御手杵はどうして逃げているのかわからなかった。自然の法則のように、逃げ続けていることにさえ疑問はなかった。
暗い林を全力で走る。光源は淡い月明かりだけで、一歩先がどうなっているのかは見えやしない。しかし距離を離すためには足を止める訳にはいかなかった。
人の身を得て歴史修正主義者と戦ってきた御手杵は並の成人男性より強靭な肉体を持っている。だというのに、逃げても逃げても距離が空く気配はない。どころか少しずつ近づいている気がした。
──追いつかれる。
御手杵は走るのをやめて大きな岩陰に潜み、必死に息を殺した。この暗闇では自分の姿も隠れ、相手もすぐに見失うはず。音さえ立てなければやり過ごせるだろう。
と、そんなことは思っていなかった。
むしろ絶対に見つかると確信していた。いや、既に見つかっているだろう。そこに理由なんてない。過程はどうあれ、御手杵は殺される。この世界はそういうルールなのだ。
「ミツケタ」
ふわりと宙に浮いたまま、化け物が口を開く。凶悪な牙が月光を反射して煌めき──
*
「ッ!」
御手杵はスイッチを入れた機械のように目を開けた。冷たい風に体温を奪われ、体はすっかり冷えている。夢を見ていた気がするが、内容が思い出せない。ただ胸の底に不快な塊が残っていて、悪夢なら思い出さなくていいかと諦めた。
昼下がりに名前が出かけた後、よく晴れていたからホースを引いて庭に水やりをした。それから冷えた麦茶を片手に縁側で帰りを待っていたのだが、いつの間にか寝てしまったらしい。そういえば大の字に寝転がった気がする、と御手杵は肌をさすりながら記憶を辿った。
一階に店を構えた住居は数百年の歴史があり、敷地はかなり広い。門から玄関まで続く庭も広く、整えられた草花が生い茂っている。
まだ会って一月にも満たないからか、それとも今まで一人でこなしていたからか、初めてできた妹はあまり自分を頼ってくれない。草むしりや植え替えから肥料運びまで黙々と作業する背中が銀髪の脇差と重なったこともあり、いつしか野良仕事が嫌いな御手杵も手伝うようになっていた。
──内番も役に立つんだなぁ。
最後まで好きになれなかったが、畑仕事だけはやって良かった。
「御手杵さん」
丁度考えていた人物に呼ばれ、御手杵は起き上がった。見ると買い物に行った時と同じ服装の名前が、少し離れた位置に立っている。
それを視認すると同時に彼女の背後に浮かぶ満月に違和感を覚えたが、御手杵にとっては周囲がすっかり暗くなっていることの方が重要だった。
普段は端的かつ事務的な会話ばかりだが、休日の食事時はゆっくり会話できるチャンスなのだ。
先日、名前は文化的な──歌仙と話が合いそうなものが好きだと判明し、いざ博物館チケットを買ってみたはいいものの、部屋に篭りがちの相手にどう切り出せばいいのか迷っているうちにどんどん時間が過ぎていた。期日は週末だ。今日を逃したら、もう機会はない。
このままではジャージのポケットに苔が生える。ぼんやりとそんなことを考える御手杵の耳に、ジャブジャブと水をかき分ける音が聞こえてきた。その音は名前の方からで、彼女がこちらに近づこうと足を動かす度に鳴り続く。
水平線の近くで、自ら発光しているのではと錯覚するほど輝く月。御手杵の夜目は良くないが、その月に背を向ける名前のシルエットはよく見えた。その輪郭は膝上で水平に途切れている。
そこに見事な草木はなく、庭だった場所には視界いっぱいに水が広がっていた。
「……いつからここは海の家になったんだ?」
「潮気がないので多分湖です」
「湖の家か」
「綺麗ですね」
静かな世界で、名前が感嘆の息を吐いたのがわかった。逆光でよく見えないが、きっと優しい表情をしているのだろう。自分に向けられるのはぎこちないものばかりなのに。
「でもこれ、倒産待った無しですよ」
「そうかぁ?あんたの蕎麦は燭台切のよりうまいぞ」
「一般人と比べられても……」
……政宗公の愛刀を一般人扱いかぁ。
勘違いが起こるのは過去を詳しく伝えていないせいなのだが、第一声から「俺は槍だったんだ」とストレートに暴露して現在のぎこちない関係になってしまったため、御手杵は話すに話せなくなっていた。だが本丸の仲間についてはつい口が緩くなってしまうから、名前には記憶喪失と妄想癖を同時に発症した病人だと思われている。
一応仲良くなりたいという気持ちは互いに持ち合わせているので、必要なのは時間なのかもしれない。少なくとも一ヶ月以上の。あるいは、時間を凌駕する濃密な経験か。
「繁盛するには味だけじゃなくて立地も重要です。世界そのものが違うのか人影すらありませんが……」
「あんたも異世界に行けるってことか?」
「?」
名前は御手杵から一人分離れた場所に腰掛けると、小さな木箱を差し出した。丁度名前の手のひらサイズで、御手杵が持つと小さく見える立方体。チョーク入れのようにスライドさせて取り出す形式で、中には一枚の紙切れが入っていた。月明かりに照らすと、そこには「帰りたければ月を溶かせ」の文字。
「なんだこりゃ。月って溶けるのか?」
「溶けたら宇宙の神秘ですよ。なぞなぞじゃないですか?」
「頭使うのはお手上げだなぁ」
名前は交互に足を動かしながら揺らめく水面を見つめた。月は溶けないので言葉通りの意味ではないのは明らかだ。しかし、その先がわからない。
不気味なほど綺麗な世界で、唯一話せるのは兄になって一ヶ月の病人だけ。イマイチ頭が働かないのも無理はない、と自分に言い訳をした。
「帰り道に、貰った……拾った?よく覚えてないんですけど、気づいたら持っていて……夕飯の用意ができて御手杵さんを起こす前に開けてみたら、一瞬で夜になってました」
「夕飯……」
「障子が開かないので我慢してください」
「あー、うん、そうか……」
誘う時間があるとわかって安心した、と正直に言えず、御手杵は曖昧な返事で濁した。
誤魔化すようにジャージの裾を捲って両足を浸すと、湖は予想より冷たく、すぐに指の感覚がなくなりそうな鋭さを感じる。だが今なら全身濡れても笑い飛ばせる気がした。こんなに長く喋ったのはいつぶりだろう。初めてだとは思いたくないが、そんな気がする。
「そういや、なんで起こした時水ん中にいたんだ?」
「……月が実際に燃やせる距離にあるか、確かめようと思って……無理でしたけど」
「まあ触れたら宇宙の神秘だよなぁ」
名前はバッと顔を上げた。その表情は不服だと主張していたが、しばらくすると渋々といった様子で御手杵から視線を外した。その流れがババ抜きで三日月に騙されてジョーカーを引いた骨喰そっくりで、さらに表情が緩んだ。
後ろに置いた両腕に体重を乗せ、溶けそうにない月を眺める。その時、何かが水面に落下していくのが見えた。
元から水平線に接するくらい低い場所にあるから、気づかなかったのだろう。目を凝らして待てば、小さな明かりが一つ二つと水面に消えていく。その光景は──まるで火を近づけたロウソクのようだった。
「えっ、あれ溶けてねぇか?」
普通、月は溶けない。プラネタリウムやCGなら納得できるが、ここにそんな機械はない。あるのは水だけだ。だがあの状態はまさに「溶けている」と言うほか表せない。
何もしていないが、このまま溶けてくれるならありがたい。御手杵は理屈抜きで、そういう世界なのだろうと気楽に考えた。
しかし安堵も束の間。御手杵が示す先を観察していた名前は眉をひそめて言う。
「見間違いじゃないですか……?」
「本当だって!あんた目が悪いのか?」
「幻覚に視力は関係ないかと……」
「はぁ、なんで……あ、位置が悪いのか」
御手杵は体をずらし、自分が座っていた場所を二、三度叩いた。しかし、戸惑い気味に移動した名前は再度月を見て、首を振った。自分の視界に映る月は今なお水面に向けて光を垂らしているというのに、彼女には見えていないらしい。
──まさか、本当に幻覚……。
呆然とする御手杵を覚ますように、冷たい風が吹く。ぞわりと足元から鳥肌が立ち、急いで水中から引き揚げた。隣では前のめりの姿勢で足を入れようとしていて、思わず声をかける。
「寒くないのか?」
月に届くか試したと言っていた。膝上まで足を浸し、ひたすら水をかき分けて進み、途中で折り返したのだろう。時折、風に当たりながら。
障子が開かないと言っていた。きっと出入り口は全て見回ったのだろう。二人でやる方が早いのに。
律儀で真面目で、思いやりがある。大多数が好ましいと判定するようなハッピーセットだが、御手杵はもどかしかった。おそらく名前は弱音の吐き方を知らないのだろう。
そして予想通り「温かいくらいですよ」と答える。その時、御手杵はギョッと目を開いた。そのまま何食わぬ顔で足を濡らしたのだ。やせ我慢にしてはあまりにも平然としている名前に、恐る恐るといった様子で言葉を紡いだ。
「でも俺、すげぇ鳥肌立ってんだけど……」
「怖いんですか?」
「寒いんだって!ほら!」
半ば投げやりで名前の顔に手を押し付け、口から「えっ?」と言葉が漏れた。信じられないという風に頬、額、首をぺたぺた触る御手杵と、訳がわからずされるがままの名前。
「あんた、なんでこんなに冷たいんだ? 俺が知ってる人間じゃない……」
「御手杵さんが熱いだけだと思いますけど……」
御手杵の顔はすっかり青ざめた。今なら自分を家族に迎えてくれた男が、やたらと「娘を頼む」と繰り返してきた理由がわかる。我慢すら自覚していないとは。
「水遊びは終わりだ。入るなら俺がやるから、あったまるまで動くなよ」
「でも、さっき寒いって──」
「言ってない」
満面の笑顔に遮られ、名前はおとなしくなぞなぞを解きにかかった。納得いかないと言いたげな横顔を見るに、本当に寒くないのだろう。でも自覚していないだけかもしれない。御手杵は自分が重傷になったことに気づかず進軍しようとした初陣を思い出した。
「巻き込んですみません」
「あんたのせいじゃないって」
御手杵は「真面目だなぁ」と笑いながら額と膝をくっつける名前の後頭部に手を置き、軽く弾ませた。
夢のために奔走する親と、それを応援する娘。一見良好な家庭に見えるが、どうやら自分が過去を言えずにいるように、苗字家も秘密を抱えているらしい。実際この一ヶ月、玄関にかけられた準備中の札が外される日は一度もなかった。
正面では大きな三日月がその身を溶かし、光の筋をつららのように垂らしている。水面に降り立った光はじわじわと透き通った湖に広がり、幻想的な風景を作り出していた。
「水飴みたいだ」
しかし雅だとか風流だとかは、御手杵の不得手とする類である。天気を操る逸話より武勲を重んじる性格なのだから無理はない。たとえ歌仙がタンザナイトを美しい宝石だと褒めたとしても、御手杵には色つきの石ころにしか見えないだろう。
空腹も相まって、御手杵の意識はすっかり夕飯のメニューに向いていた。作り手の名前が顔を上げる様子はない。仕方なくポケットに手を突っ込み、何と言って誘おうかと考える。
だが誘い文句が決まるより先に新月になり、二人の意識を連れ去った。