「好きになれそうにないわ」
すっかり忘れていた声は、最初の二文字で止まってくれなかった。二人きりになった工房で、とりあえず名前にコーヒーを出して、自分の分を淹れ直していた最中のことである。
絶句どころではない。ボクの脳はパソコンのように処理落ちした。端的に言うと、記憶喪失になりかけた。よくトラックに撥ねられて記憶喪失に──なんて展開があるけれど、物理的な衝撃とは限らないようだ。幸い忘れたのは「コーヒーに砂糖を入れたかどうか」という些細な内容だったが、ついさっきのことが全く分からないというのは、奇妙で恐ろしくもあった。まるで記憶を一部分カットして、その前後を編集で無理矢理つなぎ合わせたような違和感。ど忘れした時とは違う感覚が、思い出そうとする度に湧き上がってくる。スティックシュガーを入れようと固く決めていたのは確かなのに、実行したかは曖昧で、入れたような気もするし、入れてないような気もする。
とりあえず砂糖を入れたか分からないままコーヒーを持って、名前の正面に座る。空のスティックシュガーや濡れたマドラーなど、ゴミ箱を検めれば証拠が見つかるかもしれないが、ボクにゴミを漁る度胸はなかった。そんなことをしたら、名前になんて思われるか──いや、どう思っているかはさっき、好きになれないと言われたのだが……。それに、理由を聞かれたとして、このメンタルではとてもじゃないが「コーヒーに砂糖を入れたか忘れたからゴミを漁ってた」なんて言えそうにない。
何より、ボクの一分にも満たない記憶より、名前との時間の方が何倍も大切だった。たとえ暗い話だとしても、この価値観は変わらない。
「……ごめんなさい」
「ぁ──」
謝らなくていい。そう言おうとしたが、声が喉に張り付いたように言葉が出なかった。名前は両手でマグカップを持ちながら、まるで毒でも飲み込んだように顔を強張らせている。
ボクと話すのがそんなに嫌なのか……名前にしたことを考えれば当然の反応だし、何度も想像した反応だったが、現実はどんな想像よりもきつかった。
「でも、私がもう少し大人だったら……」
「いや、いいよ、そんな仮定の話……」
歳を取ったって、キミはいなくなったじゃないか。そんな恨み言が出てきそうで、さっさと話を切り上げた。
それきりまた沈黙が続いて、コーヒーの湯気だけが時間の経過をユラユラと示していた。
「体は大丈夫なの?」
やがて、名前はそう尋ねた。
好きじゃなくても心配はしてくれるのか……。鼻の奥がツンとしたが、僅かでも悟られないよう、ゆっくり息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
英霊は第二の人生だと言ったのは誰だっただろう。ボクがそうだったように、新しい場所で、新しい人間関係を築く機会は名前にだってあるのだ。現界した先で、生前以上の相手と出会う例だってある。
今のボクは何もできないけれど、悪いことばかりじゃない。気に入った鳥を入れる鳥籠も、誰にも文句を言わせない権力も、ロマニ・アーキマンは持ち合わせていないのだから。あの日から散々自分の無力さを呪ってきたけれど、この点に関してだけは感謝してもいいかもしれない。
そんなことを考えていたら、結構な時間が経っていたらしい。思考の海に沈んでいたのを無言の回答だと受け取ったらしく、名前はマグカップに鼻を近づけて言った。
「本当に害はないの……?良薬は口に苦しとは言うけれど、これ、焦げてるみたいだわ」
「……ん?」
「私は苦手だけど、この香りを好む人もいるよね……不思議だわ」
「えっと、何が?」
「?」
きょとんとしてから、名前は言った。
「何がって……コーヒーが」
他に何かあるの、という顔だった。いつからコーヒーの話になったんだ?
「じゃあ、好きになれないっていうのは、コーヒーのことかい?」
わざわざ聞かずとも誤解は解けていたが、こればかりは確認せずにはいられなかった。名前はボクの反応の方が予想外だったようで、「何のことだと思ったの……?」と困惑気味に言った。
「…………」
そうだ、名前はそういう性格だった。記憶力はいいのに、思い込みが激しいというか、抜けているところがあるのだ。これが演技だったらボクはもう誰も信じられなくなる。
何が想像よりきつい、だ。勝手な想像で傷ついてる場合じゃなかった。逃げた夫と再会してまず言うことがコーヒーの評価かもしれないと、予想しておくべきだったのだ。
予想できるか!
レオナルドにも無理に決まって──いや、そういえばあの天才、楽しそうに出てったな……。
しかしボクも、あまりとやかく言える立場ではない。すっかり自分のことだと思い込んでいたし、何も考えず──何も考えられず、慌ててインスタントコーヒーを用意してしまった時点でこうなるのは必然だったのだろう。そういえば生前も、味の濃いものや酒類は避けていたじゃないか。そんな味覚の人がコーヒーを、しかもブラックで飲むとなれば──。
そこで、ふと思い出した。甘くしなければと砂糖を入れたのは、名前のコーヒーを作っていた時だ。名前が関わる記憶で、一番最近のことだったから、記憶喪失の巻き添えを食らったのだろう。砂糖の有無なんて下らない理由だと思っていたけれど、評価を覆さなくてはならないようだ。
とにかく、嫌われたのがコーヒーで良かった。いや良くはないか。
「食堂にジュースがあったはずだ。すぐ取って来るよ」
「ううん。せっかく淹れてくれたんだもの、最後まで飲むわ」
「そんなことしたらカビが生えるじゃないか」
「もう、何日かかると思ってるの?」
名前は呆れたように言った。
「三日以内には飲み干すわよ」
「…………」
本当に三日かけて飲みそうで怖い。コーヒーを飲むと宣言しただけで人質を取られたような気持ちになるのは始めてだ。呆れを通り越して恐ろしいまである。
カルデアの環境ならカビは生えにくいかもしれないが、七十二時間もあれば菌は繁殖する。一度口をつけたものならなおさらだ。そうまでして飲み切ったところで喜べないし、免疫力次第では体を壊すだろう。そうなったらボクの方から「体は大丈夫なのか」と尋ねなくてはいけなくなってしまう。
「とりあえず、砂糖とミルクで甘くしようか」
スティックシュガー二本とミルク一カップ、そしてマドラーを差し出す。名前は普通に受け取って、研究員のような手つきで投入すると、当然のようにそのまま飲んだ。
「待って待って、これでかき混ぜないと」
「ああ、撹拌する道具だったのね、これ」
「え。何のために渡したと思ったんだい?」
「スプーンみたいに掬って飲むのかと……」
「違うよ!?」
確かにスプーンを細くしたみたいな形状だけど!
「違う予感はしてたのよ?だから味を変える魔術道具かなって思ってたんだけど、使い方が分からなくて」
「現代の量産品は基本的に魔力とは無縁だからね……あ、そのくらいでいいんじゃないかな」
コーヒーの黒がミルクの白と混ざって、すっかり色褪せている。これなら少しは飲みやすくなっただろう。役目を果たしたマドラーも、心なし満足そうだ。
しかし名前はすぐには手をつけず、僅かに眉根を寄せて口を閉ざした。何か気になることでもあったのだろうか?気安く話しかけられて不愉快になった、とかじゃなければいいのだが。
「……変わらないのね」
名前は小さな声で言った。
懐かしんでいるのではなく、悲しんでいるようなニュアンスだった。
「あの頃も、貴方はいろんなことを教えてくれたわ。私の知らないことを、たくさん。……楽しかった」
「…………」
ボクも楽しかったよ、夜明けまで語り合った日もあったね、キミの寝顔はレアだった──いろんな言葉が浮かんでは消え、結局は「ならどうして去ったのか」に行き着いてしまう。
聞けば答えが返ってくるだろう。だがそれを知って、ボクは悲しまずにいられるだろうか。悲しむくらいならいっそ、知らずにいた方がいいんじゃないのか?
そんな葛藤の決着を待たずして、あの日の真相が明かされる。
「私が貴方の元からいなくなったのは」
名前は強引に感情を押さえつけた声で言う。
「何も返せない自分が嫌になったの」
「……!」
予想外の矛先だった。勝手に娶ったボクのことが嫌いで、話がつまらなくて、逃げ出したんじゃなかったのか?何も返せなくて辛いと、そんな風に思っていたなんて、知らなかった。考えたこともなかった。
「私は物覚えがいいってだけで、他の婚約者みたいに後ろ盾があるわけでも、とびきり美しいわけでもなかったわ。だから知識だけは誰にも負けたくなかったの。唯一の取り柄だったし、私が力になれることは、これくらいしかなかったから……」
誰かさんには敵わなかったけどね。
ふ、と表情をやわらげる。冗談めかして、気を遣わせまいとしているのが手に取るように分かった。きっとボクが知れば自責の念に駆られると思ったのだろう。日々語っていた知識が、裏で名前を追い詰めていたと知ったら、落ち込むと思って。
その通りだ。
「私がソロモン王との知恵比べに勝った──なんて、どうしてそんな伝承になったのかしら。私が知ってることは貴方も知ってることだもの、比べるまでもないわ」
そう言って、名前はようやくコーヒーを飲んだ。ゆるりと弧を描いていた唇が、今度は逆向きになる。胸の奥はぐじぐじと痛むのに、まだ苦かったんだろうなと思うと、勝手に頬が緩んだ。
「もう少し足すかい?」
「お願いしてもいいかしら。何を入れても甘くなる気がしないけど……」
「じゃあスティックシュガーだけにしようか。薄めたいけど、ミルクじゃ容量が増えるからね」
封を切って、二本分の砂糖を加える。白い粉末がザアザアと沈んでいく様子を、名前は興味深そうに見ていた。
「貴方に世話を焼かれると……なんて言ったらいいのかしら、もどかしい気持ちになるわ」
「え。見苦しいってことかい……?」
「違うわよ。ずっと見ていられるし、もっと見ていたいって思うの」
「珍しいからかな?ほら、ボクはやってもらう側だったからさ」
「……そうね。今の貴方はカルデアの職員だもの、お仕事しなくちゃね」
「うん……うん?」
何か引っかかる言い方だった。
確かに英霊の体調管理という意味では、こうした雑務も医療スタッフの仕事と言えるだろう。だが今の言い方だと、それだけではないような……。
「過去のこと、他の職員にも秘密にしてるの?なんだか掘り返すようで悪いんだけど……マスターは知らないみたいだったから」
「まあ、色々あってね。知ってるのはさっきのサーヴァントくらいだよ」
「あの綺麗な女性ね?とっても美人だったわ……」
力なくドアの方を見る名前。
この反応は……すっかり見慣れていたから忘れていたが、サーヴァントとしてのレオナルドの見た目は世界を魅了する「モナ・リザ」そのものだ。良い意味でも悪い意味でも擦れてない名前が、何も感じないわけがなかった。
だが、まだそうと決まったわけじゃない。早とちりの可能性も──
「あんなに美しい人、初めて見たわ。見惚れちゃいそうだったもの」
「…………」
まずい。一時的に魅了されただけなのか、一目惚れのような状態なのか分からないが、とにかく引き止めなければ。考え直してもらって、それで──どうするんだ?
二人がカルデアにいる限り、一度も会わないというのは不可能に近い。レオナルドが名前を避ければ実現するかもしれないが、アイツにそんなことをする理由はない。むしろ見せつけるように関わるだろう。でもそれは、ボクが我慢すれば丸く収まる話だ。
「いや、でも、天才だけど変人だよ?自分の作品の姿で召喚されるような奴だし……」
「そんなこと言わないで?気が利くし、明るくて聡明な人じゃない。貴方の隣にふさわしい人だと思うわ」
……ん?なんでボクが出てくるんだ?
「あの、待って、もしかして……男女の関係だと思ってる?」
「違うの?」
「盛大な誤解だ!」
まさか綺麗とか見惚れそうとか、全部ボクをフォローする言葉だったのか!?
優しさの殺傷能力が高すぎる。じゃあドアを気にしてたのも「もう一度会いたいわ……」じゃなくて、「せっかくの二人の時間を邪魔してしまったわ……」とか思ってたのか。訂正できて良かった……。
「職場仲間みたいな感じだから、本当に、違うからね?そもそも相手もいないし……」
「そうだったの……」
名前は安心したように肩の力を抜いた。
……何に?
ボクが独り身だと分かったから──だろうか。違うかもしれないのに、名前も同じ気持ちじゃないかと期待してしまいそうだ。
「でも勘の鋭いサーヴァントもいるでしょうし、こうやって話すのも難しそうね……お互い、距離を置いた方がいいんじゃないかしら……」
「他人のフリってことかい?」
「フリでいいの……?疑われないためにも、無関係でいた方がいいと思うんだけど……」
名前は続けて言う。
「それに、現代人と紀元前の人が親しいと悪目立ちするんじゃないかしら」
「でも、ほら、今仲良くなったってことにすれば大丈夫だよ」
妙案を思いつく間もなく、咄嗟にそう返す。
しかし名前の顔は晴れなかった。ボク達の関係を決めるにはもう一つ、大きな問題があったのだ。
「でも私は、ソロモン王の最愛の婚約者として召喚されてるのよ?事実じゃないけど、王じゃない人と親しくしたら貴方の名誉を傷つけるかもしれないわ……」
「……え?」
言いにくそうにしていたから聞き逃すことはなかったが──最愛の婚約者?サーヴァント自身が、どんな風に後世に伝わっているのか知っているケースは多いけれど、名前が自分の伝承を把握していたとは思わなかった。知っていたのなら、一言も言及しないはどうしてだろう。ボクに好意があれば、コーヒーの評価の後に「私のこと好きだったの?」くらい聞いてきてもいいような……。
「あ……」
本気で嘘だと思っている──のか。名声を気遣いながらも「縁を切ろう」と言っているのは、本人に尋ねるまでもなく嘘だと信じているから──
なんてことだ。名前はボクの気持ちを、後世の作り話とか書き損じとか、そういうものだと、本気で信じている。
「やっぱり驚くわよね……私もびっくりしたわ。知恵比べの話もそうだけど、ちょっと盛りすぎよね」
名前は笑い飛ばそうとして失敗したような、ぎこちない笑みを浮かべた。
これからどうするか──ボクはどうしたいのか、やっと答えが見つかった。
「事実だよ」
ボクは自分のことを冷徹だと思っていたけれど、そんなことはなかった。目の前に愛する人がいて、もう一度やり直せるチャンスがあって、手放せるわけがないんだ。
「ボクが名前を心から愛したのも、隣にいてほしいと思ったのも……本当のことなんだ」
名前は電池が切れた機械のように固まった。それだけのことを言ったのだと、時間差で顔に熱が集まる。だが言わずにはいられなかった。
「今も変わってない……って言ったら、困るかな」
「こ──困る、わよ……」
しかし言葉とは裏腹に、名前の顔は赤かった。これはもう、誤解しようがないだろう。
「でも、貴方の新しい人生はどうなるの?せっかく叶ったのに、手放すつもり……?」
名前はずっと、ボクが自由に生きられる方法を考えていたのだろう。口にはしなかったが、カルデアから退去することも選択肢に入っていたかもしれない。
「大丈夫だよ」
だから、ボクは笑顔で言った。そんなことしなくていいんだよと、伝えるために。
「名前と一緒に考えれば、両方手に入るだろう?」