失恋を引きずるタイプじゃないと思っていたが、私はそんなに強くなかったらしい。忘れたいのに思い出して、その度に重苦しい塊が胸に広がっている。一週間前からずっとだ。だがそれも、今日で限界を迎えてしまったのだろう。
「……」
 真夜中の公園は葉擦れの音が普段より大きく聞こえたが、恐怖するほどの気力もなかった。幹に背を預けて脱力しながら、力ない手でゆらりと缶ビールを探す。
 ない、ない、ない。どれも空だったが、それならそれでいいやと思った。今は何をする気にもなれない。追加を買いに行く元気もない。
 誰かが砂利を踏む足音が近づいていたが、振り向く気にもなれなかった。
「生きているのか?」
 渋い声だった。見なかったフリをしてくれればいいのに、きっと優しい人なんだろう。彼は私の正面に回ると、転がる空き缶を見て露骨に目を細めた。
「こんな夜更けに女性一人とは感心しないな」
 街灯が赤いコートを照らしている。髪色は光の加減でよくわからなかったが、色素が薄いのはわかった。
「ヤケ酒するなら場所は選んだ方がいい」
 これはヤケ酒なんだろうか。違うよと否定したかったが、それが言葉になることはなかった。ぼんやりと見つめ返す私は、さぞ奇妙に見えたことだろう。
「失礼」
 されるがまま、手首が持ち上がる。彼の手は節くれだっていて、あの人とは全然違うなと思い出して少し泣きそうになった。
「術はないか……何があったんだ?」
「…………、」
 何も。大丈夫。少し休憩してるだけ。言葉は出てくるのに、心と同じくらい口が重い。
 せめてこんなことしても時間の無駄だと伝えるために、鉛のような腕で彼を遠ざける。なのに彼は缶を立てて私の隣に座ると、コンビニの袋を漁り始めた。
「私も仕事柄キミのような状態には覚えがあってね。いつ消えるかわからないが、せいぜい息抜きになってくれ」
 コンビニに寄ってから何時間経っただろうか。なんでも良かったので、とりあえずパン生地の薄いたまごサンドと酒を三つ、おつまみにチーズとツナ缶を買った。結局家に帰る前に力尽きてしまったけど。
 彼は「少し借りるぞ」と言うと、たまごサンドの袋を開けた。さすがに驚いた。だがそのまま食べるのかと思いきや、ナイフで綺麗に二等分してフライパンに乗せる。……フライパン?
「初めて反応したな。まあマジックだと思ってくれていい」
 暗い公園に火が灯る。だが彼は気にした様子もなく「バターがあればな……」と呟きながらスプーンでチーズとツナをパンの隙間に詰め、それを焼き始めた。
「……」
「……」
 燃料もないのに、砂利の上で炎がゆらめいている。じくじくとチーズがとろけて、フライパンに流れていった。
「…………失恋、しました。一か月前」
「ほう?」
「……内緒で、二年付き合って」
「……フラれたのか。それで無気力になったと?」
 違う。声にできなくて、大きく首を振った。
「一週間前、彼女ができたって聞いて。小学生の頃から気になってたって……」
「……」
「ロマンチックだねって、みんな言うんです。知らないから……」
 フラれた時は何とも思わなかったのに、周りが「大人になって再会するなんてドラマみたい」と言う度に、私の心は重く爛れていった。
「赤の他人から言わせてもらえば、そんな男別れて正解だと思うが……そういうことではないのか」
 フラれた時はあまりショックを受けなかったのに、どうして今更苦しんでいるのだろう。新しい恋人に嫉妬しているのだろうか。騙されたのが嫌だったのだろうか。もう何が苦しいのかもわからない。
「生憎私も兎角言える立場ではないのでね。こればかりは苦しみながら進むしかあるまい。もちろん時には休息も必要だろうがな」
 苦しみながら進むしかない。厳しい言葉だけど、すとんと胸に入って来た。今は苦しくて辛くても、いつか進み出す。そう思うと、未来に希望が持てる気がした。彼も全てがどうでもよくなるような、苦しい経験をしてきたのだろうか。
 そんなことを考えているうちに調理が完成したらしい。きつね色に焼けたサンドイッチは香ばしい匂いを漂わせ、たまごとツナの隙間を埋めるようにチーズがとろけていた。
「本当は黒胡椒をかけたいところだが、ないものねだりしても仕方ないからな」
 諦めたように笑う様子がこなれていて、この人は多くの物を諦めてきたんだろうなと思った。思っただけ、だった。
 踏み込んだ質問をするのは憚れて、サンドイッチに齧りつく。
「おいしい……」
「それは上々」
「おいしい」
「どうも」
「…………ありがとう」
「こちらこそ、と言っておこうか」
 ただ混ぜて焼いただけなのに、どうしてこんなにおいしいんだろう。火に秘密があるのだろうかと手を伸ばしたが、熱を感じる前に消されてしまった。
「食事は生きるうえで必要なことだ。おいしい食事は人を幸せにする。……気づいた時には遅かったが」
「後悔してる?」
「……どうだかな」
 彼は悲しそうに笑うと、「そろそろか」と立ち上がった。何が何だかさっぱりだが、きっと消えるタイミングとやらが来たのだろう。
「フライパンは?」
「プレゼントだ」
 このまま家に持って帰るのか。サンドイッチを乗せて。……まあいいんだけど。
「少し手間をかけるだけで味も見た目も変わる。案外キミの人生もそうかもしれんぞ」
「……人生のスパイス?」
「そういうことだ」
「慰められてる?」
「励ましている」
 なにそれ、と笑うと、闇に淡い光が差した。月光のような煌めきと共に、彼の体が黄金の粒子となって空に溶け出している。
「こんなに平和な時間は久々だ」
「平和かな……」
「キミは元から反応が薄いんだな」
「夢のせいじゃない?」
「そうだったな」


 別れの挨拶もなく、彼は消えた。周囲にはフライパンとサンドイッチが残っていて、ああ夢じゃなかったのかと思った。
「……ふっ」
 立ち上がり、服をはたいて大きく伸びをする。くらりと目眩がしたが、不快ではなかった。
 いつかまた、無力感に襲われるだろう。でも不安はない。不思議な思い出と優しいレシピがあれば、また立ち上がれる気がするから。