
ただしい距離
ごめん、十分くらい遅れそう!
ポコン、という通知音とともに、茶色いクマが頭をペコペコ下げるスタンプが送られてきた。うんうん、なんとなくそんな気はしてた。彼女の『十分くらい』にすっかり慣れっこなわたしは、白いウサギがサムズアップするスタンプを返してスマホの画面を落とす。
お茶をしようと言い出したのは彼女だけれど、それならばと訪れるカフェを提案したのはわたしの方だ。縁あって参加したブライダルフェア、そこでタキシードを纏い接客をしていたスタッフたちは普段はアポリアというカフェを営んでいるらしい。顔の良いスタッフに接客(エスコート)され、おいしい料理(アポリア側もメニューの考案などに携わったようだ)に舌鼓を打ち、大変有意義な時間を過ごしたことは記憶に新しい。
ちらと腕時計に視線を向ける。律儀に十分前行動を心がけているせいで(待ち合わせ相手が遅刻常習犯であることは重々承知のうえだ)彼女が到着するまでそれなりの時間がある。だからといって移動するわけにもいかないし、この場でぼんやりと過ごすほかないだろうと結論付けた。
(……あ、)
何の気なしに視線を向けた先、細い車道を挟んだ向かい側に見覚えのある――ふたり組の片割れだけであるが、人物の姿が在った。うっかり漏れそうになった声を飲み込み、口元を手でおさえる。あまりにタイミングが良くて――いや、ある意味悪いのかもしれないけれど、驚かざるを得なかったというか。
落ち着いた色合いのタキシードに身を包み、静かに淡々と接客をしていた美しいひと。ピンと張った糸のような緊張感を纏い、加えて何処か冷たい印象を受けた。接客中それをおもてにあらわすことはないけれど、不必要に踏み込むことをわたしたちにすこしも許さぬような。……そう、たしか名前は『新名』さんといったはずだ。
彼は両手に食料品でいっぱいのレジ袋を提げていた。ぴょこんと飛び出したネギまで見え、生活感たっぷりの姿はブライダルフェアで見かけた彼とうまく結びつかない。と、わたしが驚いた要素はそんなところ(――否、これだけでも十分驚くに値することではあるが)ではなくて。
感情の乗らない冷えた表情が標準装備で、いっそ替えのきかぬものだと思っていた。接客という幾重にも装飾を施しそうな場でも彼は至極淡々としていたから。
ぽつりぽつりと言葉が落とされる。もちろん内容までは聞き取れない。ただ、彼のくちびるが静かに動くさまが視界に映る。彼の隣を歩く人物には見覚えがない。……友人? という感じはしない、なんとなく。仕事仲間……? あのひとがアポリアで働く姿はあまり想像つかないけれど。太陽の光を臙脂色に弾く髪が風に揺れ、遠くからでも整った造形がよくわかる。新名さんよりも幾分背が高く、身体付きもしっかりしているようだった。彼も新名さんと同じように食材が詰め込まれたビニール袋を持っており、それが妙にアンバランスなように見える。
「……!」
ふわ、と。道端の目立たぬ場所に在る植物がちいさい花弁をほころばせるように。じいっと見ていなければ見逃してしまうほどかすかに、けれどたしかに新名さんは今、自身の口元をゆるませ、隣の彼に対し淡い笑みを浮かべてみせた。温度の存在しなかったはずの瞳はいつくしむようなあたたかい色をたたえているに違いない。
(……わっ、)
そんなの、なにひとつおかしいことなんてないのに。なんだか見てはいけないようなものを見てしまったような気分になるのはどうしてだろう。彼のちいさな笑みを脳裏に焼き付けるように、目をそらすことも忘れてしまっていた。――不意に、新名さんが意思を持ってこちらを向く。車道を挟んだ距離なのに、ばちん、と音が聞こえてきそうなほどはっきりと視線がかち合ってしまった。ちかちか、熱の残滓のようなものが漂う。
わたしの存在を訝しむような様子は見られなかった。自然な流れで視線をそらされる。彼からすれば見知らぬおんながぼんやりと佇んでいるだけに過ぎないのだから、当然と言えば当然なのだけれど。それに、なんとなく、彼はこういう状況には慣れっこなんだろうなとも思う。目立つ容姿だ。派手……というよりは、単純に整った見目をしているという意味で。
「……」
思考をよそに、彼らはそれ以降こちらには目もくれずその場から離れていく。
(……びっくりした)
心臓がどくどくと早鐘を打つ。触れてはいけないふたりの、思いもよらぬ逢瀬をうっかり盗み見てしまったような。もちろん、的外れな喩えだと自覚している。新名さんのことも、隣にいた人物のことも、わたしはなにも知らぬに等しい。
ふと、新名さんのいつくしむ対象はなんであろうかと考える。それは、恋や愛を与える相手とは異なる存在なのではないだろうか。――これも根拠のない、『なんとなく』で片付けられるような思考である。
先程の彼の姿が脳裏にこびりついている。ああ、きっと、わたしは今日以降もアポリアに通い続けるのだろう。そのうちにいちどくらい、片鱗でも構わないから、彼のやわらかく情に満ちたあの笑みを見られたら良い。