スタンド
空高く跳ね上がった水飛沫が、浜辺のパラソルに降り注ぐ。大量の水滴は音を立ててぶつかると縁へと伝い落ち、熱い砂浜をまばらに濡らした。
透き通ったエメラルドグリーンの海原では、水着姿のサーヴァントが思い思いの娯楽を楽しんでいる。マーリンはそれらに目もくれず、まだ水滴が滴るパラソルの陰に入った。
「やっと見つけた」
セニカはシートの上で膝を抱えていた──マーリンが絶対に着ないと思っていた、水着姿で。セパレートタイプのパラオは、太腿の付け根まで見えてしまうほど深いスリットが入っている。にもかかわらず膝の上で手を組んでいるから、普段は隠れている部分が人目に晒されていた。
「その格好は?」
「水着ですよ?」
言いながら、セニカは軽く布地を引っ張った。自分が水着姿であることに何の疑問も持っていないようだ。大方……というか絶対モルガンの仕業だろう。いくら親友の頼みでも──まして人の多いこの場所でセニカが鎧を捨てるはずがないし、断られた時、モルガンが魔術を使わないわけがない。今のセニカの魔力量ではモルガンに対抗することはできないから、きっとこれ幸いと──あるいは何も考えず、その場の気分でセニカの認識を操ったのだろう。
「一緒に乗り越えようって約束したんだけどね……」
そう上手くはいかないかと、渇いた笑みが溢れる。
着るなら一番に見せてほしかったし、セニカが自力で乗り越えるのを応援していたマーリンとしては、反則技を使われたような気分だった。
「私の知り合いでしたか。お名前をお伺いしても?」
セニカは純粋な目で尋ねた。
何の冗談だと思いつつ答えようとして、気づく。目の前にいる人物は、マーリンの知るセニカではない。自分をアヴァロンから連れ出した日から着実に大きくなっていた甘い味が、このセニカからは全くしないのだ。加えて、過去の出来事に対する反応の薄さ──真実に辿り着くには十分な証拠が揃っていた。
「やられた……!」
モルガンがいじったのは水着に対する「認識」ではない。彼女はセニカの「記憶」そのものに介入したのだ。
「本当に覚えてないのかい?」
「ご安心ください。モルガンという方に助けていただいたのですが、一時的な記憶喪失だと仰っていましたから。じきに思い出すでしょう」
「戻れば後はどうでもいいって思ってるね?そういうところは変わらないのか……私はマーリン。キミのマスターだよ」
そう言って、手の甲に浮かぶ令呪を見せる。だがサーヴァントであることすら忘れているらしく、セニカは珍しそうに令呪を眺めるだけだった。
「モルガンはどこにいるんだい?」
「はぐれました。反応が楽しみだわと、この浜辺に案内されたのですが、見失ってしまって」
「反応、ねぇ……」
モルガンのことだ、マーリンやアルトリアの、という形容詞がつくのだろう。彼女の嫌がらせの才能にはつくづく舌を巻く。全てを忘れさせておいて最初に助けて善人を気取るなど、酷いマッチポンプだ。
うっすら目を細めるマーリンに、セニカは自分の横を手のひらで示した。
「よかったら座ってください。暑い中、私を探して疲れたでしょう」
「じゃあ休ませてもらおうかな」
セニカの隣は丁度一人分のスペースがあった。マーリンはそこに腰を下ろすと両手を後ろにつき、ブーツを砂場に投げ出す形で足を伸ばす。少し手を伸ばせば簡単に素肌にさわれそうだったが、記憶が戻ってからでいいかと視線を上げた。
セニカは何かを探すように浜辺を見渡しつつ、時折一点を見つめている。何を熱心に見ているのだろうかと瞳の先を辿ると、白熱したビーチバレーが繰り広げられていた。
「そういえばスポーツはやったことなかったね。飛び入り参加してみるかい?」
「やめておきます。私が交ざっても足手まといですよ」
「競うのは苦手だって言ってたもんね。私も運動は好きじゃないなぁ。見てる方が楽でいいよ」
「動かないからですか?」
セニカはくすくすと笑った。
初対面も同然となったマーリンを警戒しないのは、嫌な記憶も跡形もなく忘れているからだろう。それがいいことなのか悪いことなのか、マーリンには判断できない。記憶が戻ったセニカにしか決められないことだ。ただ、どちらにせよ、自分は思い出させようとするだろうなとマーリンは思った。二人で築き上げたものをなかったことにされたようで、決して浅くはない喪失感に襲われる。
「マーリンもいたんですね」
低い声と共に現れたのはベディヴィエールだった。その両手にはビンとペットボトルが握られている。
「セニカを残して買いに行ったのかい?」
「慣れない土地を連れ回されたら、色々と神経を使うと思いまして。というか、元はと言えば貴方が守れなかったせいでしょう。休憩中に知らされて驚きましたよ」
「今回のことは大目に見てほしいな。予想外の偶然が重なって私も後手に回ってたんだよ」
特に抑止の派遣とモルガンの来訪が同時に起こったのは痛手だった。単独行動を余儀なくされている隙に、相性の悪い問題をセニカ一人で対処しなければならなくなったのだ。今回は相手が悪かったと言う他ない。その証拠に、マーリンはモルガン退去と同時にセニカの居場所を見つけることができていた。
「でもまさか先に見つけていたとはね」
「それこそ偶然ですよ。男性に絡まれている女性を助けようとしたら、セニカだったんです。一人で追い払っていたので、まさか記憶を失っているとは思いませんでしたが……」
未だに信じられないのか、ベディヴィエールは確かめるようにセニカを見た。知り合いが記憶喪失になった者の反応としては当然の反応だろう。誰であれ、周囲の存在を──自分自身のことすら忘れているとなれば、精神的なショックは避けられない。
では当事者は気楽でいられるかと言うと、大概そうではないだろう。誰も知らない、何も分からないまっさらな状態で生活しなければならないのだ。さらに一日でも早く元の生活を思い出してほしいと、周囲が記憶を取り戻すことを願うほど、その願望はプレッシャーとなり重くのしかかる。
だが、そういった期待に応えてしまえるのがセニカという人物だった。その異常性は、記憶の有無程度ではなくならない。
「追い払うつもりは……、話し相手を探していたので、彼の知り合いを教えただけですよ」
セニカは気まずそうに言った。去り際の男の表情から、怖がらせてしまったのだということは察していたが、どうしてかさっぱり分からないのだ。
自分のことを知っているらしい二人に話せば、理由が分かるかもしれない。しかし、もしまた同じ目を向けられたら……。そう思うと、説明する勇気が出なかった。
「それ、早く飲まないとぬるくなるんじゃないか?」
よく冷えていたのだろう、ベディヴィエールが買ってきた容器にはびっしりと水滴が浮かび上がっている。
そうだったという風に目を丸くしたベディヴィエールは服の裾で水気を拭き取り、セニカに差し出した。
「どちらにしますか?ジュースが売り切れで、コーラと紅茶しか置いてなかったんです」
「私としては紅茶にしといた方がいいと思うな。炭酸はしゅわしゅわするからね」
「ではコウチャにします」
ベディヴィエールは紅茶のペットボトルをセニカに手渡すと、もう片方をマーリンに差し出した。
「いいのかい?キミの分がなくなるけど」
「私は王に報告しに行かなければなりませんから。真実を伝えるのは酷ですが、事前に覚悟する必要があると思いますし」
「いやあ、会う前に思い出すと思うよ?あんまり持続力はないみたいだからね」
「……事故ではなく、故意に忘れたということですか?」
ベディヴィエールは一気に表情を引き締めた。セニカが自らの意思で忘れたと思ったのだろう。
マーリンは紅茶を太陽に透かしているセニカを横目に、犯人の名を無音で伝えた。表情と口の動きで分かったのか、ベディヴィエールの顔には納得と困惑が浮かんだ。
「もう還ったみたいだから会えないけどね」
「いえ、教えていただきありがとうございます。しかしこれは、どう伝えたら良いのか……」
「隠すつもりはないみたいだし、そのまま言っていいんじゃないか?ゴルゴンの三姉妹がいるカジノには直筆のサインも……」
「どうかしましたか?」
「なんでもないよ、キミが気にすることじゃない。とにかく、どう伝えようと好きにすればいい」
「……そうですか」
少し不思議そうにしながらも引き下がるベディヴィエール。マーリンが何に気づいたのか気にならないでもないが、情報を円卓の騎士に伝える方が優先的だと思ったのだ。
「セニカ、しばし離れますが、何かあったらマーリンを盾にしてくださいね。殺しても死なないので遠慮はいりませんよ」
「笑顔で恐ろしいことを言いますね……分かりました。私の周りは物騒なようですし、念のため覚えておきますよ」
セニカはそう言ってから、困った風に「記憶をなくした人が言うことじゃありませんね」と自分の発言に苦笑した。その顔を俯かせるようにマーリンが頭を撫でるのを見て、ベディヴィエールはそっと浜辺を後にした。
*
時は少し遡り、マスターとマシュはカジノ・イルカルラを攻略していた。
しかしこのカジノ、たった一組という攻略人数からも分かるように難易度が非常に高いのだ。看板の矢印に従えばゴーストの群れに襲われ、光に向かって歩けばイフリートが待ち構えており、先に進めば進むほど気温が下がっていく。最終関門ともなれば氷柱のような冷気が肌を刺し、真夏の装いでは耐えきれない寒さが挑戦者を襲う。
「礼装じゃ、なかったら……やばかった、かも」
「先輩、やはり出直した方が……くしゅん!」
あまりの寒さに、歯がひとりでにカチカチと鳴る。受付を通ってから、もう何分経っただろうか。冷静に考えようとする度に鳥肌が立ち、思考が震えで縮んでいく。さっさと脱出したいのに、いくら進んでも出口が見えない状況は、じわじわと挑戦者の精神を削っていた。そもそもカジノ要素はどこに行ったのか……そんなことを考える余裕もなく、マスターとマシュはひたすら暗い洞窟を歩く。
しばらくして、照明に照らされる看板が見えた。
「これは……」
看板はロープが通されており、壁の突起に吊るすように掛けられていた。そして矢印は右を指している。そこまではいい。問題は一つ──
「ねじれてる……?」
ロープが看板の手前で交差しているのだ。丁度、裏表をひっくり返した時のように。
裏を確認すれば、逆方向を示す矢印が書かれている。つまり、解釈次第で右にも左にも進めるのだ。何かしらの要因でひっくり返ってしまったと考えて左に行くか、表示通り右に進むか──意地の悪い問題が、二人を足止めする。
「ここにきて心理戦か……っ」
しらみつぶしに歩いていけば、いつかは出口が見つかるだろう。だがそれはすなわち、体力を削るということだ。もしもの時は運営側がギブアップ判定を下すようだが、このカジノのオーナーはエレシュキガルであり、サポートはほぼ神霊だ。人間の常識とは異なる生死観を持っていてもおかしくない。
「とりあえず右に行ってみる?間違ってたら……戻らなきゃだけど」
「はい。こうなったら当たって砕けろ、です!」
「よし!じゃあ右に出発だ!」
気合も新たに、看板通りに歩むマスターとマシュ。
その光景をカメラ越しに眺めながら、麗しの女性は残念そうにため息をついたとか。