収斂
狭い箱の内側を光と音が飛び交う。
ステージ中央に設置されたお立ち台の上で、灯世はフロアをひしめく観客たちを見下ろしていた。曲に合わせて揺れる拳、宙を舞う長い髪、メンバーを射抜くギラギラした視線。どこを切り取ってもこれ以上ないくらいの幸福で満たされており、灯世は無意識に目元をゆるませる。
ファンの温度を直接感じられるライブは良い。自身の身体から紡がれる音楽を通して、思想が混ざり合う感覚が心地好かった。何かを肯定してほしいわけではないけれど、好ましいと思うものを共有できる空間はそれなりに有意義だと感じる性質である。共に音楽を奏でる仲間が大切な存在であるなら、尚更。
間奏の終わりとともに楽器陣の演奏の音量がちいさくなる。それを合図に、灯世はくちびるに手持ちマイクを近付けた。息を吸い、吐く息とともに自身の言葉を歌にのせる。愛や平和を願う歌は不得手だが、灯世の手のうちにあるひとびとには幸福であってほしいと思う。だから、いちど音楽の世界へ身を投じた以上は最後までやり遂げると決めたのだ。
ボーカルソロが終わり、ラスサビへと繋がる。お立ち台から下りた灯世は、ステージの下手側でベースを弾く有へ近付いた。曲の盛り上がりに合わせて好き勝手パフォーマンスをするギターやドラムと違い、有は淡々と自身のパートを弾きあげるベーシストだ。だからこそバンド自体のバランスが取れているのだと、CDショップに置かれるフリーペーパーのインディーズバンドの紹介コーナーで書かれたこともあった。
フロアをじっと見据えながら、有は決められたフレーズを正確に奏でていく。細長く骨張った有の指が、指板の上を縦横無尽に泳いでいた。下手側には自然と有のファンが多くなるが、彼女たち(もちろんちらほらと男性も見られる)はうっとりとした表情で有の顔と指を見つめている。――
ふと、有がこちらへ視線を向けた。先程まで感情の抜け落ちた人形のように無表情を貼り付けていた――それがいつもの彼のプレイスタイルなので、特筆すべきことはない――彼だったが、サビを歌い終えた灯世をみとめた途端、口の端をちいさく持ち上げ、ふわりとサファイアの双眸をゆるませた。
「……ッ」
有のそういう表情は何度も目にしてきた。感情の機微をあまり見せないようで、そのじつ、灯世の前では内側のやわい部分を晒すことも多々あるのだ。おそらく、本人にその自覚はないのだろうけれど。
めずらしい光景でもないのに、どうしてか心臓が細い糸で締め付けられたみたいにギュッと切なく痛む。――ライブの空気に当てられた? 気持ちが高揚しているのは何もフロアに限った話ではあるまい。
衝動的に腕を伸ばし、灯世は有のまるい後頭部を引き寄せる。「とも……ッ」驚いたように目を見開いた彼のくちびるに、そのまま噛み付くようなキスを落とした。勢い余ってガチりと歯がぶつかる音がしたが、構うことなく舌を差し入れ、尖った犬歯をするりと撫でる。
激しいメロディが折り重なる中、下手の前列にいたファンたちがヒュッと息をのみ、口元を手で押さえる仕草が視界のすみに垣間見えた。鼓膜がビリビリと震える。互いに目を閉じることはせず、焦点の合わない視界の中で、それでもはっきりと彼の海の色が揺れるさまをみとめた。灯世の言動で彼の感情が揺らぐことに言いようのない幸福を抱くのだ。妙な独占欲のような――それにしては美しい形をしている情動が、ゆったりと灯世の胸を満たしていく。
+++
灯世、と。おだやかな声色で名前を呼ばれ、灯世はゆったりと顔を上げる。
機材をマネージャーの運転する機材車に詰め込んだあと、他のメンバーはさっさと帰宅してしまったため、楽屋には灯世と有だけが残されている。
「帰らないのか」
「ん、帰るよ」
そう言いながら、灯世の視線は手元のスマートフォンに注がれたままだった。マネージャーから受け取った今日のライブ映像を観始めたら、つい切り時がわからなくなってしまった。
フロアから見るじぶんたちの姿はいつでも新鮮だ。まっすぐ前を見つめたまま、ほとんど頭すら動かさずベースを弾く有の安定感に感心する。
「今日のライブか?」
「ああ。よく録れてる」
手持ちのスマートフォンで撮影したというのだから驚きだ。後日、宣伝も兼ねてSNSに投稿するらしい。
ライブの定番曲からすこしコアな曲まで、MCをほとんど挟まず、演奏に公演時間をたっぷり使ったワンマンライブは概ね好評だったようだ。
灯世の手元を覗き込むように有の顔が近付いた。スマホの画面には、ライブ終盤、ボーカルソロを終えた灯世がお立ち台から静かに下りるさまが映っている。フロアを満足そうに見渡した灯世は、そのまま下手へと移動して――
「……」
「……」
画面の左端で灯世と有のくちびるが重なる。ライブ中は気付かなかったが、他ふたりが呆れたように顔を見合わせる姿もしっかりと映っていた。
手入れをしているとは言い難い、わずかに乾燥したくちびるの感触を思い返す。衝動的な口付けを、けれど有はいとも容易く受け入れ、今もこうして普段と変わらないような態度で灯世と接しているのだ。パフォーマンスの一環と片付けてしまえば簡単なことだが、むしろ灯世はそうでない理由を探している
ただ、まるで初めからそうであるように――あるいは、SFじみた思考回路であるが(昨晩観ていた映画の影響かもしれない)、どの世界においても、有とくちびるを重ねることに灯世は違和感を抱かない――初めからひとつの生き物だったみたいに――そうあるべきだと灯世は本気で信じていたりするのだ。近所に住む幼馴染……学校のクラスメイト……職場の同期……ぶっ飛んだ世界観でいえば、敵国の武将でも、マフィアの組員同士だって良い。バンドのメンバーとして――音楽を介して出会わずとも、あるいは、必ず。
「……灯世」
「ん? ……んむっ、」
「……」
ふたたび名前を呼ばれ、灯世は霧散していた意識をひとつに掻き集める。その瞬間、灯世のくちびるを有が優しく攫っていった。ライブ中に灯世が与えたものとは違う、そっと触れるだけの口付けだった。
「……有?」
「したいように見えたから。違ったか」
「……いや、……そうだな、そうかもしれない」
一度タガが外れてしまえば、二度も三度も変わらないということなのだろうか。物欲しそうな顔でもしていた? 現に、ぬくもりを知ってしまった身体は、ライブの高揚感を引き摺っていることも相俟って、内側が妙にくすぶっているような気がした。
「……」
目前の有の顔を見つめる。きょと、と大きな瞳をまたたかせる有は、静かに灯世の視線を受け止めた。「……帰ろう」――ふと視線を切りながら立ち上がる。ちいさく頷いた有とともに楽屋をあとにした。