
「有?」
ぽつりと落とされた灯世の言葉が薄暗い室内に霧散した。
椅子に腰掛け、テーブルに頬杖をつく彼は灯世の声に対して反応を示さなかった。「……」近付き、静かに顔を覗き込む。瞼を伏せたままぴくりとも動かない彼は、眠っているようにも、死んでいるようにも見える。「息をしているか心配になっちゃった」と、これは先日のドレスアップイベントで有のメイクを担当した御門の言だった。「……? 息はするだろう」「ん−、まあ、そうなんだけどね」――ふふ、とおかしそうに微笑んだ彼の胸中を今更、灯世は輪郭を辿るようになぞっている。
「……有」
今日まで幾度、その音を紡いだだろう。すっかりくちびるに馴染んだおとこの名を飽きず言葉にして、灯世は彼の『寝顔』を見つめる。
ぱちり。唐突に有の瞼が持ち上がった。うろ、と動かされた視線は自身を見下ろす灯世の姿をみとめると、その場に縫い止められたようにぴたりと停止する。
「……悪い」
眠っていたか。――『寝起き』とは思えぬほど、はっきりとした声色で淡々と言葉が零された。けれど、長い年月ずうっと有の傍に在り続けた灯世は、彼がこの状況に対してすくなからず動揺していることに気付いている。
「ああ、そうだな。ぐっすり」
わずかに彼の両目が細められた。状況を正しく理解しながら、うたた寝をするほど気を抜いていた自身を咎めているのだろう。動きを止め、彼はじいっと灯世を見つめる。
「……」
普段は決して思わないが――何故か飼い主に叱られる飼い犬の様子が彼の姿と重なった。ぺしょ、と耳を垂らし、長い尻尾が床にぺたりと貼り付いているような。常と変わらぬ無表情であるのに、哀しいと虚しいが綯い交ぜになったような――やはり、取るべき行動を見失った飼い犬という表現が正しいと思えるような負を帯びた感情がひしひしと伝ってくる。そして、それを目の当たりにした灯世の内側を満たすものは、愛犬をいつくしむ情緒に似ているのかもしれなかった。脳裏を過ったそういうくだらぬ、かつ、らしくない思考を自覚し、灯世はふっと口元をゆるませる。
「……灯世」
こちらの反応を訝しむように、なおも微動だにしない彼はくちびるだけを動かした。サファイアの瞳がぶれることなくこちらを捉え、灯世の一挙手一投足を見逃すまいとしている。
彼の視線をまっすぐ受け止めながら、灯世はちいさく息を吐く。そうして「食事にするか」と口にした。
「……ああ。用意してある」
「ん」
鼻腔をくすぐる香りに、そうであることは検討が付いていた。
――疲れているのなら、眠った方が良い。言葉にすることは簡単だが、彼がそういう『慰め』を必要としていないことも重々承知しているのだった。
キッチンへ移動する彼の背中をぼんやりと眺める。同時に、先程から胸を満たしている生ぬるい温度を保った『情緒』を改めて自覚する。寝惚けているのはこちらの方かもしれないと、瞼を下ろしながらふとそんなことを思う。