒ぎの中心には末の弟がいる。
「……弟を頼むよ。無茶をする子だから」
「お任せ下さい、アルベルト様」
頼みの言葉に跪いて礼をした彼へ、うーんと唸る。彼は首を傾げた。
姿勢を崩さない彼に少し困って笑う。

「『様』はいらないよ」

言って手を差し出す。彼ははたと目を瞬いて驚いているようだったが気付かないことにして、笑顔を向け同じように手が重ねられるまで待つ。
躊躇いながら、ゆっくりと出された手を握った。

「これからよろしく、バビロン君」

「………はい。アルベルト、さん」



ロードスト編最終話41話の幻覚
友人になる二人の話
………まだあと2777文字を…




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