「名前さん!」
「グエッ」
 ロビーを歩いていたら首を絞められた、と思ったら緑川が飛びかかってきただけだった。
「何してるの名前さん、もっと背後に気をつけなきゃ!」
「なんでだよ、敵地のど真ん中じゃあるまいし」
「だって名前さんはトリオン技術を盗むためにイギリスから派遣されたエージェントなんでしょ?」
「私はスパイか!?」
「大丈夫、口封じはしといたよ!」
「怖っ!アンタの方がスパイ向いてるよ!」
 噂には尾ひれがつくと言うが、尾ひれしかない噂は初めてだ。それただのガセじゃん。
「どっから出てきた……いやなぜその話を信じた?」
「む、迅さんが嘘ついたって言うの?」
「まぁた出た、迅さん」
 緑川は訓練生の頃から口を開けば迅さん迅さんと……おかげで顔も知らないのに詳しくなってしまった。曰く、イケメンでカッコよくて優しくて顔が広く、ボーダーでものすごく活躍し、道行く人々にぼんち揚を恵む聖人らしい。
 胡散臭くて会いたくないと逃げていたが、これは一発拳をお見舞いせねばなるまい。私は立ち向かうぞ。
「あ、迅さんだ!」
「何!?」
「待て待て待って、なんで俺初対面の子にボディーブロー入れられるの!?」
「覚悟はいいか。私はできてる」
「その覚悟捨てて!よくわかんないけど俺のサイドエフェクトがそう言ってる!」
「わぁ、珍しく迅さんが慌ててる!」
「喜ぶな駿!」
 拳を引く私。慌てて止めようとする迅さん。それを私の背中から眺める緑川。
「冗談だよ。緑川が尊敬してる人を殴るわけないでしょ」
「でもさっきまで構えてたじゃん」
「ボディーブローと見せかけてスライディングの未来もあった」
「名前さんは相手が誰だろうと遠慮しないからね」
「容赦の間違いだろ?」
「前・言・撤・回!」
 しかし突き出した拳は破裂音を立てて受け止められてしまった。
「やっぱ容赦ねぇ!」
「チッ、トリオン体だったか」
「潮に振り回される苦労人だと思ってたけど妹もヤバいな……」
「潮の知り合い?被害受けてるでしょ。ちゃんと懲らしめてね」
「被害に遭ってるの前提なんだ……」
 潮のフリーダムな行動は誰にも止められない。昔から潮が迷惑をかけると双子だからと私が後始末させられていたことを思えば、この程度の仕打ちは軽いものだ。ただでさえ奴は人に好かれやすいから許されることが多く、さらにつけ上がるという悪循環が起きやすいのだから。
「あいつ迅さんも困らせてるの?!粛清しなきゃ!」
「そうだね、降りて行け」
「じゃあ双子パワーで居場所探して」
「却下」
「今日は会えないって俺のサイドエフェクトが言ってるよ」
「ちぇー」
「迅さんのサイドエフェクトは何者なんだ……あと緑川は降りろ」
「却下」
「よぉしブースに放り込んでやる」
「やった!ポイント削り取るね!」
「ほざけ、削り返してやんよ」
「じゃあ俺はこの辺で──」
「危ない忘れるとこだった。噂の元凶殺さなきゃ!」
「殺気が半端ない」
「逃げ道がない……」


 緑川とは入隊式からの仲だ。といっても最初から打ち解けていたわけではない。
 対近界民訓練が上手くいかなかったらしく敵対的な緑川に対戦を申し込まれ、寛大な心で年下の言うことを叶えてあげようじゃないかと思い一戦したところ急に態度が軟化したのだ。年上の威厳が効いたのかもしれない。
 そんな少年を空いてるブースに投げ入れ、自分も入る。
「ステージはそっちが選んでいいよ」
「どうしよっかな〜……だあぁぁぁ!!」
「何!?すっごいやな予感するんだけど?!」
「ごめ、み、見てのお楽しみ」
「半笑いなんだけど!?ねぇ!?」


 ──帰りたい。猛烈に帰りたい。
 だが迅は立ち去りたい気持ちを抑えてモニターを眺めた。
 片方は自分を慕う期待の新人で、もう片方は自分と同年代の期待の新人である。当然注目度も高く、ブースの外には野次馬がちらほら集まっていた。そして彼らは足を止め、「なんだこの試合は」と戸惑う。
 残念ながらその理由は、試合内容が参考になるから──ではなく、単に二人が戦っていないからだ。正確には戦っているのだが、彼らがしているのは丸めた雪玉を投擲して相手の体に当てるという仁義なき戦い──要は雪合戦である。
「お、迅さんじゃん」
「模擬戦ブースにいるなんて珍しいっすね」
 迅に話しかけたのは、模擬戦の常連である米屋と出水だった。二人はランク戦に参加できない迅がいることに首を傾げたが、彼が死んだ目で眺めていたモニターを見て納得した。
 最近知り合った緑川は、かつて迅に助けられて以来迅を尊敬している。きっとB級に上がった自分の試合を見てもらおうと迅を呼んだのだろう。モニターに映る緑川がどこからどう見ても雪合戦をしているのは気になるが。それも至極真面目に。
「……なんで雪合戦?」
「……聞きたい?」
 出水が尋ねると、迅はどんよりした空気を増幅させながら最終確認をとった。
 出水と米屋は顔を見合わせ、こくりと頷く。
「最初は真面目に……今も真面目なんだろうけど、一応トリガー使ってたんだよ。球体に分割したアステロイドを雪玉に混ぜるっていう突飛な攻撃で名前ちゃんが一本取って、二本目は大量の雪だるまの中に速度0のアステロイドを置いて地雷原にして、今三本目で駿が中距離攻撃として雪玉を投げるようになったところ」
 普段ツッコミに回る出水だが、今回ばかりはスルーを決め込んだ。あえて突っ込まないこともツッコミスキルの一つであると信じて。
「なぁ出水、トリオンキューブって球体に分けられんの?」
「やったことねぇよ」
「やべぇなあの人。何者なんすか?」
「トリオン技術を盗むためにイギリスから派遣されたエージェント」
「「は?」」
「って双子の兄は言ってる」
「そいつ絶対映画観たな……」
「なんか面白そーじゃん!次俺と戦ってくんねーかな」
「多分俺が先だよ。殺害予告されたし」
 出水と米屋は耳を疑った。相手が迅だったこともあるが、彼女が殺害予告をするような人物に見えなかったからである。
 ボーダーに過激な発言をする人はいるが、そういう人はどことなく見た目にも荒々しさが出るものだ。しかし緑川と雪合戦を繰り広げている人物は──と視線を戻して考えを改めた。
 謎のエージェントは雪玉の集中砲火を浴びて白くなった緑川を見て笑っていた。その表情はまるで女王様──いや、魔王である。邪悪な笑い声が聞こえてきそうだった。
「またセクハラでもしたんすか?」
「してないのにボディーブローされそうになったって言ったら信じる?」
「また変なのが入ったな……」
「弾バカが言えるかよ。双子ってことは同じようなのがもう一人いるんだろ?」
「妹をエージェント呼ばわりする兄な」
「ここで一時間も待ちぼうけされる俺の気持ちがわかるか……?」
「白熱してんなー」
「ご愁傷様です」
「お前らノーマルトリガーで微塵切りにしてもいいんだぞ?」
「「二対一なら喜んで」」
 雪合戦は謎のエージェント(仮)の細分化させたバイパーを雪と一緒に振らせるという遊び心溢れる技で決着がついた。
 トリオン体の表皮をギリギリ削れる程度の威力に設定されたバイパーは緑川の集中力をも削り、そこに本命のアステロイドが見事に決まったのだ。
 通常「その程度の威力ならシールドで防げるのでは」と思うだろうが、相手はスピードを武器とする緑川。簡単に言うと、無風で小雨が降っているとき傘を差して立ち止まっているなら濡れないが、傘を差しながら自転車で爆走すると結構濡れてしまうと同じ理屈である。
 那須がいたら粉雪と命名しただろうが、生憎防衛任務でいなかった。


「あ〜楽しかった!」
 せっかく緑川という実験台を得たので経験を元に試してみたのだが、結構上手くいったんじゃないだろうか。
 積もった雪で足を取られるのは欠点だが、射手なら動く距離は少ない。それに対して攻撃手は動き、私に近づかなければ攻撃できない。特に素早さを武器とする緑川にとって最悪な天候だったろう。いやぁ手が滑って良かった。
「もう一回!もう一回やろう!今度は雪ナシ!」
「却下で〜す」
「却下を却下する!」
「私には使命があるのだ。ね、迅さん?」
「言い忘れてたけど、俺S級だからランク戦できないんだよ」
「知るか!規則は破るためにあるんだよ!」
「守るためだよ!?」
「規則に縛られた人生を歩んで楽しいのか?お前はそれで満足か?」
「良い言葉だけど絶対使う場面違う!」
「いずみん先輩、よねやん先輩、このぶっ飛んでるのが名前さん」
「三輪隊の米屋陽介です!こいつは弾バカの出水!」
「太刀川隊の出水公平です」
「よろしくー。最近B級になった名前さんだよ。弟がいるから名前って呼んで」
「あ、もしかして緑川と同期の?じゃあ名前さんが二人目の期待の新人?」
「やっぱどこか誘われてるんですか?」
「誘われる?ははーん、夜の営みか?」
「ちげーよ!!ヤバイ、この人から太刀川さんと同じ空気を感じる!」
「名前さんも俺が草壁隊に入ったみたいに誘われてるんじゃないの?」
「あー、あれか」
 そういえば、何人か部隊に入らないかと言ってきたな。
「全部断った」
「なんで断っちゃったの?!本性がバレる前に入るべきだよ!」
「本性ってなによ……まあほら、潮がまだ訓練生でしょ?部隊に入ると見張ってられないし」
「それならみんなで交代して見張ればいいじゃん」
「そこまで面倒見させるのはね……それにあいつも年齢だけは子供じゃないからさ。身内の面倒は自分で見るつもりだよ」
「そっかー……名前さんとランク戦で戦えると思ったのになぁ」
「駿、それなら秋に叶うぞ。俺のサイドエフェクトがそう言ってる」
「ホント?!秋が楽しみだなぁ」
 秋までか……協調性皆無な人間が入って大丈夫かその隊。崩壊待ったなしだろう。
「草壁隊と当たるなら三輪隊とも当たるよな?」
「太刀川隊もワンチャン……でも草壁隊以外に入るなら共闘の可能性もあるな」
「そういえば名前さん、なんで射手スタイルだったの?C級のときは銃手だったよね?」
「せっかくだし慣れてないのも試そうと思ってさ。そうだ、アンタらなに使ってんの?」
「トリオン少ねぇし攻撃手一択っすね」
「俺は射手です。トリオン多いし自分に合うんで」
「あ、ねぇ名前さん、万能手は?相手に合わせてトリガー変えられるよ」
「万能手ねぇ……いちいち変えるのが面倒なんだよなぁ」
「ワガママかよ」
「トリオンに沈めるぞ弾バカ君。まあ参考にさせてもらうよ。今日は訓練室に行かなくて正解だったな」
「名前さんっておっかない人だと思ってたけど案外いい人っすね!」
「よく聞け槍バカ、いい人は殺人予告しない」
「じゃあ俺はそろそろ行くよ。実力派エリートは忙しいからさ」
「もう帰っちゃうのぉ?」
 ふらりと帰ろうとする迅さんの襟を掴む。会話で流されたと思うなよ。
「やっぱ離脱できないかぁー……」
「もういいよ、粛清は今度にする。今度スパイだとか妙な噂を言いふらしたら本気で規則破るけど」
「え」
 怒りを本人に発散できないのは悔しいが、雪合戦観戦という精神攻撃ができたので良しとしよう、と思ったのだが──
「あれ言ってたの君の片割れなんだけど……」
「────っあんの馬鹿!」
 あとから聞いたことだが、走り去る私を見て緑川が「出た、双子パワー」と笑っていたらしい。無邪気か。