良き友人



 ステンドグラスから差し込む光はチャペル内を美しく彩っていた。
 聖壇前には白いタキシードに身を包む美しいおとこが立っている。ヴァージンロードへ視線を向け、彼——一ノ瀬トキヤは自身の伴侶をおだやかな表情で見つめていた。まるで映画のワンシーンのようだと、在り来りでつまらぬ感想を抱いてしまうほど、彼の佇むさまはすみずみまで計算尽くされている。
 ちいさく息を吐く。祝福に満ちた空間はどうにも居心地が悪い。——否、おそらくこの表現は適切ではないのだけれど、自身の心臓に蓄積する泥に似た何かの存在を、神宮寺レンは正しく認識しているのだった。
 聖歌隊の歌声がチャペル内に響いている。純白のウェディングドレスに身を包み、美しい讃美歌を纏いながらヴァージンロードをまっすぐ進む女性について、レンは氏名と容姿以外何も知らぬに等しい。
 結婚報告と同時、彼に人生を添い遂げたい相手がいたことを知った。わざわざ恋人の存在を公言するタイプにも見えなかったが、ここまで徹底して秘されていたことには驚かされたものだ。それほど大切な存在であると言い換えることもできるだろう。……妬けちゃうな、と戯けた調子で思う。
 ヴァージンロードの先、新婦が新郎の元へ辿り着いた。
 ——病める時も健やかなる時も、悲しみの時も喜びの時も、貧しい時も富める時も、これを愛し、これを助け、これを慰め、これを敬い、その命のある限り心を尽くすことを誓いますか?
 静謐なチャペルにおだやかな声が響いた。顔を上げた牧師は新郎の顔を見る。
「誓います」
 この上なく誠実さを含む声色だった。それは確かな意志を伴ってレンの鼓膜を震わせる。きっと、数多の人間が無意識に思いえがく『理想の家族』を、彼は正しい形で作り上げていくに違いない。形式めいた『誓いの言葉』を確かな契りとして享受する——一ノ瀬トキヤはそういうおとこだった。
 続いて牧師は新婦に問う。――病める時も健やかなる時も、……
 彼女もまた、はっきりとした声色で誓いを立てるのだった。
 新婦の顔を覆うウェディングベールをトキヤは静かに持ち上げる。ちいさな彼女に顔を寄せ、そうして触れるだけのキスを落とした。誓いのキスは直前に交わした誓いの言葉を永遠にするために行うのだと聞いたことがある。病める時も健やかなる時も、——隣に在るべき存在は『彼女』なのだと、たった今彼は神に対して誓いを立てた。
 隣に座る翔がぐずぐずと鼻をすすっている。顔は見えないけれど、その表情を想像することは容易だった。仲間想いの彼らしい反応だなと思う。
「……」
 ――レン
 甘い響きを伴い、記憶の中のトキヤがレンの名前を呼んだ。引き摺られるように瞼を閉じる。暗闇に浮かぶ白い肌、鼓膜を揺らす掠れた嬌声――脳裏にこびりついたおとこの姿をレンはぼんやりと眺めている。
 くだらぬ感傷だろうか? ――否。
 これはもっと複雑で、甘美で、何にも変え難いはずの――
 胸に巣食う感情の名前をレンは未だ定義できずにいる。正とも負とも判断の付かぬそれは彼と出会ったあの日から、ずうっと、内側に抱え続けているものだ。





「レン、飯行けるか?」
 着替えを終え、自身の荷物をリュックサックに仕舞いながら翔が顔を上げる。ゲストとして呼ばれていた番組収録は無事終了し、夜は特に予定も入っていない。彼女も今日は帰宅が遅くなると言っていた。仕事のあとに同僚たちと食事をする約束があるらしい。彼から声をかけられなければ、こちらから誘っていただろう。
「もちろん」
 二つ返事で了承し、「何か食べたいものはある?」と翔の顔を見る。レンの返答に対して嬉しそうな笑顔を見せた彼は「この近くにめちゃくちゃ美味い粉もん屋があってさー」と自身のスマートフォンを操作し始めた。どうやら、今夜は翔の方がエスコートをしてくれるらしい。
 彼からのディナーの誘いが疑問符を伴うようになって数年が経った。かつての彼は、屈託のない笑顔とともに「飯行こーぜ」と明るく声をかけてきたものだ。年齢を重ね、数々の選択をくりかえしたのち、——レンは、気ままな独り身ではなくなった。翔も近々籍を入れる予定があると言う。
「あー、服に匂いつくかも」
「オレは大丈夫だよ。せっかくだし、おチビちゃん御用達のお店に行こう」
 実際、『次の機会』がいつになるか検討も付かない。こうして噛み合ったタイミングを逃してしまうのは得策ではないだろう。レンの提案に対して「そうだな!」と首肯した彼はスマートフォンをくるりと返し、液晶をこちら側へ向ける。
「ここ。雑誌とかテレビでも話したことないんだけど、通いつめててさー」
「いいね。レディたちには内緒の場所ってことだ」
 まあな、と彼ははにかむような笑顔を見せる。
 お気に入りの店を多くの人々に紹介したいという気持ちに嘘はない。けれど結果としてその店を訪ねにくくなることも事実だった。一途なファンはアイドルたちのおすすめを汲み取り、じぶんたちの『お気に入り』にきちんと加えるので。
「そのうち紹介したいとは思ってるけどな」
「うん。レディたちもきっと喜ぶよ」
 荷物を持ち、「行こうか」と声をかける。頷いた翔とともにふたりきりの楽屋をあとにした。


 暖簾をくぐり、翔のあとについて店内に足を踏み入れる。奥から顔を覗かせた店主らしきおとこ(レンよりもすこし年上なように見える)が、翔の顔をみとめるなり「おー」と表情を綻ばせた。
「良く来たな。奥の席が空いてるよ」
「サンキュ! 助かる!」
 店主との気さくなやり取りから、彼がこの店に『通いつめて』いることは文字通りの表現だったと理解する。
 促されるまま、ふたたび翔のあとについて店の奥へと進んだ。
 通された空間は壁に仕切られた構造になっており、アイドルふたりが目立たずひっそりと食事をする上で好都合なように思えた。「いつもこの席に通してくれるんだぜ」と、レンの方を振り返った翔がいたずらっぽく微笑んでみせる。
 テーブル席に向かい合わせで腰を下ろす。差し出されたおしぼりを受け取りながら、机上に置かれた手書きのメニューに視線を落とした。この手の店にはあまり明るくないので、注文諸々すべて翔に託してしまうべきだろう。同じようにメニューを覗き込む翔に対し、「おすすめはある?」と声をかけた。
「えーっと、いつも頼むのはこれと、これと……」
 翔の指が手書きの文字列をなぞる。視線でそれらを辿りながら、うんうん、と相槌をくりかえす。彼のセレクトだから心配せずともちゃんとおいしいはずだ。そういう心持ちとともに顔を上げたレンが頬杖を突き、じいっと翔のさまを眺めていると、
「……聞いてる?」
 じとり、と訝しむような視線を向けられた。
「もちろん。でも、ここはおチビちゃんのセンスに任せようかと思って」
 向かいに座る人物が彼でなければレンは積極的にエスコートするに違いないので、こうして気兼ねなく甘えられる相手は貴重な存在だと言えるだろう。早乙女学園のクラスメイトだから? 否、これは彼がもつ特性のようなもので、それはここにいないもうひとりの同期にとっても同様であるはずだった。
「そういやトキヤんとこの子、三歳になったって?」
 一瞬、胸のうちを読まれたのかと思った。ちょうど思考をかすめた人物の名前を翔が口にしたから。
 彼の結婚式に参列した日を昨日のことのように思い出せる。そこからほとんど間を空けずに「子どもができた」と彼から報告を受けたのだった。撮影の合間の楽屋の中、事務所の他の同期たちと同じタイミングで。
「お前はよく会ってるって聞いたけど」
「うん。パパに内緒でデートしたりね」
 一ノ瀬家とは家族ぐるみの付き合いであり、かつ奥様どうしですっかり意気投合しているので、トキヤが仕事の時など、彼に内緒(事後報告の意だ)で出かけることもままあった。夫婦揃って彼のかわいいお姫様にメロメロなので、カメラロールがすこしずつ侵食されつつある。
「見る? 写真」
「お、見たい見たい」
 レンのスマートフォンをふたりで覗き込み、写真を眺めながら他愛のない話に花を咲かせる。そうしているうちに料理が運ばれてきて、テーブルの上が彩られた。食欲をくすぐる匂いが鼻腔に広がり、途端に先程までなりを潜めていた空腹を自覚する。すぐにふたり揃って「いただきます」と両手を合わせた。
「お前も、奥さんと仲良くやってて安心した」
 写真を見た感想だろうか。改めて言葉にされるとくすぐったい心地になるというものだ。「もちろん。おチビちゃんも今度遊びに来てよ」言いながら、口の中にひとくち大に切ったお好み焼きを入れる。もぐもぐと咀嚼をくりかえし、やはり彼のセレクトに間違いはなかったな、と感想ごと噛み締めた。


 テーブルに並べられた料理たちをすべて平らげて、すっかり腹も満たされた。「また来いよ」と気さくな笑みを浮かべる店長に見送られ、店をあとにする。
「じゃあ俺、こっちだから」
「うん。お疲れ様」
 ひらひら、顔の横で手を動かす翔に別れを告げた。車だから、と彼の自宅まで送ることを提案したのだけれど、「すぐそこだし、腹ごなしに歩いて帰るわ」と、残念ながら断られてしまったので。
車を停めているコインパーキングへ歩みを進めがら、ふと腕時計に視線を落とした。まもなく二十三時をまわろうとしている。 
――彼女はもう帰宅しているだろうか。レンの服に匂いがついていることを、珍しいね、と揶揄うさまが容易に想像できる。
 トキヤの娘が三歳になるということは、レンの結婚生活も三年目になるということだ。長いようで短いようで、しかしとても充実した時間だったと思う。幸福を煮詰めたような日々はどこを切り取っても美しく、きらきらとまばゆく輝いている。

+ + +

 スマートフォンの液晶に表示される名前にレンは、おや、と歩みを止めた。
 久々のオフかつ澄み渡るような秋晴れであることも相まって、買い物がてら散歩に赴いていた。以前、何かのタイミングで勧められたコーヒー豆もようやく購入できたので、帰宅次第、早速堪能するつもりである。撮り溜めているドラマやメンバーが出演している映画を観ながらでも良い。
 そうしてオフの日の計画をひそかに立てている最中、スラックスのポケットに入れていたスマートフォンが着信を知らせるようにヴヴと振動したのだった。
「……イッチー?」
 思わず、液晶に表示された名前を口にする。連絡がくること自体はめずらしくないが、着信となれば話は別だ。大した用もなく、いきなり電話をかけてくるようなタイプでもあるまい。
 不思議に思いながら液晶をタップし、電話に出る。
「もしもし?」
『あ、……レン、ですか? すみません、いきなり……』
「ううん、大丈夫。どうしたの?」
 電波の向こうで眉を下げるトキヤの様子が目に浮かぶようだった。
「……難しければ断ってくださって構わないんですが……」
「うん?」
「……他に頼れる人が……その、思い浮かばなくて……」
 遠回しな表現が彼らしくもない。「大丈夫だよ」と、続きを促すと、おずおずというように彼の口がようやく言葉を紡いだ。
「……娘の迎えを……お願いできませんか……?」
 ――撮影進行が大幅に遅れているうえに、マネージャーも現場から離れることが難しく、彼女の母親も熱で寝込んでいるのだという。スケジュール通りであれば、夕方の迎えの時間には余裕で間に合う予定だったらしい。
「もちろん。お安い御用だよ」
「……すみません。園にはこちらから連絡をしておきます」
 本来、迎えのために訪れる可能性のある人物は前もって申請を出しておく必要があるらしいが、トキヤの事情をよく知る保育園であるから、連絡を入れれば問題ないらしい。
「イッチーの仕事が終わるまでレディとのデートを楽しんでおくから、気にしないで」
「……ありがとうございます」
 ほっと安堵するような声が聞こえる。「詳細はこのあとすぐに送ります」「うん、わかった」
 そうしていくつか言葉を交わしたのち、ブツンと電話が切れた。
『このあとすぐに』という文言通り、間髪入れずに保育園の位置情報等がメッセージアプリを介して送られてくる。指定された迎えの時間までまだもうすこしあるから、荷物を置きに一度帰宅しても良いだろう。
(……ずるいって言われそうだな)
 レンとともに『レディ』にメロメロであり、かつ今は実家に帰省をしている彼女の顔を思い浮かべ、くつりと喉の奥で笑いを噛み殺した。


 外したサングラスを胸ポケットに差し込み、その場にしゃがんだレンは両手を大きく広げる。パタパタとちいさな靴底が地面を蹴る音が聞こえ、こちらへ駆けてきた少女が勢い良くレンの身体に飛び込んだ。
「レンくん!」
「やあ、レディ。久しぶり」
 難なくそれを受け止めたレンが少女の顔を覗き込む。
 美しい両親の遺伝子を受け継ぎ、ととのった造形を携えた少女はこちらを見上げながら嬉しそうににこにこと微笑んでいる。けれど、すぐに父親の姿がないことに気付いたようだった。
「パパは?」
 首をこてんと傾け、少女が問う。
「パパはお仕事で遅くなるんだって」
 レンの返答に対し、わかりやすく少女の表情が曇った。「そうなの? 今日はふたりでお夕飯をつくろうねって約束したのに」
「うん。……だから、パパが帰ってくるまで、オレと一緒に遊んでくれる?」
 零れ落ちそうな瞳がふたたびレンを見る。ブルーサファイアを模したそれはきっと父親譲りだろう。彼女の母親の瞳の色を、レンはあまり覚えていないのだけれど。
 彼女は素直で良い子だ、誇張なく、文字通りに。聞き分けの良さは周りの園児と比ではないのだろうと思う。だから、『パパとの約束』が果たされずとも、寂しさを胸の奥に仕舞い込み――「うん。いっしょにあそぼ」とちいさく頷くのだ。


 手を繋ぎ、ふたり並んで帰路を辿る。途中、スーパーに寄って彼女の望むお菓子をひとつだけ購入した。パパの帰りを待つ時間が楽しいものになるように、一種のおまじないのようなものだ。夕食前なのにとトキヤに苦言を呈されるかもしれないが、今回ばかりは大目に見てもらうつもりでいる。
 セキュリティの整ったマンションの一室は、婚約と同時に購入したものだった。「レディが初めてのお客様だよ」――そう言って、マンションを見上げる彼女と視線を合わせる。「面白いものはあまりないかもしれないけど」
 ちいさい子が楽しく過ごすことができるような諸々は、当然だけれど持ち合わせていない。しかし彼女は気にしたふうもなく、大きな瞳をまたたかせ、レンをまっすぐに見つめている。
「カメラは?」
「……カメラ?」
「レンくんはパパの写真をよくとるんでしょ?」
 おや、とレンは返答を詰まらせる。予想だにしなかった彼女の言葉に、不意をつかれたような心地だった。
「パパがそう言ってたのかい?」
「うん。たくさん見せてくれたよ」
「写真を?」
 こくりと彼女は楽しそうに頷く。「パパのスマホにたくさん入ってたの」
 ああ、とようやく合点がいった。レンが自身のSNSにアップしているメンバーの写真をトキヤから見せてもらったということだろう。仕事の合間やプライベートなど気の向いた際にカメラを構え、『オフショット』と称して投稿することが多々あった。ファンはもちろん、メンバーもそれを気に入っているようで、たびたび話題に浮上するのだ。
「レディも撮ってみる?」
「うん」
 迷いなく頷かれ、レンはくつりと笑みを零した。


「お疲れ様。ボロボロだね」
「……すみません」
 玄関先で出迎えたトキヤは、いつもより幾分もくたびれたような様子である。それでも仕事中は正しくアイドル然として振舞っていたのであろうことは容易に想像がついた。リビングまで彼を案内し、ソファの上ですやすやと寝息を立てる彼女に声をかける。
「レディ、パパがお迎えに来たよ」
 もぞ、と身体が動いた。案外、眠りは浅かったらしい。
「……」
 ぽーっとしたような表情でレンの顔を見上げる。ぱちぱちとまばたきをくりかえし、眠たげな欠伸を零してから、「パパ……?」と舌足らずな口調で言葉を落とした。
「……お待たせ」
 身をかがめ、彼女に顔を寄せたトキヤがちいさくつぶやいた。寝ぼけまなこの彼女に言葉が届いたかはわからないけれど、自身の父親の姿をぼんやりとみとめた彼女は両手を伸ばした。
「……だっこ、」
 はいはい、とトキヤが笑いながら彼女の身体を持ち上げる。そのまま視線をレンの方へ向け「お世話になりました」と言う。
「車、出すよ」
「ありがとうございます。ですが、タクシーを待たせてあるので大丈夫です」
 彼女の荷物をトキヤに手渡しながら、「そう?」と相槌を打つ。こくりと頷き、それから改めてというようにトキヤがレンの方へ視線を向けた。
「……ありがとうございました。本当に助かりました」
「いえいえ。お役に立てたのなら何よりだ」
「この子も嬉しかったと思います。……その、」
 そこで一度言葉を区切り、言い淀む様子を見せた。……表現を選んでいるのだろうか。ひらいたはずのくちびるを閉じ、けれどすぐに開けて、渋々というさまで言葉を続ける。――この子は、
「――あなたに恋をしているようなので」
 何故か気まずそうな表情でそう言うトキヤに、思わず笑ってしまった。――気まずそうというか、苦虫を噛み潰したようなというか。父親としては思うところがあるのかもしれない。
「全然、気付かなかった」
「……この間、教えてくれました。好きなひとができたって」
「保育園の同級生とかではなく?」
「『レンくん』と、はっきり口にしていましたよ」
「そう。それは光栄だな」
 トキヤの腕の中でふたたび眠りについた彼女は幸福そうな寝顔を浮かべていた。レンからすれば、よほど『パパ』に恋をしているように見えるのだけれど。父親が仕事で遅くなることを知った彼女の顔を、トキヤにも見せてやりたかったなと思う。
「……好みが親子で似るのかもしれません」
 不意を突くような声色だった。
 ぽつりと落とされた言葉に視線を持ち上げ、レンはトキヤの顔を見る。先程の様子から一変し、やわらかな笑みを浮かべる彼からは感情の仔細を汲み取ることはできなかった。ん? と、何にも気付かぬ振りをして、レンはちいさく首を傾ける仕草をする。
「なあに?」
「……いいえ。なんでも」
 ――学生時代のクラスメイトで、同じ事務所に所属するアイドルのひとり。時折、プライベートをともにする気の置けない同期。『一ノ瀬トキヤ』との関係を改めて正しく説明するならば、この程度の表現が適切なのだろうと思う。……むしろ、それ以上を知覚してはいけない。他でもない彼自身が『そうではない』未来を選び、あの日、神に対してまっすぐに誓いを立てたのだから。





 力強く、それでいて儚く、意志のこもった歌声を彼の他にオレは知らない。
 夜闇に包まれた学園の敷地のすみで、人目を憚るように彼はひとり佇み、歌声を紡いでいる。誰に聴かせるでもない。それはアイドルらしからぬ思考かもしれない。けれど、ただ純粋に、歌うことを楽しんでいるように見えた。
 雲間から月光が差し、彼の姿をくっきりと浮かび上がらせる。――まるでスポットライトみたいだ。使い古された表現が頭をよぎり、思わず自嘲した。
 あの日からオレの心臓はうまく機能しない。彼の手で鷲掴みにされたそれは正しい拍動の仕方を忘れてしまったようだ。

+ + +

 読んでいたファッション雑誌から顔を上げる。校舎の傍ら、ひっそりと置かれたベンチに腰掛けるレンは、学生が疎らに存在するグラウンドに目を向け、ちいさく息を吐いた。
 放課後の約束をしていたレディから急用が入ったと連絡があった。彼女との予定を心待ちにしていたとかそういうことではないのだけれど、誰かに隣にいてほしい気分だったことは紛れもない事実である。そのせいか「ごめんね」という簡潔な四文字と据えられた笑顔の顔文字がやけに鮮明に瞼裏に刻まれているのだった。不意打ちを食らうような『ひとりの時間』に一向に慣れる気配がない。余計なことにまで思考をまわしてしまう感覚が嫌いだ。触れなくて良い傷にわざわざ手を伸ばしてしまうような。
 寮に戻る? ――否、それも、できれば会いたくない人物と顔を合わせるリスクが増えてしまう。街へ赴いて適当な場所で時間を潰すほか、良い考えが浮かばなかった。何にせよ、教室に置き去りにしている荷物を引き上げてくるべきだろう。
 ベンチから立ち上がり、読み終わった雑誌を近くのゴミ箱に捨てる。ガコンという大きな音とともに、トレンドをおさめた若者向けのファッション雑誌が紙の塊へ変貌する。


 教室の扉を開ける。誰もいないだろうと勝手に思い込んでいたけれど、レンの予想に反して教室内には生徒がひとり残っていた。その人物が誰であるか気付いた瞬間、レンはちいさく息をのむ。
「……イッチー?」
 クラスメイトのひとり――一ノ瀬トキヤが机に突っ伏して眠っている。レンが彼を見間違うはずもない。けれどトキヤのそういう姿をほとんど見たことがなかったので、一瞬、他人の空似を疑ってしまった。それから、彼もただの人間なのだなあとくだらぬ感想を抱く。
 学園から与えられるハードな課題をこなしながら、自主練も欠かさず、その上バイトまでしているというのだから驚きである。相当な体力馬鹿か、自身を省みない堅物か。それでも、彼の歌声は紛れもなく本物だった。神より授かった天性の宝物をすこしも曇らせぬよう磨き続けている点も含めて。
「……」
 教室の壁にかけられた時計に視線を向ける。夕方というより夜に近いような時間だった。ベンチで雑誌を読んでいた時に比べ、外はずっと暗くなっている。
 眠っているトキヤの前の席に横向きに腰掛け、彼の顔のすぐ近くで頬杖をつく。遠目から見た時は眠っているのか死んでいるのか判別がつかなかったけれど(もちろん、死んでいるわけがないことは重々承知だが)、この距離から見れば一目瞭然で、伏せた身体をわずかに上下させながら、彼はすうすうと寝息を立てていた。分刻みのスケジュールをこなし、すこしの隙間もなく動き回っている印象がある。だから、こうして教室でひとり眠る姿には違和感を覚えた。あるいは、今この時、彼はここにいてはいけないのかもしれない。
「……」
 だからといって、わざわざ起こしてやる義理もあるまい。
 頬杖をついたまま、レンはトキヤのつむじに視線を落とした。せめて、寝顔くらい堪能できれば良かったのに。隙があるように見せながら、肝心な部分においてしっかりとガードが固いふしがある。もちろん、本人は無自覚なのだろうけれど。
 なんだかなと思いながら、そうしてじっと彼の様子を観察していると、
「……ん、」
 掠れた声とともに、彼の身体がわずかに揺れた。ひとの気配に気付いたのだろうか。伏せられていた頭がゆったりと持ち上がり、眠たげな瞳と視線が交わる。――起きた? おはよう。揶揄いを含む意図でそう声をかけると、一度大きくまばたきをしたトキヤは「……おはよう……ございます」と口にする。
「あれ、まだ寝ぼけてる?」
 存外、素直に挨拶を返されたので拍子抜けしてしまった。首を傾け、「イッチー?」と彼の愛称を口にする。宝石に似た美しい瞳がわずかに揺れ、彼はもう一度まばたきを零す。
「……レン?」
 ――どうして此処に……? そう続けられた言葉に思わず笑ってしまった。それを言うならば、彼自身、放課後の教室にひとりでいることも不自然なように思うけれど。レンのそういう胸中に気付く様子もないトキヤは、きょろ、と辺りを見渡し、カーテンがひらかれたままの窓へ目を向ける。彼の視線の先には橙と薄青を等しく混ぜ合わせたような夜空が広がっていた。
 そこでようやく、トキヤは自身の状況を理解したようだった。動きを止め、すっかり暗くなった窓の外をじいっと眺めている。
「……すみません」
「ん? 何が?」
「……いえ、」
 歯切れの悪い返事を寄越しながら、頑なに視線をこちらへ戻そうとしない彼は、――よく見れば髪の下から覗く耳がほんのりと赤くなっている。
 その反応は予想していなかった。意外と可愛らしいところもあるんだ、なんて。無意識に脳裏を掠めた感想を自覚した途端、胸の奥がざわついて、動揺と緊張が綯い交ぜになったような不快感で満たされる。――不快感? 否、これは――
「……」
 夜の闇に紛れ、ひとり歌を紡いでいたトキヤを見かけた時と同じだと思った。レンの意思とは無関係に、ふたたび心臓がうまく動かなくなる。それ自体が錆びついてしまったみたいにギシギシと不快な音を立てる。
 こほん、と何かを誤魔化すような咳払いが聞こえ、はっとしてトキヤの方を見る。ようやくこちらへ視線を戻した彼は、まだすこし気まずそうな表情を浮かべていた。そうしてくちびるをわずかに開け、何かを言い淀む仕草をしてから、静かに「帰りましょうか」と口にする。
「……そうだね」
 いつまでもこうしてふたりきりの教室に居座る意味もあるまい。どこかほっとしたような心地で、レンはこくりと頷いた。


 この日の出来事が明確なきっかけになった、というわけでもないのだけれどトキヤと話をする機会はすこしずつ増えていったように思う。すれ違ったら挨拶をするし、気が向いたら声をかける。そこに、同じくクラスメイトである翔を混じえ、他愛のない会話をすることもあった。友情と名の付くであろうそれを、レンは存外気に入っている。だから、……だから、胸に巣食う別の感情には、気付かぬ振りをし続けていたのだ。――あの瞬間までは。

+ + +

 わざとらしい嬌声を上げるレディですら、独り寝の寂しさを紛らすという意味でかけがえのない存在だった。
 あんあんと甲高い声で喘ぐいくつも年上の彼女は、レンくんもっと、と舌足らずな口調で行為の先を強請る。その時、――
 ――レン
「……っ、」
 似ても似つかぬはずの男の声が彼女のそれと重なった。クラスメイトのひとり、――最近はすこしずつ話をする機会も増え、友人という枠におさまりつつある彼の声が、どうしてか。
「レンくん?」
 レンの動きが止まったことを不思議に思ったのか、彼女がちいさく名前を呼ぶ。……ほら、やはり彼とはすこしも似ていない。
「……ごめん。大丈夫」
 何でもないよと言葉を続けてから、顔を寄せ、ぷっくりと膨らんだくちびるに触れるだけの口付けを落とした。それだけで彼女も納得するのだから、なんと便利な『愛情表現』だろうかと感心する。途端、暗いホテルの一室に湿度を含んだ空気が充満する。
 首の後ろに絡みつく細い腕が、ぐいとレンの身体を引き寄せた。彼女の行為の意図を察するよりも先に、彼女のくちびるがレンの首元に寄せられ、ぴりとひりつく痛みが走る。キスだけで誤魔化されるほど単純なレディではなかったということだろうか。――ああ、これは相当に面倒くさいことをしてくれる。
「……意地悪だね」
 苦笑混じりにそう言うと、彼女はレンの首元に顔を埋めたまま、ふふ、と満足げな笑い声を零した。


 幸いなことに(あるいは狙ってそうしたのかもしれないが)、制服をきちんと着ていれば、昨晩、彼女に付けられた痕はほとんど見えない。普段、意図的に着崩していることも相まって、第一ボタンまでしっかりと留めた自身の姿は何とも間抜けなように見えた。重たい嘆息が自然と零れる。
 互いに干渉しない関係を是としているのに、時折こういう形でくだらぬ独占欲を擦り付けられるのだった。「もう会わない方が良いね」というレンの言葉を飄々とした様子で受け入れた彼女が何を思ったのか、レンには知る由もない。
「めずらしい格好してんな。今日一日、授業サボった奴には見えない」
 ひょい、と顔を覗き込み、翔が楽しげな様子で声をかけてくる。
「何のこと?」
「誤魔化すの下手くそか。屈むと見えるぜ」
「……なら、おチビちゃんには絶対見えないはずだけど」
「おい」
 む、と表情を曇らせた彼に苦笑し、「冗談だよ」と返す。
「まさか、学園の子か?」
「ううん。年上のレディ」
「……へえ」
 じぶんから訊いておいて、不快そうな顔をするのはやめてほしいものだ。レンのそういう性質には慣れっこであるはずなのに、この心優しいクラスメイトは、いつかレンが刺し殺されるのではないかと本気で心配してくれているらしい。しかし同時に、レンが言っても聞かぬ男であることも理解している。むむ、とふたたび難しい表情を浮かべた翔は、「気を付けろよ」とそれだけを口にした。
「大丈夫。ありがとう」
「……ん」


 翔と分かれ、ふらふらと廊下を歩いている。用事があるわけではないが、視線はそれとなくトキヤの姿を探していた。二言、三言、それこそ先ほどの翔のように軽い会話を交わせば満足するはずである。この欲に深い意図があるわけではあるまい。――おそらくは。もしくは、単にそう思い込もうとしているやもしれなかった。
 教室にトキヤの姿はなく、レッスン室の予約表にも彼の名前はない。今日の放課後はバイトはないと言っていたし(それを聞いたのは昨日の話だが)、学園内の何処かにはいるだろうと踏んでいる。
(……あとは、図書館、とか?)
 そう胸のうちで独りごつ。図書館にもいないとなると流石にお手上げだ。
(いなければ、諦める)
 だから、必死になどなっていない。首元まできっちりと閉めたシャツのボタンをぷつぷつと外しながら、ちいさく嘆息を吐く。――そういう言い訳を自身に用意しているようで癪ではあるが、誰かに咎められることはないので、気付かぬ振りをしている。


 静寂に包まれた空間の中、テーブルの上に数冊の本を重ね、レンの探し人はひとり読書に耽っている。放課後のほとんどの時間をこの場所で過ごすつもりであったのだろうか。彼を探し当てたことに対して、安堵のような、罪悪感のような、何とも表現し難い感情を抱えたまま、レンは彼の隣の席へ腰を下ろした。
 読んでいた本から顔を上げ、トキヤはレンの方へ視線を向ける。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「……もう放課後ですが」
「うん。体調が悪くて」
「そういうことにしておきましょう」
 くすくす。声を潜めて笑う彼はとても可愛いなと思う。最近はトキヤに対して『可愛い』という感想を抱くことが日常茶飯事で、自身の中でそれを否定する習慣がすっかり失われてしまった。
「何か用ですか?」
「ううん。イッチーの顔を見にきただけ」
「……」
 何だそれ、と彼は訝しむような表情を浮かべる。
 だって、それ以上の表現がみつからないのだ。ただ顔を見て、すこしだけ話をして、そうすればきっとレンの中のモヤモヤとした黒い何かは鳴りを潜めてくれる。年上の美しいレディと肌を重ねても、レンのそれはおさまるどころか大きくなるばかりで、――結果、くだらぬ置き土産まで渡される始末だ。
目敏い彼女は、あの瞬間、レンが自身との行為以外の何かに気を取られたことを察したに違いなかった。だから、首元に残されたキスマークは、正しくは独占欲に見せかけたレンへの意趣返しのようなものである。
 ふたたび手元の本へと視線を戻したトキヤは、けれどレンの相手を務めてくれるようだった。図書館の中で許される声の大きさを維持しながら、ゆったりと口をひらく。
「暇なんですね」
「うん、それなりに」
「体調が悪かったのでは?」
「午前中、ずっと眠ってたら良くなったよ」
「それは何より」
 そこで一度言葉を切った彼は、視線を持ち上げ、何かを考える素振りをする。美しい彼の横顔を眺めながらレンは静かに言葉の続きを待っている。
「ひとりでここに来たんですか?」
「もちろん。イッチーに会いたくて」
 そうですか、と淡々とした様子で感想を述べられた。知らぬ間に、レンの発言をほどよく受け流す術まで身につけているのだから、慣れとはおそろしいものである。どうせなら、いつかの日のように初心な反応を返してほしい。
 そんな感想をぼんやりと抱いていると、前を見据えたままのトキヤは「そういえば」と言葉を続けた。
「……今日は、レディとの約束は?」
「……」
 む、と返答に詰まった。痛い所を突かれたような気分だ。トキヤにその意図がないことは重々承知しているけれど、浮気を疑われる男の心境を正しくなぞっているような心地になる。
「イッチーと会えたから、十分」
「そればかりですね、あなたは」
 やれやれと肩をすくめる仕草ののち、トキヤはデスクに置いてあったしおりを手に取り、本のページに丁寧に挟む。どうやら読んでいた本は図書館に所蔵されているものではなく、私物であるらしい。ブックカバーがかけられたそれをキリの良いところまで読み進められたのだろうか。――あるいは。
 彼の一挙手一投足を見逃すまいとしていたレンは、待てをされた飼い犬のように、尚もトキヤの横顔を見つめ続けている。
 不意に、彼の視線がこちらへ向けられる。レンの視界の中でブルーサファイアがちかちかとまたたく。
「それ。良いんですか?」
「……ん?」
「痕。見えてますけど」
 トキヤの視線が首元のある一点を見つめている。ワイシャツを正しく着ていれば見えなかったはずだが、今更隠すことでもあるまいと、図書館へ向かう道中、いつものようにボタンを外してしまった。――あるいは、気付いてほしかったのかもしれない。気の置けない友人枠におさまりつつある彼に、その先へ踏み込ませるために。
「ああ、うん。昨日、ちょっとね」
「……あなた、仮にもアイドルでしょう。遊ぶならもっと上手に遊んでください」
「わお、手厳しいな」
『上手に遊んで』なんて、すこし前の彼からは想像もつかないような言い回しだと思う。レンが毒したのか、あるいは元からの性質が滲み出てきたのか。どちらにせよ、良い傾向であることには変わりない。
 席から立ち上がり、デスクに手をついたレンはトキヤの顔を覗き込む。ととのった造形が動揺で歪むさまを見たいなと思った。もたらされる変化を、すこしも見逃さずすみずみまで堪能したい。
 至近距離で視線がぶつかる。呆れたような表情を崩さぬ彼に「それなら、」と言葉を続けた。
「イッチーが相手してくれる?」
 ちかちか。ふたたび宝石がまたたいた。あまりの眩さに壊れかけの心臓は更に機能を失っていく。しかし、「冗談だよ」と微笑む隙間は残されている。
 不意に彼の腕がこちらへ伸ばされた。ゆるく巻いたネクタイをぐいと引っ張られ、レンはわずかにバランスを崩す。明確な意志をもち、トキヤのくちびるがレンの首の皮膚に触れた。
「――いっ、」
 予想していなかった痛みがぴりと走る。――噛み付かれたらしい、と。置かれている状況を正しく理解することに時間を要した。
 レンの行動に対して『仮にもアイドル』だと苦言を呈しておきながら、『アイドル』の皮膚に傷を残すなど、矛盾も甚だしいように思う。――否、実際は傷など残っていないのかもしれないが、それに近しい行為を彼がとること自体、レンにとっては想定外だった。
 ――痛い、と。わざとらしくくちびるを尖らせてそうつぶやく。くつくつ、喉の奥で笑い声を噛み殺すトキヤは、レンの感情の機微などとうの昔からお見通しであったのかもしれない。

+ + +

 ひとりは寂しい。ベッドに身体を預け、冷えたシーツが皮膚をなぞるたびそうであることを自覚する。だから、声をかけてくれるレディたちを拒むことなく優しく迎え入れた。大半の子はレンの性質を(この際、それが正しいか否かは重要ではない)理解し、互いにちょうど良い相手と割り切ってくれる。
 もぞ、と隣で何かが動く気配がする。シーツの隙間から覗く滑らかな肌は情事後であることを明確に匂わせており、柄にもなく背徳感を覚えるのだった。――安いホテルの一室、隣に眠るおとこが一ノ瀬トキヤであることに対して。
「起きた?」
「……」
 早起きしたふうを装っているが、事実、眠りにつくタイミングを逃してしまっただけだ。掛け布団で口元を覆い、寝ぼけまなこをこちらへ向けるトキヤは、ダダをこねる子どものように、んん、と言葉にならぬ呻き声を零した。
 幸福なのだと思う、おそらくは。戯れと偽り欲のまま伸ばした手を、トキヤは何故か拒まなかったから。ならば、レンがレディたちにそうであることを求めたように、『互いに干渉しない関係』を築くことが正しいのだろうか。
「……レン」
 むにゃむにゃと寝言と変わらぬ声色で名前を呼ばれた。砂糖菓子を煮詰めたみたいな甘ったるい空気に、柄にもなく困惑している。
「……おはようございます」
「ああ、おはよう」
 そんなレンの胸中など知る由もない彼は、くあ、と無防備な欠伸を零したのち、手首の内側で閉じた瞼の上をやわく擦っている。猫みたいだ。あたたかい布団の中で丸まる、飼い猫の方。

 寂しさに飲み込まれそうになった時、迷いなくトキヤに連絡をするようになった。レディの誘いはやんわりと断り(角が立たぬようデート紛いのことは今でもするけれど)、やわらかさとは無縁のおとこと幾度も肌を重ねている。実際、妊娠の心配がないのは良い。ゴムは使うが、数ミリの隔たりさえ惜しく感じる瞬間が存在することも事実だ。その類の話をすると彼は笑いながら「最低ですね」と口にするのだけれど。当然、トキヤも同罪だろうとレンは思っている。

 チェックアウトまで、もうすこしという頃合いである。
 レンからすれば、もっとちゃんとしたホテルで夜を過ごしたいのだが、お金をかける必要はないからとトキヤが頑なに首を縦に振らないのだった。深い意図があるのか否か、レンに知る術はない。結果、こうして無慈悲なチェックアウト時刻が存在している。
 数十分前までは寝惚けていたトキヤも、すっかり支度を終えていた。ベッドの上に楽譜を置き、真剣な表情で譜読みを進めている。
「それは?」
「……課題曲ですよ」
「……」
 じとりとした視線を向けられ、思わず苦笑する。
 彼の生真面目さに毒気を抜かれた部分は存在しており、以前に比べ、学校生活にはレンなりに向き合うようになった。それでも、予習・復習を欠かさず、数ヶ月先の課題曲にも早いうちから取り組む彼には到底及ぶはずもない。
 トキヤの隣に腰かけ、楽譜を横から覗き込む。言われてみれば、見覚えがあるような気もする。
「ようやく真面目になったと思ったのに」
「大丈夫。ちゃんと完璧に仕上げてくるから」
「……そこは疑っていませんが」
「本当? それは光栄だ」
 恭しく頭を下げる仕草をする。トキヤは呆れたように笑っていた。
(……いつか、)
 存在しない『もしも』が、レンの脳裏をするりと通り過ぎていく。
 もしもこのまま、彼の隣に在り続けたら、いつか。
 ――いつか心の底から、アイドルを楽しいと思える日がくるのだろうか。

《続く》


掲載既刊:良き友人(とらのあな)