迎えたその日、目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。

 カーテンの隙間から差し込む朝日は、いつもと変わらない。部屋の隅に置かれた荷物も、机の上に残った参考書も、昨日までと何ひとつ変わっていなかった。今日からしばらく家を離れるというのに、妙に実感が湧かない。
 顔を洗い、身支度を整える。リビングへ行くと、両親がいつもより早く起きていた。

「忘れ物はないか?」
「大丈夫やって」
「向こうでもしっかり頑張るんだぞ」

 父親の言葉に、曖昧に頷いた。頑張る。期待に応える。結果を出す。
 昔から、そうすることが当たり前だった。今回の話だって、両親は喜んでくれたし、僕自身、断る理由なんてなかった。今までとは違う環境に行くことに、不安がないわけではない。けれど、それ以上に、ここから離れられることをどこかで望んでいた。
 だから、今日ここを出ることに迷いはない。
 朝食を済ませ、荷物を持って玄関へ向かう。靴を履きながら、ふとスマートフォンに目を落とした。通知はない。別に、誰かから連絡が来るのを待っていたわけではなかった。
 ただ、いつもならこの時間、ミョウジさんは何をしているんやろう、と思った。
 学校へ行く日なら、まだ布団の中で眠たがっているかもしれない。休日なら、もう起きているのかもしれない。そんなことを考えてから、僕は小さく息を吐いた。
 ……何を考えてるんやろ、朝から。
 今日はいつもと違う。これから向かう場所も、そこで始まる生活も、今までとはまるで違うものになる。そんな日に、わざわざ考えることでもない。
 玄関の扉を開けると、ひんやりとした空気に包まれて、いよいよ現実味が増した。

「ほな、行ってきます」

 振り返ってそう告げると、両親は揃って頷いた。僕は振り返らずに、家を出る。
 駅までは、いつも通りの道だった。
 見慣れた住宅街。角を曲がった先にある自動販売機。通学路で何度もすれ違った人たち。これからしばらく目にすることもなくなるのだと思うと、少しくらい感慨深い気持ちになるのかと思っていたけれど、案外そうでもなかった。この街に強い未練があるわけではないのだから、当たり前か。
 駅へ向かう道を歩きながら、ふと、ミョウジさんと並んで帰った日のことを思い出した。
 どうでもいい話をして、彼女が笑って、僕もつられて笑う。そんな時間が、いつの間にか自分を形成する一部になっていた。
 もう、しばらくはああやって一緒に帰ることもない。
 そう考えて、足がほんの少しだけ鈍った。
 会えなくなるわけやない。連絡だって取れるし、帰ってくることもある。大げさに考えるようなことでもないだろう。
 誰に向けてるか分からない言い訳を並べて、再び歩き出す。
 そのときだった。――見慣れた姿が、少し先に見えた。誰なのか頭で理解するより先に、心がふっと柔らかくなるのが分かった。

「氷織くん! 良かった、間に合った!」

 ミョウジさんが居た。
 朝イチの新幹線に乗ることは伝えていたとはいえ、わざわざ最寄り駅までお見送りに来てくれたのだろうか。

「あ、あのね」

 ミョウジさんはキョロキョロと当たりを見回してから、気恥しそうにカバンの中から小さなラッピング袋を取りだした。
 はい、と差し出した手は震えていた。
 
「中身はね、お守りです」
「……わざわざ、持ってきてくれたん?」
「ほ、本当は学校で渡すつもりだったんだけど、昨日はその……勇気がなくて!」

 ほんのり赤い鼻に、短く吐く息を吐きながら、ミョウジさんはへにゃりと笑った。
 差し出された御守りを受け取った時、ミョウジさんの指先が触れる。ひやりと冷たいそれは、氷に触れたみたいだった。早朝はまだ冷える。
 一体、どんな思いでここまで来てくれたんやろ。――人を、無性に抱きしめたくなったのは、初めてだった。
 ミョウジさんと自分の間に引いていた線は、日増しに曖昧になっていく。
 
「ミョウジさん、ありがとう」
「いやいや、私が勝手に――ッ!」

 話してる途中に、ミョウジさんは言葉を不自然に詰まらせた。どうしたんやろ? なんて思ったのもつかの間、いつの間にか、ミョウジさんは僕の腕の中にいた。いや、もっと言うと胸の中に彼女を閉じ込めていた。僕が、抱きしめていた。
 小さな背中は、驚いて不自然なくらい真っ直ぐ伸びている。どこに置けばいいか分からず迷子になっている両手は、宙をかいていた。
 ――なにをやってるんや、僕は。

「……ごめん、よろけてもうた」
「い、いえいえ」

 ミョウジさんはぎこちなく頷いた。まだ少し驚いているようだったけれど、それ以上、何かを聞いてくることはなかった。
 助かった、と思うべきなんやろうか。
 自分から抱きしめておいてよろけたなんて言い訳をしておきながら、さっき腕の中に収まった彼女の感触が、いつまでも残って、離れない。

「……そろそろ、行かなあかんね」

 僕が言うと、ミョウジさんははっとしたように顔を上げた。

「あっ、そうだよね! ごめんね、引き止めちゃって」
「いや、そんなんええよ」

 引き止められたわけやない。僕が勝手に立ち止まって、勝手に抱きしめただけだ。
 そんなことを考えながら、手の中の御守りに目を落とす。小さな袋の中に、どんな願いが込められているのか。聞いてみたい気もしたけれど、聞かなくても分かるような気もした。

「……ありがとう。大事にするわ」
「うん! 頑張ってね、氷織くん」

 ミョウジさんは、いつものように笑った。
 その笑顔を見ていると、さっきまでの気まずさが少しずつ薄れていく。けれど、いつも通りに話せているはずなのに、何かが違う気もした。
 結局、僕はそれ以上何も言えなかった。
 手を振って別れ、駅へ向かう。改札を抜けてから一度だけ振り返ったけれど、もう彼女の姿は見えなかった。
 ポケットの中で、御守りの感触を確かめる。
 勝手に触れておきながら、ひどい下手な言い訳をしたと思う。
  

 ブルーロックでの生活は、想像していたよりもずっと過酷だった。
 集められた選手たちは、それぞれが自分の武器を持ち、勝ち残るために必死だった。昨日まで通用していたことが、今日は通用しない。誰かに合わせるだけでは、自分の居場所すら守れない。
 ここでは、何をしたいのかを問われる。
 どうしてサッカーをするのか。何を目指すのか。自分は何者なのか。
 これまでの僕なら、きっと答えを探すより先に、周りが望む答えを考えていたと思う。
 けれど、ここではそれだけでは足りなかった。
 自分の選択が、自分の未来を決める。誰かの期待に応えるだけでは、勝ち残れない。
 最初は戸惑った。自分が何を望んでいるのかなんて、考えたこともなかったから。
 それでも、少しずつ考えるようになった。
 僕はどうしたいんやろう。何を選びたいんやろう。その答えは、簡単には見つからなかった。

 慣れない生活の中でも、ミョウジさんとは時々連絡を取っていた。
 今日は授業でこんなことがあったとか、帰りに新しいお菓子を買ったとか。わざわざ話すほどでもないような、何気ない報告ばかりだった。
 彼女から届くメッセージを読むと、知らないうちに肩の力が抜けていることがあった。
 ブルーロックの中では、誰もが勝つことに必死だった。相手の弱点を探し、自分の武器を磨き、少しでも先へ進もうとする。そんな毎日の中で、ミョウジさんとのやり取りは、ひどく穏やかだった。
 彼女は、僕が何かを成し遂げたときだけ褒めるわけではない。うまくいったことも、うまくいかなかったことも、いつも通りに聞いてくれる。
 僕が話したいことを話して、話したくないことは無理に話さなくてもいい。
 そういう関係が、いつの間にか当たり前になっていた。

 ある日、練習を終えて部屋に戻ると、彼女からメッセージが届いていた。

『今日ね、前に話してた新作のドリンク飲んだよ! 思ったより甘かった!』

 前にそんな話したな、と滑り込んでくる記憶に口元が緩んだ。記憶力は悪い方ではないけれど、興味が無いことへの関心は薄れる。そんな中でも、ミョウジさんとのやり取りは、些細なことでも覚えていることが多い。
 ――多分、僕は。
 そこまで考えて、スマホを置いた。
 今はサッカーに集中するべきだ。ここで結果を出すことが、僕のやるべきことなのだから。
 そう考えることに、以前ほど疑問を感じなくなっていた。
 時間が経つにつれて、少しずつ変わっていくものがあった。
 サッカーに対する考え方も、自分自身のことも。これまでなら選ばなかったような選択をすることもあったし、失敗して、自分の未熟さを思い知らされることもあった。
 それでも、自分で考えて、自分で決めることを繰り返していくうちに、少しずつ分かってきた気がする。
 誰かが望む自分になることと、自分がなりたい自分になることは、同じではない。
 だったら、僕はどうしたいんやろう。
 その問いを、以前よりもずっと真剣に考えるようになっていた。

 そんなある日、一時帰宅できることが決まった。
 久しぶりに家へ帰れると聞いても、特別な感慨はなかった。帰ったところで、いつもの生活に戻るわけではない。すぐにまた、ここへ戻ってくるのだから。
 それでも、帰る日が近づくにつれて、なんとなく落ち着かない自分がいた。
 会いたい人がいる。誰に会いたいのかなんて、考えるまでもなかった。