ここから始まるハッピーエンド

 楽園の端で、マーリンは一人考えていた。

 こうしている間も世界は燃え続け、原始の獣が目覚めようとしている。カルデアはオジマンディアスから与えられた聖杯の解析を終え、紀元前のウルクにマスターを送り出した。最後の戦いが始まったのだ。

 世界の趨勢を決める物語が、終盤を迎えている。
 だというのに、全く楽しめそうにない。

 行かなければと焦燥がこの身を掻き立てる。しかし一体どこに行こうというのだろうか。人理が焼却された今、行く場所など限られている。アヴァロンには帰って来ている。ウルクにはサーヴァントとしての分身がいる。カルデアには……一人では行けない。きっと怒られるだろう。どうして連れて来ないのか、と。

「……キミの置き土産は悲劇ばっかりだ」

 マーリンの手には聖杯があった。正確には、聖杯だったものだ。セニカが第六特異点で作り、魔力を使い果たした空の器。どれだけ魔力を注ごうと、このガラクタが聖杯に蘇ることはないだろう。

 使い道があるとすれば、みじめな思い出として飾るか、あるいは──。

 マーリンは聖杯を床に置いた。ゲーティアも余計なことをする。別の誰かを召喚してくれれば、傷口に塩を塗られることはなかった。約束から解放できたのは評価するが、失恋を突きつける必要はなかったはずだ。
 しようと思えば召喚できる。そして特異点の記憶があろうとなかろうと、彼女は許すだろう。そういうところは最後まで変わらなかった。きっと「誰だって間違いはありますよ」なんて甘い言葉を吐いて、罪滅ぼしすらさせてくれないのだ。

「うん、やっぱり捨てよう」

 左足を軸に、右足を軽く振り抜く。それだけで聖杯は宙に投げ出され、塔から転がり落ちていくだろう。後から取り戻そうとしたって、黒い白鳥を探すようなものだ。それでいい。それでいい、のに。

「………………、」

 マーリンの足が聖杯に触れることはなかった。強く蹴り飛ばす必要はない。つま先で倒すだけでいい。後は勝手に、見果てぬ空に転がり落ちるだけ。
 簡単なことだ。しかしその簡単なことが、なぜかできない。返しそびれた心のせいだろうか。……いや、それだけはない。確かに捨ててしまいたいと思っている。

 捨てなければ、見る度に思い出すことになる。
 そう思いながら、マーリンは聖杯を見ていた。





 セニカは自分の意識がまだあることに驚いた。

 還るべき座がないことは、最初から気づいていた。花の魔術師の封印と魔術王の召喚が重なった結果、座にはいない、生前に似た幻想が生まれてしまったのだ。だからこの記憶も座にいる自分には届かず、特異点と共に消滅していくのだろうと思っていた。

「っ……!」

 その時、まるで走馬灯のように次々と映像が流れ込み、セニカは頭を抑えた。それはカルデアのマスターを中心に進む、冒険譚のようだった。


──真の聖杯は余が保管している。
──ですが相手が生きている限り、こちらに勝ち目はあります。
──父上がセニカの味方なんだからオレが敵に回るのは当然だろ。
──彼女はまたもあらぬ業を背負っている……。


 セニカの知らない、だが予想通りの光景が過ぎていく。そこまでは良かった。


──おや、それは困ったな。せっかく返しに来たのに無駄足だったとは。


 扉を開けてマーリンが入ってくる。なぜ、どこから記憶が送られているのかなど考えていられなかった。
 あの時は何も見えず、よく聞こえなかった部分が、再生されている。セニカは息をのんで痛みを堪えた。


──……これは私の責任だ。
──この気持ちはどこに向けたらいいんだ……!


「……あ、ああ」

 そしてようやく理解した。マーリンが後悔していることも、アルトリアの自責の念も、円卓の騎士の心配も、感情がなかったとはいえ、ずっと「ないもの」として扱っていた。心を返された直後も、約束を叶えられた喜びに浸って、彼らがどれだけ苦しんだか考えもしなかった。

「やめて……」

 理解すると同時に、息が詰まり、唇がわなないた。
 自らが犯した罪の重さを、見せつけられている。

「やめて……もう、やめて……」

 受け取った心が悲鳴を上げる。身を裂かれるような痛みに襲われ、見せないでくれと懇願する。
 だが映像が途切れることはなく、何一つ聞こえなかった部分が流れ始めた。


──自業自得だけど、ちょっと堪えられないな……。

 マーリンがセニカの髪を耳にかけ、頬に手を添える。彼の泣きそうに歪んだ顔を見るのは、初めてだった。

──キミを愛せなくなっても、愛していた事実は変わらない。

 つらいはずなのに、穏やかに微笑んでいた。その眼差しはギネヴィアを見つめるランスロットのように、視線だけで焦がれそうな熱量を帯びている。

──私はキミと過ごせて、とても幸せだったよ。

 自分の姿が光となって消える。だがセニカはマーリンから目が離せなかった。だから顔を伏せる間際、きつく拳を握ったのを見た。


「どうしてですか……」

 映像はそこで途切れたが、喜べなかった。

 愛していると言っていた。
 幸せだったと言っていた。

「どうして、こんな私を愛したんですか……」

 悲痛な叫びに応じる者はいない。
 残された道は消滅のみ。胸を掻き乱す痛みも、たった今芽生えようとしている何かも、あと少しでなかったことになる。





「マーリン」

 柔らかくて冷たい、雪のような女の声。

 ここに存在する生物はマーリンしかいない。少し前であればキャスパリーグがいたが、カルデアのマスターと共にウルクにいるのを確認済みだ。だから人が、まして彼女がいるはずがない。
 しかしつい最近聞いたばかりの、もう一度会いたくて、もう二度と会いたくなかった声がして、マーリンは後ろを振り向いた。

「私を覚えていますか……?」

 マーリンは自分の目が信じられなかった。セニカがいる。まるで何か押し付けるように、目元を強張らせて立っている。

 特異点にいたセニカは生前と同じ村娘のような恰好だったが、目の前にいる彼女はついぞ最期まで着なかった鎧を着ている。ということはこれが本来の、座に登録されている姿なのだろう。
 しかし詠唱も召喚術もしていないのにサーヴァントが、よりにもよってセニカが召喚されるだろうか。無意識に喚んだのかと両手の甲を見たが、令呪は刻まれていない。つまりマスター不在の現界、野良サーヴァントということになるのだが、特異点でもないアヴァロンに召喚される意味がわからない。

「本物かい……?」

 試しに素肌が見えている頬を撫でれば、ほのかな人肌と確かな骨格を感じる。「な、何事ですか」とたじろいだセニカの吐息が手のひらにかかり、頭がクラクラした。いっそ幻覚の方がマシだと思った。

「……」
「……」
「…………久しぶり、だね」

 何か言わなければと焦るが、言いたいことがあり過ぎて何を話せばいいのかわからない。離した手が宙を彷徨い、頬を掻いた後、やっと出てきたのは当たり障りのない言葉だった。

 本来座に登録されているセニカには特異点の記録がない。あれは偶然が重なって変質した、あの空間だから実現できてしまった姿。だからこのセニカに久しぶりと言うのは間違っていない。
 マーリンはそう思っていたが、セニカはそんなはずないと言いたげに頭を振った。

「もう忘れてしまったのですか……?いえ、忘れられて当然のことをしましたが……」
「……私の夢でも見てくれたのかな。でもごめん、今は笑えそうにないんだ」

 セニカの冗談とあらば一年くらい笑ってあげたいが、今はブラックジョークにしか聞こえない。
 本気にしないマーリンに、セニカは悲しそうな顔で「夢ではありません!」と言った。

「悪夢のような時間を、あなたが終わらせたんです」
「何を言って……」
「無駄足かもしれないと思いながら、あなたは来てくれました。柄にもなく焦って、止めに来てくれました……!」

 それはあの場にいなければ知らないはずの言葉だった。ギリギリで間に合ったとも言えるし、遅すぎたとも言える第六特異点で、マーリンが言った本心だった。

「いや、キミが知っているはずがない。だってあれは……」

 あの場限りの英霊が、同一人物とはいえ別の霊基と記憶が共有されるわけがない。本人だとしても、座に登録されるならあの格好であるべきだ。何より、信じるにはマーリンにとって都合が良すぎた。

 セニカは一度深呼吸をして、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「抑止にお願いしたんです。あの時代の人々を守った代わりに、今の自分を座に登録してほしいと」
「……確かにキミがしたことは偉大だ。並の英霊には真似できない。でも抑止との契約は『その程度で』叶うことじゃないはずだ」
「ええ、その通りでした」

 セニカはまるで見てきたかのように言った。しかしサーヴァントとしてここにいる以上、何か取引したのだろう。抑止が相手となれば、過酷な代償を払ったに違いない。聞きたくないという意思に反して、マーリンの口は「どうやって……」と説明を促していた。

「私には多くの霊基がありました。円卓の策士、終わりの魔女、ブリテンの聖人……見方を変えれば性格も印象も変わります。ですが、元は私であることに変わりありません」
「……差し出したのかい?」
「……はい。統合した上で、契約を結びました。今は一つの霊基を分け合っています」
「簡単に言ってくれるね……粘土工作じゃないんだからさ」

 サーヴァントの派生が抑止と交渉して完全な別人になるという例はあるかもしれないが、数は少ないだろう。まして座を空けるために統合するなど、アイデンティティの欠片もない。だがそうまでして会おうとするのは……と、期待してしまいそうだった。

「こうして話せるのも、最初で最後でしょう」
「……うん」

 抑止の守護者は、人間と地球の存続のために派遣される。その果てにどうなるのか、マーリンも知らないわけではない。召喚するかしないかで迷っていたが、セニカから会いに来る可能性を真っ先に考えるべきだったのだ。ありえないことほど実現させる人だと、思い出すべきだった。

「そこまでして言いたいなら、さぞ重要なことなんだろうね。大体察しはつくけどさ」

 マーリンはセニカから苦いものを感じ取っていた。迂闊に食べれば永遠に忘れられないだろう、濃厚な後悔の気配がするのだ。生前は魔力で隠されていたから、余計に鮮明に感じられる。

「いいよ。何だって、いくらでも聞くよ」
「……やめてください。どうして優しくするんですか……私は気づかず、知ろうともせず、周りを傷つけました。あなたの気持ちも、何度踏みにじったかわかりません。なのに……」
「酷いことをしたのはお互い様さ。だからいいんだ。そんな顔しないでくれ」
「いえ……いいえ。許さないでください。私は許されに来たのではありません」
「考え直してくれないのかい?キミが罪を感じる必要なんてないんだよ」
「優しくしないでと、言っているのに……」

 言いようのない切なさが胸に込み上げる。
 セニカは大きく息を吸って、震える声で言った。

「でも、決めたんです。私はこの世界を守ります。あなたが生きてくれるなら、どんな難題だって解決します」

 そう言って、セニカはそっと笑った。また一人で納得して、勝手に消えようとしているのか。そう思った時には、マーリンは抱き寄せていた。

「そんなことしなくていい。そんな大それたこと、私は望んでないんだよ……」
「ですが、私にできることはこのくらいなので……」
「だからって規模が大き過ぎるだろう……そのうち霊基が摩耗して、全部忘れるかもしれないんだよ?」
「……構いません。あなたの力になれるなら」
「それ本気で言ってるのかい……?だとしたらアヴァロンに湖ができるよ」
「塩っぽい湖になりそうですね。もしかしたら、環境破壊として派遣されるかもしれません」
「茶化さないでくれ、試したくなるだろう……」

 何度でも会えるなら、抑止の対象になるのも悪くない。
 でも本当は、できることなら、何の憂いもなく寄り添いたかった。カルデアのマスターとデミ・サーヴァントの少女のように、堂々と隣に立ちたかった。

「サーヴァント……?」

 天啓のようだった。いつまでも思いつかないマーリンに痺れを切らしたのか、気づくタイミングが良過ぎてそう思ったのかはわからない。だが、どちらでも良かった。

「セニカ、私をマスターにしてくれ。二人で世界を守ろう。一人よりずっと楽しい旅になる。……どうかな」

 肩を掴み、幼子に聞かせるように話すマーリン。その声はどこまでも優しくて、この人の心を無視してきたのだと思うと、セニカは泣きたくなってしまった。

「やめてください……あなたの優しさは、すがりつきたくなります」
「キミはすがるくらいで丁度いいんだよ。いつも一人で決めて先に行って……たまには導かせてくれ」
「……人は怪物を恐れます。彼のように導かなければ、私は人の輪に入れません……」

 頼れる人間は少なく、他の生き方を知らないセニカは変わることを恐れた。今更気をつけたところで、体に染みついた習慣は簡単には消えてくれないだろう。

 しかしマーリンは諦めていなかった。今手放せば本当に終わってしまう。自分のせいで戦いに身を落として、それを見てるだけしか許されない未来など、何としてでも避けたかった。

「人の輪に入るのが得意で、導かなくていい、キミのことが大好きな人間ならここにいるじゃないか。私たち、最高のパートナーになると思わないかい?」
「……本気ですか?」
「もちろん」

 マーリンは即答した。

「キミが地獄に落ちるなら、私が花畑にしてあげよう。キミが望むなら喋る聖剣だって用意する。綺麗な髪飾りも贈ろう。誰かを愛することも、嫌ってほど教えてあげるよ」

 相手次第だけどね。
 そう付け加えたマーリンに、セニカは唇を噛んだ。そうして込み上げる熱を抑えていないと、涙がこぼれ落ちそうだった。

「なら……隣にいてください。アヴァロンを出て、危険な目に遭ってください。私に愛すること教えてください。あなたの愛を、受け止めさせてください」

 ようやく聞けた言葉に、マーリンは待ってましたと言いたげに笑った。

「喜んで」

 それだけで、胸の中が焼けるように熱い。罪悪感も後悔も灰にしてしまいそうな熱が、たった一言で燃え広がる。
 この気持ちを伝えたい。だが言葉が見つからなくて、セニカは幸せそうに笑う目の前の男に抱きついた。

「おっと、鎧が固いなぁ」
「痛いですか……?」
「いや、いいんだ。この方が実感できる」
「夢ではありませんよ?」
「わかってるけどさ。あ、誓いのキスでもするかい?」
「契約が先です。うっかり消滅したら笑い話にもなりませんよ」
「絶妙に反論できないことを言うね……こういうのはムードが大事なんだよ」

 そう言いつつ引き剥がそうとしないマーリンの腕の中で、セニカは幸せを噛み締めるように目を閉じた。
 まだ自信を持って言えないが、もしこの気持ちが愛だとしたら──

「あなたはずっとこの気持ちを抱えていたのですね」
「うん……うん?え、ちょっともう一回言ってくれないか?それ絶対聞き逃しちゃダメなやつだよね?」
「時間がないのでまた今度で」
「やっぱ泣いていい?」

 これで地球破壊しない私って偉いよね、と大人げない自画自賛をしているマーリンの腕から抜け出して、セニカは手を差し出した。

 時間がない。
 だが先程と違って、胸を掻き乱す痛みは消えていた。

「あなたをアヴァロンから連れ出します。いいですね?」

 断られるなど微塵も考えていない笑顔だった。
 マーリンはそれを眩しそうに見て、そして手を繋いだ。

「行き先は任せるよ」

 空の聖杯が、役目は果たしたとばかりに割れる。
 しかし、どちらも振り返らなかった。

 もう願いは叶った。
 すれ違い続けた果てに、幸せを手にしたのだから。

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