気の所為じゃなければ、最近、氷織くんの距離が前より近い。例えば、面白い動画を見つけてスマホ画面を差し出した時、前ならちらりと覗き込んでくるくらいだったのが、肩が触れる距離にいる。ふと視線を感じて辿ってみると、柔らかく眦を提げて微笑む氷織くんと目が合う。サッカーの練習が休みの時は、大抵声をかけられて一緒に帰る。
 自惚れのように聞こえるかもしれないけれど、この学校で一番氷織くんと仲いい女の子は自分だと胸を張れる程度には、距離が縮まった。――しかしこれは、完全に友達として心を許してもらったからだと思う。
 安心できる場所のひとつとして選ばれたのなら、それはとっても光栄なことであり、望んでいたこと。だけど、自分の気持ちがまだある以上、氷織くんを騙しているみたいにも思える。氷織くんの信頼に、こっそり嘘を混ぜ込んでいるような気がした。

「氷織くんストバの新作飲んだ?」
「あー、まだやね」
「めっちゃ美味しかったよ! 飲んでみてほしい!」
「そうなんや。ミョウジさんが言うなら飲んでみよ」

 そんな、私のためだけに用意された特別みたいな言葉を口にしないでほしい。氷織くんにとっては何気ない言葉でも、私にとっても一生忘れられない宝物みたいなことだから、胸の内で大きくなる熱を押し殺さないといけないのに、隙間から零れ落ちそうになる。
 曖昧に笑って見せると、氷織くんはあの泉のような透き通った瞳で、じっと私の顔を覗き込む。

「ど、どうかした?」
「最近、前より目が合わんなあって思って」
「そ、そんなことないよ!」

 それは氷織くんのお顔が近いから、すぐに限界突破してしまうからです。なんてことは言えないので、食い気味に見つめ返すと、氷織くんはケタケタと笑った。喉元のとんがった骨が上下に動いて、男の子なんだなあってドキドキした

「……あ、そうや」

 ひとしきり笑った氷織くんが、思い出したように口を開いた。

「今日、練習休みやねん。ミョウジさん、一緒に帰らへん?」
「えっ、うん! 帰る!」

 勢いよく返事をしてしまってから、しまった、と思う。けれど氷織くんは気にした様子もなく、嬉しそうに目を細めた。

「ほな、帰ろか。 」

 何気ない顔で誘ってくれるから、期待してしまう。私と帰りたいと思ってくれたのかな、なんて。そんなはずないのに、ほんの少しだけ浮かれてしまう。
 昇降口を出て、数歩歩いたところで、ぽつりと頬に冷たいものが落ちた。

「……あれ?」

 見上げた空は、ついさっきまでの晴れ間が嘘みたいに、どんよりとした雲に覆われている。
 ぽつ、ぽつ。頬に、制服に、アスファルトに。雨粒はあっという間に大きくなり、数秒後には地面を叩く激しい音に変わっていた。

「うわ、すご……!」

 慌てて昇降口に引き返す。けれど、突然の雨に困っているのは私たちだけではないらしい。傘を持たない生徒たちが、軒下に集まって空を見上げていた。

「ミョウジさん、傘は?」
「ない……。天気予報、晴れだったから……」
「そっか」

 氷織くんは鞄から折り畳み傘を取り出した。ぱちん、と留め具を外して開く。二人で入るには、少し小さそうな傘だった。

「一緒入ろ」
「えっ、いいの?」
 
 あまりにも当たり前みたいに言うものだから、返事に困ってしまう。
 ぱちり、とゆっくり瞬きをしてから、じわじわと頬が熱くなる。親切心から申し出てくれている中大変申し訳ないのだけれど、好きな男の子と相合傘なんて、私には中々ハードルが高い。そんなの、心臓がもたないに決まっている。

「で、でも、私が入ったら氷織くんが濡れちゃうよ」
「そんなん、傘さしてたら多少はしゃあないやろ」
「そうだけど……」
「……それとも、僕と相合傘するん嫌?」
「ち、違う! そうじゃなくて!」

 思わず声が大きくなった。氷織くんは一瞬きょとんとしたあと、また楽しそうに笑う。

「ほな、決まりやね」

 どうして、氷織くんがそんな顔してくれるの? 嬉しいのも、助かるのも私の方だというのに。

 傘の下に入ると、思っていた以上に距離が近かった。肩が触れそうで触れない。歩幅を合わせてくれる氷織くんの腕がすぐそばにあって、傘を持つ指先まで見えてしまう。
 さっきまであんなに普通に話せていたのに、急に何を話せばいいのかわからなくなった。
 地面を叩きつける雨音が段々と大きくなっていく気がした。

「……ミョウジさん、今日静かやね」
「そ、そうかな?」
「うん。いつもやったら、もっといろいろ話してくれるやん」

 そう言って、氷織くんは私の顔を覗き込んだ。水晶玉みたいな透き通った瞳にじいっと見つめられる。――近い。近い近い近い!

「もしかして、緊張しとる?」
「えっ!?」
「ふふ。冗談やって」

 絶対、わかって言っている。そう思いたくなるくらい、氷織くんは楽しそうだった。
 でも、たぶん違う。氷織くんにとっては、ただ私の反応がおもしろいだけなのだ。友達が慌てているのを見て、からかいたくなった。それくらいのこと。
 そう思い直して、胸の内に浮かびかけた期待を押し込めた。

「……氷織くんって、意外と意地悪だよね」
「えー、そう?」
「そうだよ」
「ミョウジさんにしかしてへんと思うけどなあ」

 さらりと返されて、思考が止まった。
 それはどういう意味なの? って本当は聞き返したい。でも、聞き返してしまったら、きっと顔が真っ赤になってしまう。喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、お腹の中へ戻した。
 氷織くんは、そんな私を不思議そうに見てから、視線を前に戻す。

「ミョウジさんって、卒業した後のことは決めてたりするん?」
「……進路のこと?」
「うん、もうすぐ二年になるし、決めとったりするんかなあって」
 
 急な話題に驚いたけれど、考えてみれば、もうすぐ三学期も終わる。こうして二人でゆっくり話す機会は意外と少ない。学校では友達がいるし、帰り道も、いつもは他愛のない話ばかりだ。

「うーん……。まだ、はっきり決まってないかな。でも、好きなことを仕事にできたらいいなって思う」
「……ほな、進学?」
「うん。大変なことがあっても、好きだから頑張れる、みたいな。そういうものが見つかったらいいなって」

 口にしてみると、少し恥ずかしかった。まだ何も決まっていないのに、夢だけは立派みたいで。
 ちらりと氷織くんの様子を盗み見てみると、その横顔はどこか遠くを見つめている気がした。

「ええやん」
「……そうかな?」
「うん。好きなことがあるんは、ええことやと思うで」

 雨音にかき消されてしまいそうなくらい、穏やかな声だった。「氷織くんは?」と聞いてみると、氷織くんは前を向いたまま、少しだけ目を細める。

「僕は……どうやろなあ」
「サッカー?」
「……うん。まあ、そうやね」

 その返事には、いつもの柔らかさとは違う、わずかな間があった。もっと聞いてもいいのだろうか。どうしてサッカーをしているのか。これからどうしたいのか。
 でも、何かを尋ねようとしたとき、氷織くんが小さく笑った。

「なんて、まだようわからへんねんけど」

 それ以上、言葉は続かなかった。氷織くんからは時々小さな壁を感じる時がある。土足で踏み込むようなことはしたくないけれど、氷織くんからこの話題を振ってくれたということは、少なからず何か迷っているのではないだろうか。

「サッカー、小さい頃からしてるんだよね? 私はそんなになにかに打ち込んだこと無いから、尊敬するよ」
「……そんなええもんやないよ。しやんとあかんからしてるってところあるし」

 ふう、とため息をつくみたいに氷織くんが話すので驚いた。彼から感じていた薄い壁が、少し低くなった気がした。

「……ちょっと、しんどかったりする?」
「そう見えた?」

 前を向いていた氷織くんの視線が、私に向けられる。傘をつたい落ちる雫が、パラパラと氷織くんの肩を濡らしていた。
 ふるふると頭を左右に振った。悲壮感が出ていたわけでも、同情を引かれるようなことを言われたわけでもない。ただ、張り詰めていたものが少し弛んだように見えたのだ。

「話してくれて嬉しかったから、肩の力抜いてくれたように見えた」

 歩いているうちに、触れそうで触れなかった肩が、いつの間にかぴたりと重なっていた。境界線が曖昧になっていくみたい。
 氷織くんは、一拍ほど置いてから、「ミョウジさんって、暖かい人よな」と呟いた。
 なぜだか、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになった。人を抱きしめたい時ってこういう時なのかも。でもそんなことできるわけが無いので、「体温は普通くらいだよ」とつまらないことを返す。氷織くんはまた、何も言わずに笑った。
 雨はまだ、止みそうにない。
 傘の下で体温を感じる度、触れた部分が熱を持つ。氷織くんは、そんな私の緊張なんて知らない顔で、いつもの調子で話を続けた。
 今日のことを、きっと私は忘れない。雨の音も、隣を歩く氷織くんの声も、触れ合った肩の熱も。きっと、何年経っても思い出す。氷織くんにとって、ただの帰り道だったとしても。