天国と地獄と終の棲家

 静かな雪原に一軒、ぽつんと佇む小屋がある。人目を避けるように建てられたその家の周囲は、不自然な段差がいくつもあった。
「だ、誰かいますか……っ」
 控えめなノック音に続いて、震えた声が小さく響く。真木晶──ただ一人の「賢者」として異世界に召喚された彼女は、早く出てくれと必死に念じながら応答を待った。
 この中では比較的常識人のブラッドリーは怪訝そうに首を傾げ、頼りになる双子はいつもの微笑を浮かべて傍観に徹し、ミスラに至っては雪の窪みをぼうっと眺めている。残念ながら、ここには背を這うような殺気を宥めてくれる人はいなかった。
 もっとも、この中に人間は一人しかいないのだが。


 どうしてこんなことになったのかと言うと、例の如く依頼があったからだった。アーサーの元に「北の国でドラゴンが出たから退治してほしい」という嘆願が届いていたらしく、さっそく北の国の魔法使い達と街の人間に聞き込みをしたところ、傷を負ったドラゴンが上空を滑空したのち逃げていったと証言を得た。あちらの方に、という言葉に従って森の上空を大冒険してしばらく。
「あっ、小屋があります!ドラゴンを見たか聞いてみましょうか」
 そう提案した瞬間、極寒の大地がもう一段階冷えた。
 オーエンが嫌悪するほどの人物がいるのか、と身構えた賢者だったが、すぐに考えを改める。これが他の魔法使いだったら「どんな悪人なんだ」と警戒したかもしれないが、オーエンの思考回路は普通ではない。きっとこの小屋にはオーエンとは正反対の、心優しい人物が住んでいるはずだ。
 と、希望を抱いたところで、また気づく。彼は以前、聖人や無垢な人物が好きだと愉しそうに言っていたではないか。小屋の住人が聖人とは限らない。むしろオーエンに似た人物で、同族嫌悪から殺意を抱いている可能性だってあるのだ。
 賢者の思考はそこで止まった。思考を放棄した。怖くて後ろを振り向けない状況を何とかしてくれるなら、もう誰だっていい。とにかく早く出てきてください。そんなことを祈りつつ、長いようで短い時間を待ち続けた。
「……居留守じゃな」
「……居留守じゃのう」
 スノウとホワイトが順番に呟く。まだ振り返る覚悟ができていない賢者は、今度は強めにノックした。
「だ、誰かいませんかー!」
 しかし、返事はおろか物音すらしない。
 すると見兼ねたブラッドリーが苛立ちを隠さず言った。
「何をうだうだやってんだよ。中にいるなら開けちまえば良いじゃねーか」
「我らは話をしに来たのじゃぞ?警戒心を煽ってどうするのじゃ」
「んなもん口を割らせればいいんだよ」
「ブラッドリー……」
 我流で突き進もうとする囚人に、双子が説教を始めようとした時だった。不気味なほど無言だったオーエンが、賢者を押しやって小屋に上がり込んだ。その動作があまりにもスムーズで、魔法舎の自室と見間違えるくらい簡単に入って行くものだから、賢者は反応が遅れた。
「わっ、ちょ、オーエン!?」
 思わず呼びかけるが、彼は素直に言うことを聞く性格ではないし、願望を察したら逆のことをするような人物だ。オーエンの足が止まることはなく、どうしようと戸惑っているうちに、扉は一名を通して再び閉じた。
「オーエンが先陣切るなんざ珍しいじゃねーか。んじゃ俺も──」
「待つのじゃ、ブラッドリー」
「なんだよ」
 目の前に双子が立ち塞がり、ブラッドリーは舌打ちした。物騒な発言を実行されては敵わない。それは賢者も同意見ではあるが、しかしオーエンを向かわせるのも──と心配していると、双子は意外なことを言った。
「我らは待機じゃ。説得はオーエンがしてくれるじゃろう」
「はあ?あのオーエンが自分から調査に協力するって言うのか?」
「「そうじゃ」」
 双子が断言する。力強く、確信がこもった言葉だった。
 オーエンが改心して恐怖を煽らなくなったとか、そういう話は聞いていない。賢者が目を丸くし、ブラッドリーが訝しむように眉根を寄せると、双子は少し悩んだそぶりを見せてから理由を話した。
「ここの住人はオーエンと面識があるのじゃ。我らも会ったことはあるが、オーエンの方が付き合いは長いじゃろう」
「もし街に下りたドラゴンがここに帰ったのなら退治する必要はない。むしろ手を出さん方が良いじゃろうな。……さてはて、オーエンはドラゴンを殺せるかのう」
「無理じゃろうな」
「無理かもしれんのう」
 なぜ退治しなくていいと言い切れるのか、なぜオーエンはドラゴンを殺したがっているのか、なぜその人はこんな場所で暮しているのか……聞きたいことはたくさんあったが、すぐに頭から消えた。
「暗い……?」
 もう日が落ちたのかと思ったが、それにしては唐突だ。標高のせいだろうかと空を仰ごうとして──目が合う。
「我らも協力すれば殺せるかもしれんが……」
「この数を相手取るのは厄介じゃからの」
 雪原の上空を、ドラゴンの大群が埋め尽くしていた。


 色も大きさも、飛行高度も異なる彼らは、しかし一様に賢者たちを見ていた。
 縄張りに侵入した獲物を狙うギラついた眼もあれば、家の模型を広げてお人形遊びをする子供のような、無垢で残酷な眼もある。そして中にはアーサー達とオズに会いに行った時に遭遇したような、巨大で凶悪そうなドラゴンもいた。その鋭い鉤爪が目に留まり、点と点が繋がる。周囲に広がる不自然な段差は、彼らの足跡だったのだ。
 数の暴力という言葉があるが、上空に広がる光景はもっとタチが悪い。質も兼ねた魔法生物の群れが相手では、北の魔法使いといえども一筋縄ではいかないだろう。
「賢者よ、大丈夫か?攻撃されたくなければ小屋に近づくと良いぞ」
 そう言われて反射的に壁に張り付いた賢者は、スノウが続けた言葉に固まった。
「奴らとて主の住居は壊せぬからの」
 あるじ。ひらがな三文字が脳内でループする。「住居だからこそ、じゃな」幽霊のホワイトが訂正するが、賢者の耳には入って来なかった。
 これだけ大勢のドラゴンを従わせるなど、よほど強力な魔法使いに違いない。ほとんどの地域が魔法使いの守護がなければ生きられない北の国で、こんな人里から距離を置いて過ごしているのが何よりの証拠だ。双子がブラッドリーを制止したのも、オーエンが酷い目に遭っているのを見せないためかもしれない。それがどちらを思いやってのことなのかは分からないが、きっとそうだと賢者は思った。
 その時、賢者は己の目を疑った。ぬっと、窓から顔を出すかのように、壁から上半身が出てきたのだ。
「……!」
 驚きで目を白黒させる賢者だったが、その人は気にもせず、スノウとホワイトに淡々と尋ねた。
「ドラゴン退治は終わったのかしら」
「久しぶりじゃのう、イダよ。相変わらず人嫌いのようじゃな」
「元気そうで我も嬉しいぞ。まだまだ同士は貴重じゃからのう」
「ところであのドラゴンは放って良いのか?」
「このままではミスラの呪術に使われてしまうぞ」
「ミスラ?そんな危なっかしいの連れて来ないでよ」
 露骨に顔を歪め、イダと呼ばれた女性は追い払うように左手を振った。頭より高い位置で行われたその仕草は、どうやら魔法使いに対してではなく、空から見下ろしているドラゴンに対しての合図だったらしい。彼らは散り散りに飛んでいき、たちまち一面の雪雲が見えるようになった。相変わらず人間を凍死させる脅威に変わりないのだが、ドラゴンがいなくなっただけで生還した安堵を感じた。
「どうせ西の街から来たんでしょう?もう反省してるわよ。新しい街の様子見ですって」
「そうじゃったか。うむ、我らにもその気持ちはわかるぞ」
「どうかしら」
 内容はよくわからないが、魔法使いの中でも最高齢であろう双子と既知だからこそイダの堂々とした態度は目新しかった。外見年齢は賢者と同じくらいだが、彼女も双子に張り合えるほど長生きなのだろうか。魔法使いが何歳か考える時、容貌は全くアテにならないと知っている賢者は、壁際でそんなことを考えていた。
「まだ張り付いているんですか?」
「えっ、あっ」
 急いで姿勢を正す。ミスラが声をかけたことで、イダの視線は賢者に移っていた。
「どちら様?北の魔女かしら」
「いえ、賢者です。初めまして」
「ふうん」
 自分から聞いた割に、あまり興味がなさそうだった。
「こっちはミスラとブラッドリーじゃ。名前くらいは聞いたことがあるじゃろう?」
「……まあ、そうね。アンタは?」
「へ?」
 突然尋ねられ、間延びした声が出た。もしかして賢者の魔法使いの名前を覚えているか試されているのだろうか。もちろん全員覚えているのだが、抜き打ちテストのように不意打ちで聞かれると、ついどぎまぎしてしまう。
 しかしどうやら試すような真似をしたわけではなかったらしい。
「イダよ、もう忘れたのか?つい先程、賢者ちゃんが名乗ったではないか」
 スノウが暗に『記憶力は大丈夫か』と聞くと、「あれは肩書きでしょ」と声を低くした。
「まあ何だっていいわ。気に入ってるなら役職で呼んであげる。世界でたった一人を表す、貴重な役職だものね?むしろ呼びやすくて──」
「晶です!真木、晶です……」
 焦るあまり言葉を遮ってしまい、語尾が弱々しく萎む。だがイダは特に気にしなかったらしく、「アキラ、ね。明日までは覚えるわ」と言った。明後日になったら忘れるのかとツッコみたくなった。
「私はイダ。ただの人間だから覚えなくていいわ。まだ若そうだし、死人のことなんて忘れなさい」
「死……?」
 死んだも同然の存在という比喩だろうか。しかし態度からしてイダの存在感は薄いとは言えない。ではどういう意味なのかと首を捻っていると、
「こういうこと」
 すっと左手が頬に伸ばされ、肌に触れる──ことはなかった。手は顔にぶつかることなく溶け込み、反対側の頬に通り抜けていった。
「幽霊……!」
 遠のいていく左腕を目で追うと、新たな事実に気づく。
「あ、でも体は透けてませんよね?」
 同じ幽霊のホワイトは体が薄く透けている。だが目の前のイダは接触しなければ、そして壁から出て来なければ、死んでいるとは気づかなかっただろう。
「気になるなら本人に聞いて」
 本人とは、一体誰のことを指しているのか。なんとなく予想はつくが、質問しようと口を開けたとき、今度は賢者が遮られた。
「あッ!」
 短い大声をあげたのはブラッドリーだった。ふと気づいて、気づいたからには言わずにはいられないという勢いで、まっすぐ指を指す。
「お前っ、『北の令嬢』か!」
「……ああ、まだあったの、その噂。とっくに忘れられたと思ってたけど、オーエンが有名なせいかしら。案外しぶといのね」
 たぶん想定内だと思ったけれど、指摘したところで軽く遇らわれるのが目に浮かぶくらい淡白な反応だった。現にブラッドリーが上から下へと不躾に眺めていたが、イダはどうぞお好きにと言わんばかりにスルーしている。
 しかし『北の令嬢』とはどんな噂なのだろう。確かに令嬢と言われても納得できる雰囲気ではあるが、貴族がこんな辺鄙な場所に、それも狭い小屋に住み着くだろうか。賢者は身分の高いアーサーやヒースクリフで脳内シュミレートした。想像の中の二人は普通に住んでいた。
「それで、用事は終わったの?」
 あからさまな逸らし方だったが、双子は食い下がることなく話題転換に乗った。
「終わったというか、そなたが終わらせておったな」
「ドラゴンを退治すれば綺麗なステンドグラスが作れると思ったんじゃがのう」
「材料を採りに来たの?抜け落ちた鱗でいいならあるけど。丁度置き場所に困ってたところだし、いくらでも持って行きなさい」
 そう言うと身を引き、壁の向こうに消えた。ドラゴンの鱗を持ってきているのかと待っていると、にゅっと再び顔が出てきた。
「うわっ!?」
「入らないの?もしかして扉が見えない魔法にかかってる、とかじゃないでしょうね」
「扉はちゃんと見えておるぞ。しかし我らがお邪魔しても良いものか……」
「一段と不機嫌になりそうじゃ」
 もしオーエンの殺気の理由が賢者達とイダを会わせたくないからだとしたら。みすみす家に上がるなど、まさに悪手だろう。
 するとイダは、呆れたように言った。
「来客にお茶くらい出すわよ。私ってそこまで非常識に見える?」
 そういうことじゃない、とは言い出せない賢者だった。


「誤解してそうだから言っておくけど、人が嫌いだからここに住んでるわけじゃないわよ」
 テーブルにマグカップを三つ置くなり、イダはぶっきらぼうに宣言した。
 オーエンを除いた来客五人に対して、三つ。しかし実際、小屋に入ったのは三人だった。あの後ブラッドリーはくしゃみをしてどこかに飛ばされてしまい、ミスラは魔法生物の墓を見に箒で飛んで行き(たぶん骨目当てだろう)、結果スノウとホワイトと賢者の三人がお邪魔することになったのだ。
 先客のオーエンはブラウンの温かい飲み物──匂いからしてココアに似たものを飲んでいて、三人に出されたのも同じ飲料だった。オーエンのは砂糖付きで三人にはなかったが、もしあっても糖分補給はしなかっただろう。部屋は甘い匂いが充満していて、息を吸うだけで胸焼けしそうだった。
「我らはわかっておるが、街の人間はどうじゃろうな。人里に降りる夢はもう良いのか?」
「夢はいつか覚めるものでしょう?ここには友達も家族もいて、毎日が平和よ。見捨てられる不安はないし、新しい住民を追い払う人もいない」
「痛いところを突くのう……」
 スノウとホワイトが住民の数を制限しているのは一応事情があってのことなのだが、二人は訂正しなかった。
「ねぇ、甘くないんだけど」
「散々入れたじゃない。もう切らしてるわよ?」
「うるさい。もっと用意しなよ」
「誰も食べないのに?腐るだけじゃない」
「お友達も家族もいるのに作ってあげないんだ。かわいそうだね」
「私が食べないからって受け取ってくれないのよ。遭難者が来るから作りはするんだけど」
「……へぇ。毒でも盛ってあげれば?」
「盛られたことにも気づかない程度ならとっくに友達の胃の中でしょ。ここまで来れても大体死にかけだし。無傷で来て食欲もある魔法使いなんて一人で十分だわ」
 言いながらキッチンに向かったから、後半どんな顔をしていたのか、賢者には見えなかった。ただ、オーエンにも自分から訪ねる友達がいるんだ、と失礼なことを思った。
「はい、エバーミルク。いつ貰ったか忘れたけど」
 戻って来たイダは、そう言って白い液体が入った瓶をテーブルに置いた。
 天然の冷蔵庫で保存していても、密閉していなかった牛乳というのは大丈夫なのだろうか。この世界の食糧事情はまだ勉強中だが、いくら魔法使いでもお腹を下すんじゃ、と申し出る直前──瓶がひとりでに浮き、目にも止まらぬ速度で窓を突き破った。
「えっ……………え?」
 雪が緩衝材になったようで割れた音はしなかったが、中身は絶対に無事ではないだろう。
 というか、何がどうしてこうなった?
「最悪。腐ったのなんか飲ませないでよ」
「腐ってなくても飲まなかったじゃない。なんでよ、甘いんじゃないの?」
 呆然とする賢者を他所に、ミルクを瓶ごと捨てた魔法使いと捨てられた幽霊は平然と会話していた。
 二人と窓の間に視線を往復させると、オーエンの指先が窓に向けられていて、ようやく理解する。オーエンが魔法で投げ捨てたのだ。
 貰ったと言うからには、死と隣り合わせの魔法生物の根城までわざわざ届けに来てくれた魔法使いがいるはずなのだが……言及しない方が良さそうだ。隣でスノウとホワイトが「似た者同士じゃのう」「オーエンに似てきたようじゃのう」と小声で話し合っていた。たぶん同じ感想を持ったのだろう。
「あの、イダさんに聞きたいことがあるんですけど……」
「何?話したいことは大体話したから、もう教える気はないんだけど」
「え……その、」
「嘘。冗談に決まってるじゃない」
 絶対冗談じゃなかったと思ったけれど、イダの気が変わってしまう前に尋ねることにした。
「さっき瓶を持ってましたよね?すり抜けない物もあるんですか?」
 今も立ったまま、椅子に座る気配はない。だが先程は瓶を持って来ていたし、その前には三人分のお茶を作っていた。幽霊だから透過するのではなかったのか?
「どうしてだと思う?」
「えーと……魔法使いだからでしょうか」
「は?言わなかったっけ。私、人間よ」
「そうなんですか!?オーエンと長い付き合いだと聞いたので、てっきり魔法使いかと……」
「まあ魔法みたいなことは起きてるわね」
「右手だけね」
 肘をついて右手をぷらぷらさせながら、オーエンが補足する。賢者がイダの右手をじっと見ると、手首を一周するように縫った痕があるのに気づいたが、魔法らしい現象はなさそうだった。
「ちょっと手を出しなさい」
「?はい」
 よくわからないまま、言われた通り両手を出す。掌を上に向けて、テーブルの上に置く形だ。するとイダは賢者の両手に向けて自分の両手を下ろした。
 先に到着した左手がすっと手を通り抜けて、テーブルの下に消えていく。右手もそうなるだろうと様子を見ていると、予想に反して感触があった。ひやりと冷たい、生気を感じさせない人肌──。
「こ、これ……!」
「…………。」
 目を見開く賢者に対し、イダは重なった手を無言で見つめていた。
 人が嫌いなわけではないと言っていた。では幽霊だから──中途半端に右手だけ実体があるから、ひとりぼっちで暮らしているのだろうか。同じ幽霊でも、ホワイトと違って何も食べられず、飲むことも座ることもできなくて……寂しくないのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、するりと手が離れ、彼女の体温は守護の魔法でかき消された。
「驚かせてばかりね」
 気を悪くしたかしら、と無感情に問われる。形骸的な、一応礼儀として聞いただけのような淡泊さではあったが、悪気はないのだろうと賢者は確信めいた予感がした。魔法生物と暮らせるのも、この堂々とした態度と、竹を割ったような性格が大きな理由なのかもしれない。


 ──などと、この時賢者は見当違いなことを考えていた。圧倒的な魔力を誇るドラゴンは、たかが人間の性格程度で態度を変えたりはしない。人がうっかり踏み潰した蟻に対して線香をあげないように、餌の個人差など初めから眼中にないのだ。
 その意味ではオーエンも同じだろう。彼が「自分を恐れない」というだけの理由で、一人の人間と長く関わるはずがない。むしろ反抗してくる人間は息をするように殺し、そして忘れるだろう。そんな彼が殺さず、傍目には友達のように接しているのなら、相応の理由があるはずなのだ。
 しかし異世界に召喚されてからまだ一年も経っていない賢者には、そこまで考えつかなかった。いずれその理由を知ることになるのだが、それはもう少し先の話である。


「不気味ね」
 完璧な笑顔でも呆れ顔でもなく、余計な感情を取り除いた素の表情で、そんなこと考えもしなかったという風にイダは言った。
「北の魔法使いが揃うなんて初めてじゃない?」
 北の国の魔法使いは厳しい環境に縄張りを持つため、孤立主義が多い。性格も住処もバラバラな彼らの共通点といえば、弱肉強食の信条くらいだろう。
「ほっほっほ。驚いたじゃろう?既に聞いておるかもしれんが、今年から賢者の魔法使い達は魔法舎で暮らしておるのじゃ」
「依頼があれば、その国の魔法使いが解決に向かう手筈になっておる。今回は北の国で起きた事件ゆえ、我らが出向いたというわけじゃ」
「ふぅん……」
 イダは一瞬オーエンを見ると、瞬きと同時にスノウとホワイトに視線を戻した。
「じゃあオズとかミスラも一緒に住んでるってわけ?」
「住んでおるぞ」
「そなたが知る魔法使いじゃと、あとはフィガロやムルもおるな」
「うわ、とんだ魔境じゃない」
「「…………。」」
 スノウもホワイトも、お主がそれを言うか、という顔をした。自分が無事だから忘れているようだが、ここは魔法使いでさえ死と隣り合わせの、高次の魔法生物の巣窟である。そっちこそ魔境の名に相応しいのでは……?となるのも当然だった。
「一度見に来たらどうじゃ?どちらが魔境たり得るか、お主の考えも変わるじゃろう。魔法使いへの誤解を解くのも我らの務めというものじゃ」
「いっそ住居を移しても良いのじゃぞ?賢者ちゃんも、人間の住人が増えるのは大歓迎じゃろう?」
「そうですね。魔法舎の女性はカナリアさんしかいませんし……」
 そのカナリアも、仕事が終われば帰宅してしまう。イダは幽霊だから料理や掃除はできないが、魔法使い相手にも堂々と発言できる人物だ。もし魔法舎で争いごとが起きても、きっと仲裁してくれるだろう。それは単純な労働力よりも重宝すべき能力だ。何より、オーエンのストッパーが増えるのは心強い。
 そんなことを考えながら同意した賢者は、激しい悪寒に襲われた。
「──っ」
 やってしまった。やらかしてしまった。
 今目を合わせれば、確実に精神を壊される。元から縁があるらしい北の魔法使いでさえ良く思っていなかったのに、他の魔法使いも暮らす魔法舎に来てほしいなど、彼が許すわけがない。しかも目の前で、なんてことを言ってしまったのだろう。
「お主の過去は知っておる。じゃが賢者には友達がおらんのじゃ。なにせ、こちらに来てまだ一月も経っておらんのでな」
「オーエンもイダが近くにおる方が何かと都合が良いはずじゃ。ここまで来ずとも、いつでも甘い物を作ってもらえるぞ?」
「…………」
 ホワイトの甘言に、オーエンは黙り込んだ。それでも、完全に殺気を消すまでには至らなかったが。
「アキラちゃん、一つ聞くけど」
 オーエンの殺気に気づいていないのか、気づいていながらスルーしているのか。判断がつかないまま、イダは言った。
「それは賢者としての命令?それとも個人的なお願いかしら?」
 一人の人間としてお願いします──そう言えば協力してくれるのだろうか。ドラマや漫画でも、こういう時は役職を盾にしない方が好印象を与える展開になっていた。権力を笠に着ないことで、相手に懐の広さや人徳を示すのだ。
 では、イダは?自己紹介した時、彼女は肩書きを嫌っているように見えた。人里離れた場所で暮らしているのも、上下関係を疎んでのことだとしたら。
 正しい答えは──
「賢者として、お願いしたいです……!」
 正しい答えは、言えなかった。
 賢者の称号を取った『真木晶』はただの人間で、大勢のうちの一人で、イダにしてみれば『ドラゴンが様子見した人里に住む住人の一人』と同じ、もしくはそれ以下の価値しかない。そんな人間の頼みを聞いてあげるほど、多分この人は甘くない。かと言って、これからお世話になるかもしれない人に『命令』するのはもっと嫌だ。
 そんな風に悩んだ結果が、正直で誠実な、ある意味傲慢ともとれる『賢者としてのお願い』だった。
「……アンタ、結構図太いのね。なんだかんだやっていけるんじゃない?余所者の協力なんて要らないでしょ」
「でも……まだ皆さんのこと、何も知りませんし」
「最初から何でも知ってたら気味が悪いじゃない。何も知らないから安心できる時もあるんじゃないの」
「そう、ですかね……」
「弱々しい返事ね。さっきの威勢はどこに行ったの?まだ協力するとは言ってないんだけど」
「あ……」
 確かに、と納得する。イダの心を打つことはできたようだが、彼女はまだ肯定していなかった。
「協力してあげてもいいけど、面倒事は関わらないのが一番でしょう?そんなに利益はないのよ。一日中アンタの側にはいられないし、料理だって、これじゃろくに作れないわ」
 言いながら、右手を軽く振ってみせる。
 右手しか触れないイダは、ボウルを手で固定しながらクリームをかき混ぜることもできない。ネロやカナリアなど手伝ってくれる人はいるが、彼らに頼むくらいなら最初から全て任せた方が早く完成するだろう。
 となると、スイーツを作ってもらえるというメリットは、ないも同然になる。
「《クアーレ・モリト》」
 突然呪文を唱えたオーエンの視線の先──イダに注目が集まるが、特に変わった様子はない。イダ自身、何をされたのかわかっていないようだった。
「何を…………っ!」
 途中で目を見開くと、イダは突き動かされたように隣の部屋に駆け込んだ。
 少しして、ドスンと何かが落ちる音が聞こえてくる。
「まさかとは思うが、オーエンよ、これが初めてというわけではあるまい」
「一度や二度…… 一度くらいはあるのじゃろう?」
「どうでもいいでしょ、そんなこと」
 あるのかないのか、どちらとも察しがつかない返答が返ってくる。と同時に、イダが戻って来た。ハロウィンのお化けのように、毛布を頭から被って。
「重いんだけど」
 厚い布団を頭だけで支えているのだから、重いのは当然だ。しかし全てがすり抜けてしまうイダにとって、頭に重さを感じるのは異常事態だった。
「オーエン、あなた──」
 苦々しい声で名前を呼ぶ。何か訴えたいのは賢者にもわかったが、その続きまでは察せない。
 しかしさすがは旧友と言うべきか、オーエンには伝わったらしく、彼は楽しそうに言った。
「これで嫌いな魔法舎に行けるね」
「………………」
 イダはたっぷり時間をかけて沈黙し、それから小さな声で「馬鹿じゃないの」と呟いた。


 その後、魔法舎に向かうにあたり、誘拐と勘違いした魔法生物と死闘を繰り広げる羽目になったり、せめて一匹だけでもとドラゴンを連れて行こうとするイダを説得したりと色々あったが──ともかく。
 こうして魔法舎の住人が増えたのだった。