あんな事があっても、ミョウジさんは以前と同様に程よい距離感で居てくれた。避けることも出来たはずなのに、細やかな気遣いや、相手の目をじっと見つめながら話すところも、何も変わらない。心地よい、“友達”の距離感に安心する。
 ――そう、ミョウジさんは何も変わらない。
 僕が終止符を勝手に打ったあとも、変わらない優しさを渡し続けてくる。最初はそれも気を遣われてるんじゃないか、僅かな希望をかけられてるんじゃないか、とか悪い癖が出ていた。だって、好意を抱いていた相手に突き放された後に、なんの見返りもなく親切にしようと思う人間がいるなんて、考えもしなかった。人間は、与えられたものしか返せないとどこかで聞いた。でも僕は、望んでないものを渡されたって受け取れない。重荷になるだけ――そう思っていたのに。

「ミョウジさあ、この間のノートマジ助かった!」
「ほんと? 私ノートまとめるのあんまり得意じゃないけど、良かった」
「まじ!? めっちゃ綺麗だったけど」

 空き時間のガヤガヤとした教室で、ミョウジさんと、その真後ろに座る田中くんの会話が妙にクリアに耳に届く。まるで全ての神経が二人に向いてるようで、戸惑う。――別に、盗み聞きしたいわけやないのに。そんなことを考えながら、二人の会話が途切れるまで、教科書の同じ行を何度も目でなぞっていた。

「いやいや、そんなことないよ。田中くんがちゃんと授業聞いてるからじゃない?」
「いや、俺マジで途中寝てたし」
「ええ、そうなの? じゃあ次はちゃんと聞かなきゃだね」

 ふふ、とミョウジさんが笑った。
 ミョウジさんは笑う時、普段話してる時よりワントーン声が高くなるのに、ボリュームは少しだけ小さくなる。
 ……何がそんなにおもろいんやろ。いや、別に。おもろい話をしているなら、笑うのは当然のことや。僕だってミョウジさんと話していて、思わず笑ってしまうことはあるし、笑わせたこともある。今だって、彼女が笑っていること自体は何もおかしくない。
 ミョウジさんは昔から誰にでも親切やし、田中くんが特別なわけでもない。僕だって、彼女にノートを貸してもらったことくらいある。
 そこまで考えて、手元の教科書に視線を落とす。
 ――は? 僕はさっきからなにを張り合うてんねん。
 頭で理解してる物事と、心で感じとった物事が乖離して、分別が出来てないゴミ箱みたいに溢れかえっていく。
 友達なんやから。誰と話そうが、誰に親切にしようがミョウジさんの自由や。僕が口を出すことやない。
 そもそも、僕は彼女の告白を断った側や。自分から友達でいてほしいと頼んでおいて、彼女がその通りに振る舞ったら不満を覚えるなんて、あまりにも身勝手やろ。
 そう理解してるくせに、心はざらざらと落ち着かない。こんな感覚、いつ以来なのか。正体が何者か、知りたくもない。
 仄暗い感情に包まれそうになった時、柔らかな声に名前を呼ばれた。

「氷織くん、次の授業行かないの?」
 
 いつの間にか、ミョウジさんは机の横に立っていた。細い腕には、教科書とノートが抱えられている。そういえば、次は移動教室だったと思い出す。

「ああ、行く行く。ちょっとぼーっとしとったわ」
「珍しいね。寝不足?」
「んー、そんなとこ」
「そっか。無理しないでね」

 そう言って、彼女はいつも通りに笑った。そう、いつも通り。僕が好きだと知る前も、知ったあとも、何も変わらない笑顔。何も期待してない、心地よい距離感、……そのはずやったのに、どうしてこうも心臓がチクチクするのか。

「……ミョウジさんって、ほんま誰にでも優しいなあ」
「え? そうかな?」
「うん。そうやと思うよ」

 自分で口にしておいて、何を言いたいのか分からなくなる。
 誰にでも優しい。それは彼女の長所で、僕が好きなところのひとつでもある。困っている人がいたら自然に手を差し伸べるし、相手が話しやすいように目を見て話す。誰かに親切にしたことを、わざわざ恩に着せたりもしない。
 そういうところが、好きだった。人として尊敬できる。集団生活の中で、こういう人が居ると助かる。
 そう、人として好きなんや。
 恋愛感情とは違う。少なくとも、僕はそう思っている。

 「じゃあ、行こっか」

 さっきまで田中くんと楽しそうに話していた彼女は、今は僕に今日の授業の話をしている。僕が相槌を打てば嬉しそうに笑うし、冗談を言えばいつもみたいに笑い返してくれる。そのことにほっとしてる自分に気がついて、鳥肌が立った。何に安心しとるんやろ、僕。
 彼女は僕のものやない。そもそも、そういう関係になることを自分から断ったのは僕。
 この心地よい“友達”でいることを望んだのは僕。それやのに、なぜだか心が冷えていく。自分のことを操作するプレイヤーとして生きてきた癖に、今更、一体何を望んでいるのか。
 
「氷織くん?」
「ん?」
「今日、なんか静かだね」
「そう?」
「うん。いつもよりちょっとだけ」

 彼女は僕の顔を覗き込むようにして、視線を重ねた。身長の差のせいで、見上げるような姿勢になる。ミョウジさんの目は、窓から射し込む光を全て吸い込んだみたいに煌めいて見えた。僕はそれが眩しくて、長めに瞬きをする。

「そしたら本日はいつもより多めに私がお話させていただきます」
「ふっ、いつもよう喋るけどな」
「あー! 京言葉!?」

 先程まで鉛を投げ込まれたように重かった心が、ふっと軽くなっていく気がした。
 何も求めてへんみたいな顔をして、当たり前みたいに優しくする。
 僕が何かを返さなくても、彼女は怒らない。見返りを求めない。僕が困らないように、僕が気まずくならないように、今まで通りに接してくれる。
 その優しさに、僕はずっと甘えている。

「……ミョウジさんは、ほんまに優しいなあ」
「えっ、なに急に!?」

 照れたように笑う彼女を見て、僕もつられて笑った。きっと、これでいい。友達として、こうして一緒にいられる。それ以上を望まなければ、何も失わずに済む。痛みの原因なんて知らなくても、鎮痛剤飲んどけばいい。