「別れちゃいなよ、そんなやつ」


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 スペアとか、ストックとか、あったら安心できるけれど、替えがきくもの。それが彼にとっての私だった。
 あんな男はやめておきな、と散々言われていたのに。その度に曖昧に笑って流してばかりいた私は、とうとう目を覚まさなくていけないエンディングを迎えてしまった。
 玄関に見たことのない、ヒールの細い靴が目に入った瞬間、全てを悟った。それがちっとも私の趣味ではないことに気づいて、「やっぱり」という感情が一番に沸くあたり、ちっとも信用なんてしてなかったんだと思う。自分のこと、相手のことも。
 ――恋人の浮気を確信し、彼らにバレないようにそうっと踵を返した。まるで、こっちが罪人みたい。情けない。泣き喚いて、感情を剥き出しにする可愛げのある女にはなれない。そもそも、そんなことが出来るなら、彼が他の人へ心を移すことも無かっただろう。
 どくん、と心臓は嫌な音で軋む。今すぐ取り出して捨ててしまいたくなる。そうすれば、冷静なフリがもっと上手にできる気がしたから。泣けないのならば、平然と流していたい。いつもあの人を悪く言われる度に浮かべてた、あの気持ち悪い笑顔みたいに。
  雲ひとつない快晴だということをうっかり忘れてしまいそうなほどセピア色に変色した思考の中で、ぐるぐるとそんな事ばかりが頭を巡った。
 こつ、こつ、とアスファルトを踏みつけるみたいに歩いていた足は、「ナマエちゃん?」と無垢でクリアな声に止められた。
 その瞬間、ぼんやりと目の前が明るくなっていくのを感じた。

「……廻くん」

 よっす! と、片手を上げて掌をこちらに向けながら笑う、蜂楽くんの姿が目に入る。彼は今や、世間を騒がせているブルーロックを経て、海外でも活躍するプロサッカープレイヤーだ。
 そして廻くんは、私の幼なじみでもある。

「久しぶり、帰ってきてたんだね」
「うん! 昨日一時帰国したんだよ〜!」

 幼なじみ、と言っても頻繁に顔を合わせていたのはもう何年も前だ。あの頃からずいぶん時間が経った。廻くんに会うことも、今ではすっかり珍しくなっていた。
 おかえり、と言いながら口角を上げて見せた。久しぶりの再会に似合わない笑顔は見せたくないし。――そう、思ってたのに。上手く取り繕ったつもりだったのに、廻くんがあまりにもあの頃と変わらない笑顔を向けてくれたからか、瞳を覆う水の膜が分厚くなって、瞬きと同時に一粒逃げ出してしまった。

「……ありゃ?」

 その一粒を追いかけるように、ほろり、と生暖かい雫が頬を流れ落ちていく。へらへらと笑いながら、泣いてしまう。晴れの日の通り雨みたい。止んで、早く止んで。

「ご、ごめん……あれ」
「……」

 手の甲で緩い雨を拭う私の腕は、廻くんに捕まえられ、ゆっくりと顔から離される。
 廻くんの丸い琥珀色の瞳は、じっと私を見つめた後「ちょっと付き合って」と細められる。口許には緩い笑みが浮かんでいる。腕を掴んだまま、廻くんは私の返事を待たずに歩き始めた。
 懐かしいな、と思った。廻くんはいつも思いついたまま楽しい方へと進んでいく。こんな風に廻くんに腕を引かれて、公園や土手に連れて行かれることも多かった。
 でもあの頃と違うのは、ずんずんと大股で進んでいた歩みが、私に合わせてペースを落としてくれている。
 廻くんは変わらないけど、変わったんだ。私とは違う意味で。

 公園に到着すると、廻くんは背負っていたスポーツバッグを下ろした。ファスナーを開けて、その中からサッカーボールをひとつ取り出す。

「ナマエちゃんは座ってて!」
「? う、うん」

 ベンチに座るように促され、言われるがまま腰を下ろす。秋風が木々を撫で、葉っぱの揺れる音が心地よかった。
 公園のベンチに座るのは、いつぶりだろう。
 廻くんは、ぽん、ぽん、と安定したリズムでリフティングを始めた。
ボールを一定の高さで蹴りあげて、落ちてくるボールをまた宙へと上げていく。まるで、ボールを操っているみたいだ。
 魔法みたいだなあ。なんて思いながら見ていると、さっきまでの張り詰めてた気持ちが、少しずつ緩んでいく。
 廻くんはすごい。小さい頃からずっと、自分の好きを貫いている。そんな彼が眩しくて、私は視線を自分のつま先に落とした。
 廻くんはボールに視線を向けたまま、「ナマエちゃんのこと泣かしたの、誰?」と切り込んでくる。てっきり触れられないものだと思っていたので、驚いて反応が遅れてしまった。
 
「……ちょっと、彼氏と喧嘩しちゃって」
「そいつに泣かされたの?」


 廻くんはリフティングを続けながら言う。話しながらなのに、ちっとも乱れない。すごい。気が散っちゃわないのかな。

「うーん。でも私も悪いから」

 味のしなくなったガムみたいな言葉を咀嚼して、ヘラヘラ笑いながら顔を上げると、もう廻くんはボールを蹴ってはいなかった。代わりに、何かを確かめるような目で、じっとこちらを見ていた。

「別れちゃいなよ、そんなやつ」
 
 核心を突かれるのが怖くて、また視線を地面に落とす。するとすぐに砂を蹴る音がして、視界に廻くんのスニーカーが入ってきた。
 廻くんは隣に腰を下ろすと、前のめりになって私の顔を覗き込んでくる。とん、と触れた肩は硬かった。

「俺、ナマエちゃんが泣くのヤダ」
「……もう泣き止んだよ」
「でも帰ったら、泣くんでしょ」

 思わず唇を結んだ。何か言葉を口にすると、廻くんの言う通り泣いてしまう気がして、ふるふると頭を左右に振ってみせた。

「別れよ、そんでもっと楽しいことしよーよ! いっぱい!」
「……それが出来たら楽なんだけどね」

 膝の上で両手を握りしめながら、ようやく絞り出した言葉は弱虫の言い訳だった。

「……楽な方に行かないのはなんで?」
「わかんない」
「あは、好きだからじゃないんだ。それもう答え出てんじゃん?」
「今日の廻くん、容赦ないね」
「だって俺、ナマエちゃんのこと大好きだし」

 一瞬、思考が止まる。ストレートな言葉に、分かりやすく動揺してしまった。けれどすぐに、廻くんからの温もりは幼なじみとしての愛情なんだろうと気がついた。昔から、彼にだけは何度も大好きをもらったことがある。大好きなままでいてくれるなんて、優しいな。

「……ありがとう」

 曖昧に笑って見せる。今まで何度もしてきたあれを、変わらずに大好きを渡してくれる人に向けてしまった。
 廻くんは珍しく静かな表情をしたまま、んー、と短く唸る。

「俺の初恋、ナマエちゃんだよ」
「……え、」
「今もずっとナマエちゃんが大好き。俺の言う大好きは、そういう好きだよ」
「へ、」

 その瞬間、急激に体温が上がった気がした。
 じわじわとその体温は広がって、私の頬や耳に熱を持たせる。
 初恋だなんて、ありがとう。とか、そんな事を返そうと思っていたのに、現在進行形だと語るその瞳があまりにも優しく細められるので、それが冗談や慰めではないことが伝わってくる。

「し、知らなかった」
「やっぱし?♪ んじゃ、今日知れたね」

 廻くんは緩やかな笑みを浮かべたまま、私の目尻を指先でなぞる。爪が短くて、硬い指。それは紛れもなく、男の子の手だった。

「もう擦っちゃだめだよ」
「……う、ん」
「さっきから全然目合わない。恥ずかしい?」
「そ、そういう事は言わないで」
「にゃはは、かわいいね。ずっとかわいい、大好き」

 廻くんの大好き爆弾は手を緩められることはなく、更にはかわいいという追撃までしてくる。

「か、彼氏がいる人にそんなこと言っちゃダメ」
「なんで?」
「ダメだから」
「ダメなだけならやめないよ。ナマエちゃんが嫌がってるなら、ちょっとだけ考えるけど」
「……」
「だって俺、ナマエちゃんが嫌がることしたいわけじゃないもん」

 頬を撫でていた手が下がっていき、私が固く握りしめていた手を包んでくる。廻くんの体温が直に伝わってきて、慌ててベンチの隅に逃げた。

「え! 追いかけっこ?」
「違う違う!」

 慌てて首を振ると、廻くんは楽しそうに笑った。
 大きく口をあけて無邪気に笑う顔は、幼い頃の面影を残したままだ。

「じゃあ、なんで逃げるの?」
「……だって、私には彼氏がいるから」
「うん。知ってる」
「だったら――」
「でも、俺はナマエちゃんが好きだよ」

 あまりにも迷いなく言われて、言葉に詰まる。
 廻くんが渡してくれた好き、を私は当たり前に受け取って、その中身を今まで知ろうともしてなかった。その事実に、胸が苦しくなる。
 廻くんなら他にいい人いるよ、なんて、返答として最悪な言葉を口にしてしまったのに、廻くんは少しも間を開けずに「いないよ」と言い切った。
 
「いるよ。私じゃなくても――」
「いない」
 
 今度はもう笑っていなかった。
 
「ナマエちゃんじゃなきゃ嫌だもん」

 胸の奥が、ひどくざわつく。廻くんと話していると、自分の価値を勘違いしそうになる。そんなふうに、言って貰えるような人間じゃないのに。
 脳裏に、今朝のパンプスがチラついて、また苦しくなった。

「……そんなの、分かんないよ」
「分かるよ。俺が分かってるから」
「でも、私……」
「ナマエちゃん」

 廻くんの声が、しっとりと重みを含んでいて、思わず顔を上げてた。
 
「世界に一人しかいないよ」

 廻くんの琥珀色の瞳は、まっすぐ私だけを映していた。
 凍てついた心に、温もりが注ぎ込まれていく気がした。

「俺が好きになったナマエちゃんは、世界に一人だけ。だから、他の誰かで代わりにするなんて無理だよ」

 その言葉は、今まで聞いてきたどんな慰めよりも、ずっと静かだった。そして、なによりも嬉しかった。だからこそ、私には身に余ると思った。

「……私には勿体ない言葉だよ」
「だって俺、ナマエちゃんがいいんだもん」

 当たり前のことを話すみたいに言うと、廻くんはまた優しく琥珀色の瞳を細めた。

「ここにしかいないじゃん。俺の大好きなナマエちゃん」
 
 私の反応を見て、廻くんはケタケタ楽しそうに笑った。けれどすぐに、「じゃあ今はここまでにしとく」と私の手をゆっくりと離した。

「でも俺、諦めるとは言ってないからね」
「え、えっと、」
「俺は初恋を叶えに来た、それを忘れないで」

 その言葉に、なぜだか私自身を抱きしめられたような感覚して、言葉に詰まる。結局「うん」と相槌を打つのが精一杯だった。廻くんは満足そうに頷いて、ベンチから立ち上がった。

「じゃ、帰ろっか」
「うん」
「送ってくよ」
「え、大丈夫だよ。家すぐそこだし」
「知ってる」
「……じゃあ、なんで?」
「俺が送りたいから」

 あまりにも迷いのない返事に、また言葉が詰まる。

「……そっか」
「うん!」

 廻くんはスポーツバッグを背負い直すと、何でもないことのように歩き出した。その姿は、つい先程まで告白していた人とは思えない。
 少し遅れて、その隣を歩く。
 夕暮れの道は、いつも通っているはずなのに、なんだか知らない場所みたいだった。ちらりと隣を歩く廻くんの横顔を盗み見た。
 少し伸びた背、大きくなった肩、そして、さっき私の手を包んだ、硬い指。知っている気になっていたのに、知らないところが沢山増えている。そして、その知らないところばかりが目についた。

「……なに?」
「え?」
「さっきから俺のこと見てるっしょ〜?」
「み、見てない」
「見てたよ〜」
「……見てないってば」
「にゃはは、やっぱかわいい」

 胸の奥が、くすぐったいような、苦しいような感覚になる。慣れない温もりに戸惑ってしまう。今日だけで一生分の可愛いを受け取った気がした。
 
 家の前まで着くと、廻くんは手をヒラヒラとさせながら「またね」と笑う。同じようにまたね、と口にしようとして、肝心なことを伝えられてなかったことに気がつく。
 
「……廻くん」

 呼び止めると、廻くんは不思議そうな顔をしながら、私の言葉を待ってくれていた。
 短く息を吸って、肺からパワーを注入する。

「今日は……ありがとう」
「うん。どういたしまして?」
「じゃあ……」
「また連絡するね」
「え?」
「え? なんでそんな顔するの?」
「だって……」
「俺、ナマエちゃんのこと好きなんだよ?」

 当たり前のように言われて、また頬が熱くなる。
 恥ずかしくて、もう何回も聞いたよ、と言うと廻くんに「何回も言いたいし」と打ち返されてしまった。

「俺、1ヶ月オフだからいっぱい会いに来るね」
「え、」
 
 そう言って、廻くんはまた手を振る。ぶんぶん、とさっきよりも大きく数回振ったあと、「ばいばーい!」と言いながら背中を向け、ダッシュした。
 ――この時、廻くんがどんな顔をしていたのか知るのは、もう少し先の話。
 
 遠ざかっていく背中を見送りながら、私はしばらくその場から動けなかった。
 ――私は、替えのきくもの。今日まで、ずっとそう思っていた。

 けれど。廻くんは、そうじゃないと言ってくれた。
 世界に一人しかいないと。
 私じゃなきゃ嫌だと。

 その言葉を胸の奥で何度も繰り返しながら、私はようやく玄関のドアを開ける。
 ふと、着信を知らせて揺れるスマホに気づく。表示される名前を見ても、もう尻尾を振る気にはなれなかった。
 今までなら、慌てて画面を開いていた。
 嫌われたくなくて。捨てられたくなくて。いつか誰かに取って代わられるのが怖くて。
 けれど今は、不思議なくらい静かだった。
 私はスマホを伏せる。今日までずっと、自分なんて誰かの代わりになれる程度の人間だと思っていた。
 でも、世界に一人しかいないと言ってくれた人がいる。
 その言葉を、今すぐ信じることはできない。
 それでも、いつか信じられるようになったらいいな、と。いや、信じられるようになる気がした。
 そんなことを、初めて思った。

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