生簀の鯉
幼少期から私を知る数少ない人。
捨てかけた人間性を拾ってくれた人。
そして、私のせいで──
穏やかな風が草原を駆け抜ける。相談役として人気な彼女を連れ出すのは苦労して、結局王権を使ったのを覚えている。
「荒野だった頃が懐かしいですね。山ごと狩猟なんて珍しいものも見れました」
「あ、あれは手っ取り早いと思ったからで……もう封印しました!」
「ええ、そのおかげで収穫量が増えましたね」
彼女は優しい笑顔を浮かべていた。私が幼かった頃と何一つ変わらない、像のような笑顔。
「……このままでいいんでしょうか」
「?」
きょとんとした顔を向けられる。それが本心なのだとわかるまで、随分と長い時間がかかったものだ。いつも全てを見透かしたように動くから、まだ勘違いしている者は多いだろう。
そんな彼女だから、私たちは頼りきってしまう。知恵も優しさも、隠された辛苦を知らないまま、搾取するように享受してしまう。
「民もギネヴィアも円卓の騎士も、騎士王は男であると信じています。もし女であると知ったら……きっと失望するでしょう」
「……女に従うものかと反抗する兵はいるでしょうね。でもあなたを知る人は、たとえ女だと知っても変わらぬ忠誠を誓うと思いますよ?」
彼女が大丈夫と言うと、本当に何とかなるような気がしてくるから不思議だ。
だがそう簡単に決められることではない。日々彼らと時間を共にするほど罪悪感に苛まれて、悩んで、悩んで、悩んで悩んで悩んで悩んで、それでも答えは出なくて──。
「悩んだ分素晴らしい解決策が浮かぶ、なんてことは滅多にありません。ましてあなたは真面目ですから、どちらを選んでも自分を責めるでしょう」
呼吸のできない海底から、一気に引き上げられたような感覚。胸のしこりを一撃で粉砕されたような衝撃だった。
「残酷なことを言います。こういう時くらい、楽な方を選択してください」
彼女は優しくて賢くて、何より強かった。
「あなたという人は、本当に……」
言葉だけでどれだけの人間を救ってきたのだろう。
だが同時に恐怖した。この力が悪い方向に使われた時、私は立ち向かうことができるだろうか。
「私に任せてください。誰も傷つかない完璧な策があります」
「あなたのは策ではなく方便な気もしますが……いえ、私の立場で文句など言えません。聞かせてください」
「ずばり、エクスカリバーのせいにします」
幼少期の私を知る数少ない人。
捨てかけた人間性を拾ってくれた人。
私のせいで──心を失った人。
大きな窓から、砂粒一つ落ちていない聖都を見下ろす。
この特異点はあの時と同じ状況になりつつある。聖地の民と遠征軍は対立をやめ、セニカという共通の敵を前に共生を選んだ。
もし私の考える通りなら、そのうちカルデアは彼らの援助を受け、追い出したサーヴァントを引き連れ聖都に攻め込んでくるだろう。そしてセニカを打ち倒し、特異点を修復するのだ。まるで英雄の冒険譚のように。
これはカルデアを主役にしたシナリオなのだ。セニカはあの時のように敵役を演じるつもりなのだろう。
だがここに読み手はいない。数百年、数千年後となればいるかもしれないが──
「マーリン……!」
いるじゃないか。たった一人、セニカがずっと気にかけていた人物が。
あなたはいつも正しかった。
だが、これだけははっきりと言える。
そんな命の使い方は許さない。
*
困った。これは困った。
マーリンは重い足を動かしながら顔を顰めた。
あり得ない。こんなことあってはならない。セニカを召喚するなど自分以外にできるはずがない。咄嗟のことだったが、確かに封印した。それもただの封印ではない。何かあった時用に隠していた、マーリンだけが知る封印術である。
だが今は人理焼却というイレギュラーと抑止が介入できない特異点というフィールドが重なっている異常事態。何が起こってもおかしくないのも事実であり、マーリンの封印が緩んだとしても不思議ではなかった。
セニカはグランドの資格を得てもおかしくないほど強かった。だからアヴァロンに連行して召喚されないようにするつもりだったのだが、その目論見は外れてしまった。セニカは民衆の手によって生き絶えたのだ。
吐息が白く濁る雪の日。体中を剣で切られながらも満足そうに目を閉じるセニカを抱えたマーリンは、封印を施した。もはや呪いに近い、座に迎えられたとしても誰にも召喚されない封印。
彼女はマーリン好みのハッピーエンドメーカーであり、常識を覆す鬼才だった。
だからだろうか。
あんなことを言ってしまったのは。
『神に誓って、私はあなたを──』
誓いは破られた。気づいた時には手遅れで、まるでダムが決壊したようにブリテンは一気に崩壊に向かった。
「会いたくない……いや、この気持ちは合わせる顔がないと言うべきかな」
千里眼に映るセニカは本物だ。あの時と何も変わらない、自分の身代わりとなった彼女がそこにいる。
元々動く気はなかった。わざわざ動かずとも、きっとカルデアのマスターが解決する。この特異点にマーリンの役目はなく、姿を見せる必要もない。だというのに、どうして砂漠に向かっているのだろうか。
いや、理由なんてわかっている。封印が解けた原因を探して、今度こそ封印するためだ。カルデアのマスターにはできないから、仕方なく出向くのだ。
そんなことを考えているうちに、第六特異点に到達した。だが地表は虚無の白で覆われていて、足をつけることはできない。
「ん……?」
もう少し歩くのかと安堵と緊張を感じた時、マーリンはふと違和感を覚えた。妖精郷に住み、幻術を得意とするマーリンだからこそ気づけたのだろう、些細な異変。
「……」
一瞬で消失するかもしれない純白の世界に、マーリンは足を踏み入れた。