たまには帰って来なさいと言うが、そう簡単に「はい帰ります」とは言えない。実家は帰りづらいのだ。
 精神的な問題ではなく、物理的な問題で。


 私の実家は辺境ともいえる過疎地域にある。一両編成の電車を降りれば山は目の前。そこから交通網も整っていないあぜ道をバスで四十分揺られなければ辿り着けない。
 そう、知っていたはずなのだが、すっかり都会を基準に考えるようになってしまっていたらしい。
「職務怠慢……」
 バス停の時刻表を食い入るように何度も見返す。しかし残念ながら見間違いなどではなく、時刻表にはネットと違う数字が手書きされている。
 新幹線も電車もバスも事前に調べ、最短時間で到着できるように準備していたのだが、地方のゆるさを侮っていた。この辺りは回線も通じにくくて、ネットでバスの時刻を調べる人なんて滅多にいない。きっと時刻表が変わることも井戸端会議で知れ渡るのだろう。
 でもだからって公式サイトが去年のままなのはどうかと思います。
 さて、次のバスが来るまであと一時間。暇な時間ができたと嘆くべきか、一時間ならまだ運がいい方だと喜ぶべきか……まだ元気よく照り付ける太陽を避けるように駅内に戻る。風通し抜群の掘っ立て小屋だが、屋根があるだけマシだ。
 カメラを起動し、大自然をぱしゃりと一枚。森のざわめきに混ざり、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくる。夏になればセミの鳴き声が喧しくなるのだろう。
 思えば子供のころはセミの鳴き声をうるさいと思ったことなどなかったのに、いつから耳障りだと感じるようになってしまったのだろうか。あの頃が懐かしい。廃墟を秘密基地と呼んだり、川辺で拾った石ころに価値を見出したり、ガラスの欠片を宝石だと信じて集めたり…… 子供の頃は小さな世界で満ち足りていた。
「……まだあるかな」
 何度も歩いた獣道はまだ残っているだろうか。それもと雑草が道を閉ざしてしまっただろうか。向こうに着いたら調べてみるのもいいかもしれない。
 そんなことを考えていると、薄桃の何かがひらひらと降って来た。そよ風に吹かれて遠ざかろうとするそれを、反射的に掴み取る。梅にしては淡い色だから、桜だろうか。でも桜の木なんて生えてたっけと見渡していると、いつの間にか駅内のベンチに人がいて体が跳ねた。
 青い和服姿の美人さんは目が合うとにこりと笑った。とりあえず笑い返してみる。
 それにしてもこんなに綺麗な人がこんな場所に来るとは……何かの撮影だろうか。
「こんにちは。お綺麗ですね」
「褒めても桜しか出せんぞ?」
「本当ですか?もっと褒めたくなりますね」
 桜の花びらを掴むところを見ていたのだろう。それとかけて冗談を言ってくるとは、見た目に反して親しみやすい人らしい。
「でもどうしてこんな田舎に?私この辺の出身なんですけど、娯楽とか何もないですよ」
「そうでもないさ。流行りの物はないが、ここにはふと足を運びたくなる」
「よく来てるんですか?」
「……そうだな。来るというより、待っていたのかもしれん」
「?」
「こうして会えたのも何かの縁だ。少し案内しよう」
「え、ちょっと」
 彼は駅から出て行ってしまった。どうやら来たのは初めてではないらしいが、私だって初めてではない。多分案内されても知っている。
 だけど時間は有り余っているし、些細だとしても何か変わっているなら……という気持ちもあり、ついて行くことにした。
 桜の花びらを丸まらないよう慎重にポケットに入れ、彼に続いて山の小道に入っていく。荷物は置いてきてしまったが、誰も盗む人なんていないだろう。外出する時も家のカギをかけない人が多いのに空き巣は出ないくらいだし、そもそも古着ばかりで貴重品は入っていないから特にダメージはない。
「どこに向かってるんですか?」
「すぐそこだ。人の子には近くて遠いかもしれんが、まあ大丈夫だろう」
「それ本当に大丈夫なんですか……?次のバスに乗り遅れたら一時間以上待つんですけど」
「そう生き急ぐな。人の一生は短いが、心の余裕も必要だぞ?」
「あなたは余裕があり過ぎる気もしますけど……」
「はっはっは。違いない」
 彼は草履なのにすいすい進む。たまに着いてきてるか振り返ってくれるけど、やっぱりスニーカーで来て良かった。見栄張ってバイト代で買ったブランドものとか履いてたら山なんて怖くて入れない。
「そうだ、お名前。何ていうんですか」
「俺は三日月宗近という。しかし名を聞かれるなど久々だな」
「そうなんですか?実は有名人だったり?」
「有名ではあるな。海の向こうから会いに来る奴もいる」
「すごいじゃないですか!あ、後でサイン書いてください。私今日からあなたのファンになります」
「さいんか、知っているぞ。花押でよいか?」
「かおう?えっと、はい、大丈夫です。写真もいいですか?」
「普段は禁止だが……しかし上手く写るかわからんぞ」
「それもそうですね。私撮るの下手だから三日月さんの美しさを台無しにしちゃうかも……やめときます」
 練習してはいるのだが、何枚撮っても上達しないのだ。気を抜くとすぐブレてしまうし、ピンボケもしょっちゅう。食べ物は斜めから撮ればいいってものじゃないと気づいたのも最近の話だ。そんな話をしながら歩いていく。


「ここだ」
 小道の先は神社の入り口に繋がっていた。鳥居の奥に階段が続き、神社らしき古びた建物が見える。
「……この鳥居、曲がってるし色褪せてるし、すごいボロボロですね」
「危険だからと最近は人の子も見かけなくなった。この門もじきに壊されるだろうな」
「そうなんですか……新しくなるといいですね」
「では入るか」
「えっ?危ないんじゃないんですか!?」
「そう慌てるな。そこで立ち止まるよりは安全だぞ?」
「ええ……?」
 なんでそんなに自信満々なんですか。ずいずい階段を登っていく背中に問いながら私も境内に入る。ていうか三日月さんすごい真ん中歩いてるけどそういうの気にしない人なんだろうか……「いい天気だな」あ、これは気にしてない。
「こんなところに神社があったんですね。知りませんでした」
「知らない者は多い。知っても忘れてしまう者もいる」
「ああ……でもわかります。神社って記憶に残らないんですよね」
 初詣に行っても思い出せるのは友達のことで、神社自体についてはあまり覚えていない。どこも似たような造りだからだろうか。伏見稲荷のように色彩にインパクトがあれば忘れないと思うのだが、奇抜過ぎるとそれはそれで前衛的な気もするし……。
「あの、なんでこっち見てくるんですか?」
「忘れられるのは悲しいぞ」
「は、はい。そうですね」
 三日月さんの表情は憂いを帯びていた。よほどこの神社に思い入れがあるのだろう。鳥居は風化していたが神社自体には損傷も傷もないのは三日月さんが手入れしていたからなのかもしれない。
「あ、でもこの神社のことは忘れませんよ。三日月さんが案内してくれましたから」
 覚えている人は一人でも多い方がいいだろう。そう思って励ましたが、三日月さんは「……俺の案内は徒労だったか」と袖を口元に寄せた。なんでなの。
「人の成長は早い。だが待つ時間は長く感じるものだ」
「?」
「これをやろう」
 そう言って袖口から取り出したのはお守りだった。三日月さんの目と同じ、紺と黄色でできている。触ると丸みを帯びた固いものが入ってるのがわかった。
「肌身離さず持ち歩くといい。いつか道しるべになるだろう」
「?人生の路頭に迷わなくなるってことですかね」
「そうかもしれんな」
 曖昧な言い方だが、もし本当なら全人類に必要なものじゃないだろうか。
「そんなすごいもの貰っちゃっていいんですか?」
「元はお前のだ。気にするな」
「私の?」
 全く覚えがないのですが。それに三日月さんとは初対面のはずだ。こんな美人に遭遇していたら絶対忘れない。有名らしい三日月さんはともかく、私が一方的に知られているというのもおかしな話だ。
「今日はもう帰るといい。家族に会うのだろう?」
「!そうだ、時間……え」
 腕時計の針はバス停で見た時から止まっていたらしい。代わりにスマホを取り出すが、充電切れなのか真っ暗な画面のまま動かなかった。
「時間がわからない……!三日月さん、急ぎましょう!」
「俺はここで待つさ。いつでも来るといい」
「でも……」
 走り出そうとした足が止まる。だが本当に行く気はないらしく、三日月さんは一歩も動かなかった。
「絶対また会いましょうね!サイン貰いますから!」
「ああ。約束しよう」


「お父さん!」
「おお、名前」
 駅に戻ると車で迎えに来てくれたのか、お父さんが待っていた。荷物をトラックの荷台に乗せるところだった。
「遅いから探しに来たんだぞ。荷物も置きっぱなしでどこ行ってたんだ?」
「ちょっと神社に寄ってた。ていうかバスの本数減ったでしょ」
「そりゃ人口がなぁ……ん?この辺に神社があるのか?」
「知らないの?」
 生まれも育ちもこの場所のお父さんが知らないなんて珍しい。車に乗り込みながらちょっと得意げに教える。
「駅前の山にあったよ。もうすぐ鳥居壊すんでしょ?」
「いや……何かの間違いじゃないか?」
「何が?」
 お守りをポケットに入れようとして、駅で桜の花びらを入れていたことに気づく。
 でもそこには何もなかった。
「あの神社、とっくに取り壊されたぞ」