終局ネタバレあり


 彼は良き施政者であり、すべての民に優しい人だ。けれど優しいからといって、望んできた女性すべてと閨を共にするほど無節操でもない。
 他の婚約者と顔を合わせたことはないが、侍女の話を聞くに、婚約者は美貌より政治的な意味合いで選ばれているようだった。一番大きな影響があったのは西の大国の娘との婚約だ。同時に和平条約が結ばれ、この国の貿易はより活発になったらしい。
 確信を持って言えないのは、実物を見ていないからだ。貿易の変動なんて実際に町を歩けば分かることなのだが、私は彼の許しがない限り部屋から出ることができない。最近は出入りも制限されているようで、侍女とソロモン王の他にこの部屋を訪れる者はいない。
 仕方のないことだ。他の婚約者はそれぞれ出身や階級を献上して国の役に立っているのに、私には何もない。
 王が訪れる度に唯一対抗できる見識や知識を語っているが、旅の話などもう尽きてしまったし、初めから知識量も彼には及ばなかった。いつも気づけば聞き役になってしまっていて、彼がいなくなってから捨てられるかもしれない恐怖で身を震わせるのだ。
「……私に誇れるものはあるのかしら」
「?なんと仰いましたか、名前様」
 侍女のゲルテラが掃除の手を止めた。
「いえ、王に嫁ぐとはいえ旅人の侍女に立候補するなんて貴方は変わり者よね」
「……懐かしいことを仰るのですね。ではこう返しましょう」
 ゲルテラはわざとらしく咳払いをすると、はんっと人が変わったように鼻で笑った。
「『王家に媚びたいんじゃねぇ。アンタの力になりたいんだ』」
「惜しい。アンタじゃなくてテメーよ」
「……ご容赦ください。名前様の記憶力には勝てません」
 丁寧な言葉を使いながらも、拗ねたように掃除に戻るゲルテラ。長旅を共にしてきた大切な友人だ。それは侍女になった今でも変わらない。
 故郷を離れて多くの人と出会い、いつしか表情や仕草から過去が分かるようになり……私は驕っていたのだろう。だから真意の読めない彼の笑顔を見たとき、どんな感情なのか知りたいと思った。
 そうだ、最初は知識欲だったはずなのだ。けれど、いつの間にか想うようになっていた。平等な彼のことだから、確かめるように重ねられる手も、優しくて甘い触れ合いも、私だけのものではないのだろう。それでも愚かなことに、側に置いてほしいと願ってしまう。
 だがもう私にできることはない。彼を窮屈な人生から救うのは私ではないのだ。これ以上粘っても結果は同じだろう。それに何の役にも立たない厄介者がどうなるかなど分かり切っている。今はまだ愛されていても、切り捨てられる時は確かに迫っている。
 ……いや、結局のところ、私は怖いのだ。私以外の誰かに救われるあの人を、見たくないだけだ。
「──ねぇゲルテラ、」
 ならせめて、失恋する前に。


 執務を終えたソロモンは早足で廊下を歩いていた。普段は自室に向かうのだが、この日は最後の訪問者である商人の「今宵は星がよく見えます」という話を聞いて名前にも伝えようと思ったのだ。ソロモンにとって名前と過ごす夜は窮屈な人生の数少ない幸せだった。
 話題がなければ会えないという訳ではないが、理由なく──会いたいという動機はあるが──頻繁に訪れると嫌われるのではという臆病風に吹かれて会う回数を減らしているのである。
 二人の心情を知る者がいたら「そんな心配するだけ無駄さ」と言っていただろうが、生憎名前は多くを語らない性格であり、ソロモン王の内面を知っていたものの、他の婚約者にも同じ気持ちなのだと信じて疑わなかった。

 ソロモンは名前を娶った時、己の千里眼で未来を視た。それは一瞬のことだったが、しっかりと目に焼き付くほど衝撃的なものだった。
 名前が遠い村で幸せそうに、知らない男と暮らしていたのだ。
 無感情であるはずのソロモンは激しい動揺と焦燥に駆られた。まだそういう仲だと決まった訳じゃない。だがその風景は城どころか国から離れたものであり、自分の元から去っていることは確実だった。
 博識で聡明な彼女には魅了が効かない。財宝や男は望んでいないことは明らかだ。どうすれば飽きられずにいられるだろうか。
 その時、天啓のようにソロモンは閃いた。彼女は知識を求めている。ならば自分がいくらでも与えよう。そうすればずっと側にいてくれるはずだ。
 しかし嫌われる未来を恐れたソロモンは、高い見識と知識の保護を理由に名前を城の一角に閉じ込めた。今は仕方ない、いつか自由にするのだからと自分に言い聞かせながら。
 しかしそれだけでは満足できなかった。名前が楽しそうに外の話をする度に、ソロモンの胸は手放したくないという執着心とそれを自制できない罪悪感でざわついた。
 遂には男と名前が出会う機会すら与えないよう人を遠ざけるまでになって、ようやくソロモンは安堵できた。
 名前の部屋に近づく度に、喧騒が遠くなる。
 そんな生活が何年も続いていた。

「名前、話をしよう。今夜は星が綺麗だよ」
 しかし返事はない。
 僅かな人の気配もなく、扉は結界魔術で塞がれている。
「……、」
 造作もなく結界を破って部屋に入ると、そこには誰も──名前の侍女もいなかった。
 主を失った部屋は耳鳴りがするほど閑散としていて、テーブルの上には去ったことを裏付けるかのようにソロモンからの贈り物が残されていた。



「それで、結局なぜ名前は消えたんだい?」
 工房の机に腰かけながら訪ねると、ロマニは机に突っ伏したまま「なんでかなぁ」と言った。なんというか、情けない声だった。
「知らないうちにその男に会っていたのか、ボクを嫌いになったのか……やっぱり外に連れ出した方が良かったのかなぁ……でも逃げ道を作る訳にはいかなかったし……」
 ソロモン最愛の妻、名前。七百人の婚約者のうち、ただ一人同じ城に住むことを許された女性。
 よほど大切にしていたのだろう。こうして未練がましく愚痴をこぼしているのが何よりの証拠だ。伝承ではソロモンとの知恵比べに勝ち国を去ったとされているが、実際は知恵比べどころか対話すらなかったらしい。つまりあの逸話はでっち上げ……いや、知恵者のソロモン王から完全に消えてみせたのだから賢いのは事実だったのだろう。
「知恵比べのくだりはキミが考えたのかい?」
「どうだったかな……正直あまり覚えてないんだ。でも多分、そうでもしないとやってられなかった」
 差し出したコーヒーを両手で持ち、懺悔するように水面を見下ろすロマニ。そこに涙はなく、ただ虚無が浮かんでいた。少なくとも私にはそう見える。だが名前なら虚無以外の感情がわかるのだろう。私は万物の天才だが、彼女はきっと人を見る天才だ。神の機構であり感情を許されなかったソロモンの本性を読み取ってみせるなど、並の所業ではない。
「会って真相を聞いたらどうだい?『ボクを見捨ててその男と幸せになったんだね』って」
「聞くって、まさか召喚させるつもりかい!?」
 ロマニは信じられないと言いたげに顔を上げた。
「キミの縁があれば可能性は十分あると思うよ?ま、既に召喚されてるかもしれないけどね」
 これまでの聖杯探索で聖杯がサーヴァントを召喚することはわかっている。残る特異点で召喚されていてカルデアと協力することも、敵として立ち塞がってくることもあり得るのだ。
「でも妻ってだけで座に迎えられるかなぁ……」
「ないとは言い切れないさ。何せ人類史の認識は『神に認められた知恵者を負かした唯一の人間』だ。もし人理焼却がソロモンの仕業なら、カウンターとして召喚されていてもおかしくない。というか高確率で召喚されるだろう」
 逸話がないため戦闘力は期待できないが、強力な対ソロモン宝具やスキルを所有していることだろう。だからこそロンドンで召喚されなかったのは「あの人物がソロモンを騙った別人だから」と考えられるのだが……推測を語るのはやめておこう。
「ダメだ、見つけた瞬間ボクは自決するぞ……」
「もうキミはロマニ・アーキマンだ。秘密にするも良し、こっそり明かすも良し。好きに決めればいい」
「言えるもんか、また逃げられるに決まってる……言った瞬間座に還られてもボクは驚かないぞ……!」
 陰鬱なオーラを放ちながら力説するロマニに、やれやれとため息をつく。やっと手に入れた自由を捨てて地獄に生きる彼を見たら、名前は何と言うのだろう。
「まあ悩むだけ悩めばいいさ。これはキミ達の問題だからね」
「レオナルド……」
 一度話せれば思うが、このまま会わずにいるのも一つの幸せなのかもしれない。ロマニはチキンなところがあるが、彼女を世界規模の殺し合いに巻き込むくらいなら間違いなく己の苦痛を選ぶだろう。


「ダ・ヴィンチちゃんダ・ヴィンチちゃん!新しいサーヴァントが来てくれた!」
 勢いよく工房に入って来たのは立香ちゃんだった。さっそくカルデアを案内していたのだろう。後ろには嫋やかな女性がいた。
「あ……あ……」
 その人を見て震える口に指先を当てるロマニ。それだけで真名を知るには十分だった。噂をすれば影と言うが、こんなにも早くフラグが回収されるとはちょっと予想外である。
「どうしたのドクター。カオナシみたいになってるよ」
 ここは一つ背中を押してやろう。少々荒療治だが、悪いようにはならない気がすると天才の勘が言っている。
「おおっと急用を思い出してしまった!となると──彼女の霊基測定はロマンに任せよう!」
「はぁ!?」
「さあさあ、邪魔者は退散しようじゃないか!」
「ちょ、ダ・ヴィンチちゃん!?まだ案内が──」
 椅子が倒れる勢いで立ち上がったロマニを残し、立香ちゃんを連れて工房を出て行く。もしかしたらロマニが使い物にならなくなるかもしれないが、それはそれで良い人生経験になるだろう。生前はフラれたこともなかっただろうし。
「あっ、名前!続きは明日でいい!?」
 扉を閉める寸前、立香ちゃんが尋ねる。すると名前は、優しい声で言った。
「そうね。積もる話もありそうだし」
 ロマニに向ける視線はやわらかく、慈愛に満ちたものだった。

 なんだ、心配は要らないみたいだ。