「花屋か」
 ホームズは私を一瞥すると不機嫌そうに眉を寄せた。私から漂う煙草の匂いで、花屋の店主を思い出したのだろう。彼女は会う度に、まるで今生の別れという風に抱き締めてくるから、煙草の匂いが移ってしまうのだ。
「キミがどこで誰を口説こうと咎めるつもりはないが、そのミントを浴びたような刺激臭をつけたまま来るのだけはやめてくれないか?」
「ごめんね、これだけだから」
 花束を軽く振り、まっすぐ花瓶に近づく。先週飾った白い花はすっかり枯れていて、落ちた花弁が茶色く変色していた。持って来た赤い花を挿し、萎れた茎を抜く。ついでに水をあげようと花瓶に手をかけると、ホームズが「待て」と制した。
「水は私がやっておく。キミのやり方だと割れそうだ」
「持ち上がらないって?そんなに非力じゃないよ」
 一年前の私を知っている人は苦手だ。私が思うより私のことを弱いと思っているから、やりづらい。ホームズは困ったような、苦いような顔をしていたが、私も同じような顔をしていただろう。
「コーヒーでもどうかな。夫人は劇場に行ったから、私が淹れることになるが」
「珍しいね。客にコーヒーを淹れてあげるほど退屈してたの?」
「退屈ではないさ。今も歩くドラッグを持て余しているところだ」
「え、まだクスリがあるの?……没収だよ!出さないとワトソン君に言いつけちゃうから」
 花瓶からテーブルに移動し、パーにした手を目の前に突き出す。医師の端くれとして、そして気の知れた知り合いとして、体に害のある物は見逃せない。
 しかしホームズは優雅に私の手を取ると、ふわりと立ち上がった。
「キミには不可能だ。できるなら見てみたいがね。今は枯れた花でも持ち帰るといい」
 そう言って、どこかへ歩き出す。正直何を言っているのかよくわからなかったが、とりあえずゴミを持って帰れと言いたかったのだろうと、そういうことにして枯草の処分に移った。萎びた茎を、赤い花を包んでいた包装紙で包み、ついでに落ちた花びらを拾い集める。
「キミの癖は独特だな」
 顔を上げると、ホームズがグラス片手にこちらを見ていた。その大きなグラスにはなみなみと水が注いである。
「鑑賞用に切り取った花は期限が短い。長く楽しむには絵画でも飾った方が効率的だ。そうだろう?」
「……?」
 はたして比喩なのか、言葉通りの意味なのか。時差のような空白が生まれて、結局、後者の意味で答えた。
「でも絵は変わらないよ。花は咲いて枯れる。だから面白いんだよ」
「破滅こそ美であると?」
「美しくする要素の一つ、かな。不変じゃない物は終わりがあって儚い。だから魅力的に感じるって人もいるよ」
「では何をするでもなくぼうっと空を眺めるのも、キミなりの鑑賞方法だったというわけか」
「見てたの?雲の形を観察してたんだけど……やったことある?楽しいよ」
「子供の遊びだろう」
「そんなこと言う人には空中都市見つけても教えてあげない」
「あると思うのかい?」
「シータが降ってくれば確定」
 ついでに台風に耐える飛行機も。
「では空中都市に向かう時は是非教えてくれ。私も同行しようじゃないか」
「やだなー……」
「おっと、約束はしてくれないのか」
 ホームズは楽しむように薄く笑って、花瓶に水を入れた。
「この花は店主が選んだのかい?」
「どうだろう……レオンと一緒に選んだんじゃない?」
「……ふむ」
 何か気になることがあるのか、ホームズは顎に手を当てて赤い花を見下ろした。
 花屋に行くと、店主のティアナ・リースエは決まって薔薇を──最近は薔薇以外の花を──渡してくる。プレゼントだから払わなくていいと言うが、そういうわけにもいかないのでよく仕事を手伝うのだが……ちゃっかり滞在時間が増えている辺り、うまく利用されている気がしてならない。
 ティアナは賢い女性だ。花屋が繁盛しているのも、その頭脳と愛嬌が大きな理由だろう。最近はよく甥が手伝っているからか、笑顔が2割り増しで輝いている。
「その花がどうしたの?」
「リクニス・カルセドニカ──まさか名前も聞かずに受け取ったのかい?マタイ十字、あるいはエルサレム十字とも呼ばれる花だ。形はエルサレム十字の方が似ているな。主に野花として愛でられる類の花だ」
「ふむふむ」
「先週の白い花はロードデンドロンだろう。こちらも花束にするには不向きで、観賞にも向かないため伐採が進んでいる。ワトソンにもどこで摘んできたのかと訊かれたよ」
「バリエーションが増えたんじゃなくて、野花に変わったってこと?最初の方はずっと薔薇だったのにどうしたんだろう。私には野草の方が似合うって気づいたのかな?」
「…………、矛盾だな」
「何が?」
「いや、なんでもないさ。ひとりごとだ」
 これは教えてくれないやつだ、と思った。名探偵は一度話す必要がないと判断すると、聞かれても頑なに教えない。それに私自身、何だろうと花は花だと考えていたから、掘り下げることはしなかった。
「ところで、今朝の新聞は読んだかな」
「ああ、ティアナに聞いたよ。貴族議員の娘が誘拐されたんだってね。クソ野郎がって怒ってたよ」
 しかも、その女の子が誘拐されるのは今回で三度目らしい。以前は「病弱だってのに可哀想だねぇ……」と同情していたティアナも、今回ばかりは堪忍袋の緒が切れたようだ。
「聞いたって、キミ、まだ新聞を買ってないのかい?契約すべきだと一ヶ月前にも言っただろう」
「だって英語ばっかりだったからー……」
「医師の発言とは思えないな。キミの知識は英字の文献と資料から得たものだろう?それらに比べれば新聞など絵本みたいなものだと思うがね」
「本は時間制限がない読解問題みたいなものでしょ?でも毎日届く絵本はね……溜まっちゃう。興味ないから作業感あるしね」
「どうやらキミには俗世から離れる才能があるようだ。ロンドンと根本的に合わないタイプだな」
「これでもロンドン育ちだよ。それで、誘拐事件だっけ。何か分かったの?」
 尋ねると、これだ、とテーブルの上にあった新聞を渡してきた。
「『天使の歌声、シャーロット嬢の成功秘話』」
「その下だ」

 【ニーダーハウゼン家の少女、三度目の誘拐】
 穏健派の貴族議員ゴードン・ニーダーハウゼン(48)の娘のリオノーラ(11)が家から姿を消した。ゴードン氏の証言によると、彼女は一ヶ月ほど前から、外出後にミントと煙草の匂いをつけて帰宅していたようだ。ロンドン市警は病弱な少女を助けるため、計画的な誘拐の線で捜査を進めている。ニーダーハウゼン商会は近年売り上げが減少傾向にあったが、市民の間ではニーダーハウゼン家を応援しようと、彼が代表を務める精肉店での購買運動が始まっている。

 かなり読み飛ばしたが、大体このようなことが書かれていた。
「これほどの人望を集めるとは、ドイツ系の成り上がり貴族と揶揄されていた頃が懐かしいな」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ!ミントの煙草って……!」
 思わず新聞を持つ手に力が入る。まだ決まったわけではない。強いミントの煙草を吸うヘビースモーカーなんて、ティアナ以外にもいるはずだ。そう言い聞かせても、鉛を飲み込んだように胸が重い。
「その前にいくつか質問させてくれ。キミに誘拐の話をしたのは店主と甥、どちらかな」
「?ティアナだけど……」
「彼女は甥について何か言っていたかい?」
「本当に包装が上手いわねって褒めてたかな。でもいつものことだよ?他には……あ、家に泊めてほしいって言われた。レオンの部屋を改装するからしばらく預かってって」
「それに対するキミの返答は?」
「『病院なら三食屋根付き、駄賃も出させるよ』」
「なるほど」
 最後の質問は絶対要らないでしょ、と詰ったが、ホームズは爽やかに笑うだけだった。この紳士め。


 最有力容疑者の潔白を確認するため、ホームズと私は花屋に来ていた。この町でミントの煙草を吸っている人と言えば、ティアナしか知らない。閉店準備をしていたレオンに尋ねると、彼は帽子の鍔をぐいっと下げ、急いで二階に行った。
 いつもはバケツに並ぶ季節の花が店全体を華やかに彩っているが、シャッターが下ろされた店内は薄暗い。
「ティアナじゃないと思うんだけどなぁ」
「絶対に犯罪をしない人間は存在しないさ。特に彼女はキミが関わると暴走する傾向があるだろう?」
「否定はできないけど……じゃあ思い出せないだけで、私もティアナも、実はゴードンさんの子供と会ってた?」
「リオノーラ。少女の名はリオノーラ・ニーダーハウゼンだ。キミは本当に人の名前を覚えるのが苦手だな。私とワトソンの名前は名乗る前から覚えていたというのに」
「んー……でも患者だったら覚えてるはずだよ。別の病院に通ってたのかな。誘拐されて症状が悪化してないといいけど……」
 言いながら、期待薄だろうと思った。もし犯人が誘拐した子供の衛生面を気遣える人物だったら、最初から誘拐などしないだろう。そもそも情報が少ないから、犯人像について何とも言えないのだが。
「名前!?」
 階段を駆け降りてきたティアナは赤茶の髪から水滴を滴らせながら、私の手を奪うように握った。
「一日に二回会えるなんて初めてじゃないか、私のマリア!さっきの話のことかい?なら上でスコーン食べながらアフターヌーンティーを一緒にしよう?すぐ手作りを焼くよ」
「いや……」
 ティアナの手は冷えていた。間違えてバケツの水を被ったのだろうか。いや、床は濡れていないから、ただシャワーを浴びただけかもしれない。営業終了まで二時間はあるのに閉店準備を進めていたのも、そのせいだろう。
「ティアナ……」
「不安そうな顔してどうしたのさ。またホームズの依頼に巻き込まれたのかい?」
「依頼じゃないんだけど、うん、また出直すね?今日は忙しそうだし」
「アンタの優しさには感謝するよ。残念だけどまた今度、会える日を楽しみにしておくさ」
 ティアナはすんなりと手を離して後ろに組むと、一歩二歩と下がった。今日は食い下がらないのかと拍子抜けしていると、後ろに控えていたホームズが大きく一歩、距離を詰めた。
「いや、待つ必要はない」
 名探偵は告げた。
「リオノーラ・ニーダーハウゼンはここにいる」

 ──ティアナの顔から人懐っこい笑みが消えた。

「いいや、いないね。リオノーラなんて子はいない」
「確かにキミ達からすれば『リオノーラ』はこの世に存在しないのだろう。提案したのはキミだね、ミス・ティアナ。Leonoraからそのまま取ったのは、ドイツ人としての矜持かな?」
「っ……」
「ホームズ、クスリで幻覚が見えてるの?ここには女の子すらいないよ」
「キミこそ思い込みをしているぞ、苗字。キミはリオノーラと会ったことがあるし、何なら今朝も会っている。そうだろう、ミス・ティアナ」
「…………」
 ティアナは価値を見定めるようにホームズを見据えた。
「一ヶ月──どれも一ヶ月前だ。外出した少女から煙草の臭いがし始め、キミの甥が店を手伝うようになり、花のチョイスが薔薇でなくなった。しかも奇妙なことに、苗字に贈った花は店に並んでいない、贈り物としては不適切な品種ばかりだった。しかし植物に詳しい花屋の店主が、よりによって慕う相手に、そこらで摘んだような野花を渡すだろうか」
 まあ相手は何も考えず喜んでいたようだが。ホームズは声音を少し下げて言った。
「実際に花を選んだのはリオノーラだ。病弱という設定のせいで外出を許されなかった少女にとって、ここに並ぶ花も野に咲く花も同等の価値なのだろう。そして苗字、キミの目の前で彼女は花を包んだ」
「目の前って……レオン?」
「服装による先入観を利用したのだろう。ズボンを履いて帽子を目深に被った少年を貴族令嬢と呼ぶのは変人か狂人だからね」
「…………」
 しん、と狭い店内が静まり返る。夕暮れ時の喧騒がシャッター越しに聞こえる中、ぎしりと階段が軋む音がした。
「やあレオン──いや、リオノーラ・ニーダーハウゼン嬢」
「お兄さん達は警察なの?ティアナを捕まえるの?」
 鈴のような声を震わせ、リオノーラが尋ねる。
 するとティアナは額に張りつく髪をかき上げ、嘲笑した。
「はっ。逮捕されるべきはニーダーハウゼン家の方さ。探偵さん、アンタもう気づいてるんだろ?ゴードン・ニーダーハウゼンは金のために自分の子供を閉じ込めたんだ!」
 とんでもない悪党だよ。ティアナは吐き捨てるように言った。
「なるほどね。年端も行かない少年少女は良くも悪くも影響力が大きいものだ。ゴードン氏は聡い商売人だが、その観察眼を間違った方法で使ってしまったのだろう」
「監禁、ってこと……?」
「?えっとね、お父様の言いつけを守らないと地下に閉じ込められるの。暗くて、お腹がぺったんこになっても、ひとりぼっちで寝るのよ。でも今はこわくないわ。わたしにはティアナがいるんだもの!」
「頼むよお二人さん、黙っててくれないかい?私はこの子の居場所になってあげたいんだ。それでも見逃せないってんなら、ロンドンを出る覚悟はできてるよ」
 ティアナの腕にしがみつくリオノーラはとても幼く、幸せそうに見えた。
 私は──




 ワトソンはファイルを置き、大きく伸びをした。一通りパキポキと小気味良い音を響かせると脱力し、大きく息を吐く。
 怒涛の三日間だった。ゴードン氏の逮捕、奥方や使用人の謹慎処分、ニーダーハウゼン商会の解散……様々な出来事が新聞の一面を飾り、職場ではレオンという少女が住み込みで働くことになり、次の日には重傷の女性が搬送され、時間差で苗字を抱えたホームズが駆けつけ、翌日犯人が泡を吹いた状態で発見された。
 苗字に書かせた回想録は、まだ半分もいっていない。ホームズと殺人未遂犯の攻防戦が気になるところだが、一晩では読み終わらないだろう。
「……後にしよう」
 ファイルを閉じ、倒れるようにベッドに入る。ここ最近は寝不足続きだったからか、すぐに睡魔が襲ってきた。