花盗人を忘れてください

 イダは相手が誰だろうと全く態度を変えなかった。初対面でも知り合いでも冷淡にあしらい、魔法使いでも人間でも同じように毒を吐いた。
 昨日は扉の前で立ち止まっていたオズに「邪魔。どいてくれる?」と言っていて、見かけた賢者は肝を冷やした。彼は魔法使いの中でも魔王として恐れられる別格の強者である。そんな人物をどうして恐れずにいられるのか、賢者も魔法使い達も不思議に思った。


「ファウスト先生ってよくイダさんを見てますよね」
 授業の休憩中、ヒースクリフが何気なく尋ねた。
 普段帽子で顔を隠しているファウストだが、東の魔法使いが揃う授業中は鍔を上げている時が多い。そして少し見えやすくなった視線を追うと、そこには大抵イダの姿があるのだ。最初はファウストなりの事情があるのだろうと聞かないでいたが、それが何度も続くとなるとヒースクリフも黙ってはいられなかった。
「もしかして既知の方ですか?」
「僕に人間の知り合いはいない。彼女とは初対面だ」
 ファウストはぴしゃりと否定した。
「ならなぜ凝視する?俺もあんたは見過ぎだと思うぞ」
「シ、シノ……」
 ヒースクリフは自分のことのようにたじろいだ。シノは従者としての心意気は完璧なのだが、思ったことを率直に口に出すきらいがある。ほんの少しでいいから南の魔法使いを見習ってほしいと思わないでもないが……これでこそシノという気もして、ヒースクリフは強く叱れずにいた。
 ともかく、言い方は置いておくとして──聞きたいことはシノもヒースクリフも変わらない。人嫌いのファウストが人間を気にかけるのは珍しいのだ。
 黙って返答を待っていると、ファウストはやれやれと言いたげに息を吐いた。
「僕の本業に関わることだ。……これで満足か?」
 かつて革命の旗頭を勤め、聖人とも称されたファウストだが、今や立派な呪い屋である。魔法使いの中でも限られた呪いのスペシャリスト──そんな彼が注目している事実を知り、東の国の魔法使い達は不吉な予感に襲われた。
「本当か?あんたを疑ってるわけじゃないが、俺はあいつから呪いなんて感じたことねぇぞ」
 怪訝そうにネロが言う。ごく最近、というか昨日、イダにトレスレチェスの作り方を教えたばかりなのだが、呪いの片鱗は一切感じなかった。
「弱い呪いってことか?」
「いや、あれは決して弱くない。むしろ強力なものだ」
「だったら俺達も気づけそうなもんだが……」
「おそらく呪いの強さは関係ない。君達が気づけないのは本人の問題だ」
「……どういうことだ?」
「呪いが馴染み過ぎている。魂レベルで一体化しているんだ。それこそ、君達でも気づけないほどに」
「……?」
 未だ疑問が解けない三人に、ファウストは空中にネックレスと人型のシルエットを描いた。
「前提として、呪いには二種類ある。物に呪いをかけて相手に身につけさせる方法と、相手自身を呪う方法だ。呪いの品は君達もよく知るところだろう」
「っ……」
 説明するファウストと目が合い、ネロは咄嗟に目を逸らした。
 偶然目が合っただけかもしれないが、以前ブラッドリーと月蝕の館に忍び込んだことを言われているような気がしたのだ。あの日のことは誰にも言っていないし、ブラッドリーも口を割らないとは思うが、月に選ばれた魔法使いは揃って並大抵の実力ではない。
「……」
 ネロはひとまず、思考からあの日のことを追い出した。知られようが知られまいが、もう過去は変えられない。後はなるようになるだけだ。幸いファウストは特に言及せず、説明を続けた。
「世間に呪われた品が流通しているのは、その方が簡単だからだ。ほとんどが偽物の粗悪品ようだが、稀に本物がある。素人が無意識に呪いをかけてしまったんだろう」
 空中に浮かぶネックレスが溶けるように消えていく。残る人型のシルエットを見て、ファウストは続けた。
「だが相手自体を呪うのは珍しい。これは単純に魔法使いでも難しいからだ。だがその分、強力な呪いが完成する。きちんと診てはいないが、おそらく彼女にかかっている呪いはこっちだろう。人間であれば早くて数日で死に至るほど強力なものだ」
「死っ……!?そんなっ」
「ヒースクリフ、あいつはもう死んでる」
 賢者がイダを紹介した時、幽霊だと言っていた。既に死んだ存在であれば再び死ぬことはない。そうヒースクリフを励まそうとしたシノだったが、ヒースクリフが動揺したのは死んでいるからこそだった。
「そういう問題じゃないだろ……!もう死んでるってことは……」
 それ以上は言わなかった。いつ呪われたのか、彼らは知らない。つまり、呪いによって死んでしまった可能性だってあるのだ。
「絶対とは言えないが、その可能性は低い」
 ヒースクリフの予想を否定したのはファウストだった。
「彼女は完全には悪霊になっていない。なら呪われたのは死んだ後……いや、死んだ瞬間だろう」
 ファウストの発言には確信めいたものがあった。死にゆく女性に呪いをかけるなど、まともな者の取る行動ではない。だが北の国には常識が通じない魔法使いがいることを、彼らは知っている。
 黙った三人の思考を代弁するように、ファウストは言った。
「悪趣味だな」


「呪いと言ったが、まだ断定できないからな」
 祓わないのかと言ったネロに、ファウストはそう返した。確実に呪いだとわかったら祓うのかとやじりたくなったが、やめておいた。まだ授業も若干よそよそしいのに、同じ国出身というだけで知った風な口をきかれたら、いい気はしないだろう。
「……」
 思考を現実に戻し、隣を見る。呪い(らしきもの)があると言われても、やはりネロにはそういった気配は感じられなかった。これが「呪いが馴染んでいる証拠」ということだろうか。
 イダは器用にも右手だけで食材を切っている。左手はと言うと、なぜか念力を送るように空中で止まっていた。
「おい、危ねぇぞ。左手で押さえとけって昨日も言っただろ」
 しかし覚えていないのか、イダは「昨日?」と眉を顰めた。
「おいおい、もう忘れたのか?昨日の今日だぞ。やっぱ紙に書いた方が良かったんじゃねぇの?」
「はぁ?読み返すだけで日が暮れるじゃない。……ああ、トレスレチェスの奴ね。押さえるときは獣の手、でしょ?ちゃんと覚えてるわよ」
 思い出したの間違いじゃないのか。思わずジト目になるが、イダは見向きもしなかった。ニンジンの上に丸めた左手を添え、ぎこちなく包丁を下ろしていく。スピードも出来も、先程に比べて明らかに半減していた。
「どうして両手の方がやりづらそうなんだよ……」
 料理が下手になる呪いでもかけられているのだろうか。冗談だと笑い飛ばせないのが恐ろしい。
「おいネロ。何か出せ」
 包丁がまな板を鳴らし続ける中、横暴な命令と共に厨房に顔を出したのはブラッドリーだった。この手の注文に慣れているネロは「向こうで待ってろ」と席に追い返そうとしたが、今厨房にはもう一人いる。ブラッドリーはイダに気づくと、良い玩具を見つけたという風に白い歯をこぼした。
「令嬢が飯作りか?鍋なんざ用意して何を……つーか下手だな。こっちはお手本か」
 右手だけで切った食材をお手本と呼ばれ、イダは「どっちも私なんだけど?」と目を眇めた。
「嘘つけ、同じ奴が切ってこんなに差がつくかよ」
「こんなことで嘘つくわけないでしょ。証人からここにいるわよ」
「残念だが本当なんだよなぁ。どうしたら片手でやる方が上手くなるんだか……」
「慣れと才能」
 端的な答えが返ってくるが、余計謎が深まるだけだった。慣れるほど片手のみで過ごすとは一体どんな人生なのだろう。ネロが小さくため息をつくと、ブラッドリーは小声で言った。
「お前、こいつにも世話焼いてんのか?料理教えるだけならもう一人の人間に任せちまえばいいだろーが」
「引き受けたばっかで断れるかよ。料理できる奴が増えるんだから、別に悪かねぇだろ。賢者様にも頼まれちまったしな」
「俺はお前のために言ってんだよ。一回でも好物じゃないモン教えてみろ。たちまち厄介な飼い主が来るぞ」
「飼い主ぃ?」
 ネロは胡散臭そうに言った。
 雇い主にあたる魔法大臣や賢者……は違うだろう。そう考えて二人を候補から外し、行き詰まった。考えようにも手掛かりが少なすぎるのだ。そもそも飼い主と聞いて「イダは性格的に主君側では?」と思ったくらいである。誰のことを言っているのか分かるはずもない。
 そんな詮索を妨害するように、イダが冷たく言い放った。
「アンタ達やることないならどっか行ってくれない?手が滑ってうっかり刺さっても知らないわよ」
 そう言いつつ、刃先はしっかりと二人に向けられている。ついでに氷のような眼差しも向けられていた。
「何がうっかりだ、刺す気満々じゃねーか」
 おっかねぇ令嬢だな、とブラッドリーは口角を上げた。不愉快だから殺すという図式は、ブラッドリーにとって親近感のある因果関係だった。
「いいぜ、刺してみろよ。刃が届く前に新品の体が黒焦げになっちまうけどな」
「安請け合いしちゃっていいのかしら──ふ。馬鹿じゃないの、本気で刺すわけないじゃない。悪いけど殺し合いに付き合うほど暇じゃないの。分かったらさっさと消えて頂戴」
「お前今肉体あるの忘れてただろ」
「っ………………悪い?」
 イダは静かに開き直ると、無言で野菜を切り始めた。荒々しい手捌きは指ごと切ってしまいそうだったが、不思議と包丁は左指を避けるように振り下ろされていた。
「……ん?」
 そこでネロはふと、ブラッドリーが先程からイダのことを『令嬢』と呼んでいることに気づいた。
「イダはどっかの貴族の出なのか?あんまり令嬢って感じじゃなさそうだが……」
 傷のない指は水仕事を知らなそうだし、誰に対しても堂々としている態度は高貴さすら感じる。だが貴族だからといって魔法使いにも人間にも同じ言動をしていられるかと言うと……熱心な平等主義者でも無理があるだろう。人間と魔法使いの絶対的な差──『魔法』と『寿命』という決定的な違いがある限り、同列に扱うなど不可能なのだ。東の国で店を構えていたネロは、そのことをよく知っていた。
 そんな感傷など知ったことかという風に、ブラッドリーは変わらぬ笑顔で「お前も知ってるだろ?」とネロの肩に腕を回した。
「おい、馴れ馴れし」
「前に確かめただろ?オーエンの噂。あの森に住んでたのがこいつってわけだ」
「!……北の令嬢か」
 あの夜のことは、今でもはっきり覚えている。突然ブラッドリーが「オーエンが攫った女を見に行くぞ」と言い出して、気乗りしなかったが仲間と森に入って──一瞬でドラゴンに囲まれた。一晩中逃げ回り、目の前で仲間が食われ……あの数時間だけで何度死を覚悟したか分からない。かろうじて生き残った仲間も、どうしてまだ生きているのか不思議そうだった。にも関わらずブラッドリーがまたリベンジすると息巻くものだから、全員で反対した。
 ブラッドリーに再会した時でさえ、まさかこんなところでと驚いたくらいだ。あの時のリベンジが果たされていたなど予想外にもほどがある。
 しかし、これで見えてきた。ブラッドリーの言う『飼い主』とは、オーエンのことなのだろう。昨日トレスレチェスの作り方を聞いてきたのも作るように言われたからかもしれない。イダは試食用と言って結構な数の試作品を持ち帰ったので、食べ切れるか気になっていたのだが、背後にオーエンがいるなら完食できただろう。
 ただ、気になるのが──
「ねぇ」
 野菜を切り終えたイダの呼びかけが、またも噂話を断ち切った。
「……北の令嬢って、どうなの。どんな感じなの」
 言いにくいのか、要領を得ない聞き方だった。どうと聞かれても「お前のことだろ」としか言いようがない。それはブラッドリーも同じだったようで、訝しげに「何が言いてぇんだ?」と切り込んだ。
「だから……反応があるでしょ。オーエンは恐ろしいとか、そんなの作り話に決まってるとか……そういうの、なんかないの」
 どうやら言葉選びが下手なのではなく、内容的に聞きづらいがために言葉を濁していたらしい。要は、噂がどんな風に広がっているのか知りたいのだろう。
 しかしネロが『北の令嬢』について知ったのは大分前の話だ。ブラッドリーが捕まる前の、まだ盗賊団にいた頃の出来事である。情報収集した覚えすら曖昧なのに、その時の相手の反応など逐一覚えていない。
 するとブラッドリーが先に口を開いた。
「そりゃ関わりたくねぇって奴が大半だったぜ。自分が助けてやるって夢見てる奴もいたが、オーエンは他人で遊ぶのが趣味だからな。知ってる奴にしてみりゃ令嬢なんざ格好の餌にしか見えないだろうよ」
「おい餌って……他に言い方あるだろ」
「そこそこ強かった奴も丸呑みにされちまったんだ、処刑台に誘き寄せてるようなもんだろ。ま、向こうにしてみりゃあ餌は俺達の方だろうけどな」
 噂でふるい落として、オーエンに対抗できる実力者だけを森に連れ出す。ドラゴンの群れにしてみれば、正義感に駆られてやってきた魔法使いは食料に過ぎず、せいぜい高級食材と言ったところだろう。そして運良くドラゴンから逃げ延びても、今度はオーエンが待ち構えている。悪意を好むオーエンにとって、イダを助けようとする魔法使いは恰好の遊び道具だろう。抜いてもすぐ生えてくる雑草のような存在なのだ。
 ──では、イダにとっては?救世主とまで言わないが、オーエンの呪縛から逃れる希望ではないのか?
「…………なによ」
 イダは小さく開けた口から、糸のように細い声をふり絞った。
「価値があったのね」
 怒っているような、悲しんでいるような、ひどく複雑な表情を浮かべていた。


 深夜の厨房で明日の仕込みをしていると、食堂に入ってくる気配があった。寝ている魔法使い達を起こさないようにするためか足音は控えめで、ネロは賢者さんらしいなと足を向けた。
「どうした、賢者さん。眠れないのか?」
「ネロ……ネロこそ寝ないんですか?」
「俺は明日の仕込みをな。ちょっと待ってろ、ホットミルク作ってやるよ」
「本当ですか?ありがとうございます」
 鍋にエバーミルクを注ぎ、中火で温める。沸騰する前にマグカップに移して少量の蜂蜜を溶かすと、ネロは賢者の前に置いた。
「一応火傷には気をつけろよ」
「ありがとうございます。いただきますね」
 賢者は両手でマグカップを持った。飲むと程良い温度がじわりと広がり、体が温まるのを感じる。自分で作るよりもおいしく感じるのは、ネロが作ったからだろうか。そんなことを考えていると、「ネロが作るものは何でもおいしいですね」と口にしていた。
「そりゃ良かった。でもあんま期待してると、いつか後悔するかもしれねぇぞ?」
「しませんよ。ネロはいつ貰ったか分からないミルクを使ったりしないでしょう?」
「嫌な基準だな……つーかそれ味以前の問題だろ」
「初めて会った時にイダが冗談で出したんです。オーエンに捨てられてましたけど」
「オーエンが正しいこともあるんだな……」
 ネロは不可思議な現象に遭ったという風に呟いた。
「まあオーエンが相手じゃ、ズレてるくらいが丁度いいのかもな」
「でもいつも堂々としてて、ちょっと羨ましいです。あのくらい度胸があったらなって思う時もあるので」
「度胸……?」
 オズだろうと悪態をつくのは度胸があると言っていいのだろうか。あれは幽霊だからできる命知らずの行為であって、生きている賢者が真似するものではないだろう。
「お偉いさんにも盾突いて余計拗れそうだけどな。アーサーも貴族様には苦労してるみてぇだし」
「あ、そういえばブラッドリーがイダのことを『北の令嬢』って言ってたんですけど、イダは貴族なんですかね」
「あー……」
 ネロは己の発言を反省しつつ、どう答えたものかと少し考えて「本人に聞いてみたらどうだ?」と返した。
「それが探しても見つからないんです。カナリアさんもお茶に誘いたいのに部屋にも庭にもいないって言ってましたし……」
「オーエンなら知ってるかもな。今日作ってたシチューも二人前だったし、あいつら部屋近いんだろ?」
「正面ですね。丁度空き部屋だったので。でもオーエンの部屋……あり得るような、あり得ないような……」
 賢者はうーんと困ったような声を出した。親しいのなら部屋の行き来くらい当然かもしれないが、二人とも友好的とは言えない性格の持ち主だ。親しいからこそ、互いのパーソナルスペースには踏み込まないかもしれない。
「でも魔法舎に連れて来てるし、結構仲良しですよね」
「だといいけどな……」
 にこやかな賢者に対して、ネロは渋い顔をした。

 今から百年ほど前のことである。オーエンは気まぐれに、一つの町を滅ぼした。住人は女子供も息絶え、家は焼け落ち、一晩にして町は地獄と化した。
 しかし一人だけ生き残った女性がいた。オーエンはその女性を攫うと、厚い氷の奥に幽閉したという。

 この噂がどこまで本当なのか、オーエンが何を考えているのか、イダはどう思っているのか──ネロには分からない。分かりたいとも思わない。だが賢者が理解しようと歩み寄るのなら、見守るくらいはしてもいいかもしれないと思い始めていた。
「……そういえばこの前、変なことがあったんです」
「変なこと?」
「リケやミチルと紙飛行機を飛ばしてた時なんですけど、」
 あの尖ったやつかと思い出しながら、ネロは話を聞いた。
「魔法で風を起こそうとしたら、暴走して一つがイダの方に飛んでしまったんです。かなりのスピードだったし、イダは後ろを向いて洗濯物を干してたから気づかなくて……」
「ぶつかったのか?」
 その先の展開を予想したネロに、賢者は「いえ」と首を振った。
「掴んだんです。背中に目があるのかってくらい正確に掴んで、怪我はなかったんですけど……なんて言うか、不自然だったんです。腕につられて振り向いた、みたいな……」
 ごめんなさい、ただの見間違いですよね。賢者は苦笑気味に笑うと、最後の一口を飲み干した。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「……ああ、お粗末様。ついでに洗っとくから、体が冷えないうちにベッドに入れよ?」
「はい。色々聞いてくれてありがとうございます。なんだかスッキリしました」
 長話になってしまったが、穏やかなネロの声と深夜の静けさは、忘れかけていた眠気を呼び起こすのに効果的だった。
 今度お礼をしようと決めつつ、食堂の扉に手をかける。そして出る前にもう一度感謝を言おうと振り返った賢者は、何か言いたそうにしているネロと目が合った。
「ネロ……?」
「……賢者さん」
 昨日今日と、ネロはイダの調理風景を間近で見ている。だから右手首の縫い目も見たし、右手もよく見た。そして左手と見比べる時間も、十分にあった。
「……紙飛行機掴んだのって右手か?」
「?右ですよ」
 それがどうかしましたか?という風に見つめ返す賢者に、ネロは伝えるべきか逡巡した。
 爪の形や指の長さ、節の感じなど──多少の誤差はあれ、魔法使いも人間も、手の特徴は左右で一致する。それは幽霊だろうと変わらない。
 だがイダの手は、まるっきり違っていた。丸みを帯びた左手に対して右手は関節が目立ち、骨張っていた。あれは男の手だ。
「……」
 どちらも色白だし、本人が当然のように振る舞うから気づきにくいのかもしれないが、手袋でもはめなければ賢者が気づくのも時間の問題だ。少なくともブラッドリーはもう気づいているだろう。
「ネロ……?」
「……いや、なんでもねぇ。ゆっくり休んでくれ」
「ネロもちゃんと寝てくださいね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 ネロは賢者が知るまで、気づかないフリをすることに決めた。見守るのは良くても、火種になるのは御免だった。