※ 長編冒頭部分のみ
※ 身体の関係がある灯有の過去と現在について
薄い暗闇に佇む見知らぬ影がある。――否、あれは俺自身だ。灯世は自覚する。あれはまぎれもなく俺自身だが、俺の意思ではない何かだ。前後左右すべてが朧気な空間のなかで、あれだけがはっきりと存在している。――認めてしまえ。影が笑う。ニタリとくちびるの端を持ち上げ、ゆがんだ三日月を形作る。
夢? 幻覚? あるいはそれに似た類のものか。覚えのない空間に放られている理由も含め記憶を遡ろうとするけれど、灯世の思考は靄がかかったように不明瞭だった。身体を動かすこともままならない。やはり、――夢、なのかもしれない。そうだと自覚した途端、すべてが腑に落ちるような感覚を覚える。それと同時、目前に佇んでいたそれはぐにぐにと粘土細工のように形を変える。先程まで朧げだった輪郭が、今度ははっきりとその像を模った。
「……有」
淡い笑みを浮かべる見知ったおとこが立っている。視線がぶつかる。思わず、その名前を口にする。――悪趣味だと思った。何度同じことをくりかえせば気が済むのか、と。これはくだらぬ夢をくりかえし見る己に対する同情なのやもしれぬ。――認めてしまえ。彼が笑う。『新名有』の形をしたそれは、彼が絶対に言葉にしないことを口にする。
認める? 何を? きっと、この解を得られることは一生ないのだろうと灯世は理解している。端から存在しない思考に基づいた『何か』を自覚することは難しく、だからこそ曖昧な夢ばかりを見続けていのだ。――幼い頃から、何度も、何度も。
たてがみと牙と色欲まるごと撫でてよ
はじかれるように瞼を持ち上げた。ぱちぱち、意識的なまばたきをくりかえすと、ぼんやりと霞んだ視界がすこしずつ明瞭になり、色を取り戻していくような感覚がある。何か、――悪い夢を見ていたような気がする。仔細を思い出すことはできないけれど、身体の内側に泥水のように溜まっている不快感がそれを証明しているようだった。暗闇と、影。それから――
「起きたのか」
すぐ近くから声が聞こえ、反射的に灯世は顔を上げた。声の主が誰であるかをきちんと認識するよりも先に、灯世のくちびるは、有、と彼の名前を紡いでいる。すでに着替えを済ませている様子の有はベッドの縁に腰掛け「おはよう」と言葉を続けた。「随分とうなされていたみたいだが、悪い夢でも見たのか」
「ん……」
そうか、うなされていたのか。口には出さず、胸のうちでひそかに独りごつ。やはり中身を思い出すには至らないが、妙に納得した心地になる。くしゃりと自身の頭をかき混ぜ、灯世は上体を起こした。そのさまを静かに眺めていた有が――不意にこちらへ手を伸ばし、つつと顔の輪郭を辿る。そこで初めて灯世は自身がびっしょりと汗をかいていることに気付いたのだった。
「……」
汗をぬぐわれる感覚が心地好い。乾燥した彼のてのひらに意識せず自身の頬を寄せてしまう。そういう灯世の仕草をされるがまま受け入れた有は、ふ、とくちびるをゆるませ「シャワー、浴びるか」と問う。たしかに、ベタついた身体と妙な心地の悪さを訴える頭をすっきりさせるためには、彼の提案は最適なように思えた。首を縦に動かし、「そうだな」と同意する。
「わかった、準備しておく」
するり。頬をなぞる有の指が離れていく。剥き出しの皮膚に寝室の乾いた空気が触れ、冷えた虚しさが胸のうちに巣食う気がした。中身すら思い出せぬような夢に感傷を引きずり出されているのかもしれない。こちらに背を向け、寝室をあとにする有の背中をぼんやりと眺めながら、くだらぬ思考をくりかえしている。
ベッドから立ち上がり、ちいさく息を吐いた。首をまわすと、ぱきりと関節の鳴る音が聞こえる。