鏡を廻ってさようなら
――こんな夢を見た。
鏡が、幾重にも重なり、連なり、奇妙な迷路を構成している。
見上げてみても、天井まで張り巡らされた鏡の中で、不機嫌そうな顔のゴーシュがこちらを見下ろしているばかりである。
自分の顔に見下ろされるという光景に腹が立ち、舌打ちをしたところで、あちらこちらの鏡に映るゴーシュが、腹立たしげに舌打ちを返すだけだ。
鏡とはそういうものだと分かっているが、分かっていてもどうにも腹が立った。
踵を返せど、苛立った顔のゴーシュが左右の鏡からこちらを睨んでいる。
夥しい数の鏡が、目に付く全ての空間を覆っているのだと、今になってゴーシュは思い知らされた。
足元に頼りなく続く一本の道に、罠へと誘われているような気味の悪さを感じた。
だが、行くしか無かった。
これ以上、数え切れない己の顔に睨まれていると、気が狂ってしまいそうだとすら思えたからだ。
唯一鏡に覆われていない足元だけを注視して、ゴーシュはほんの少し早足で歩を進める。
早く、こんな空間から出てしまいたい。
この道が正しく出口まで続いているか、ゴーシュには全く分からないが、先に続く道への不安は、苛立ちを胸中に飼いながら立ち尽くしているより、余程マシに思える。
忌まわしい現状から己を守る為の防衛本能なのか、五感がやけに研ぎ澄まされているのを、ゴーシュは苦々しく自覚する。
それが見えたのは、五感が研ぎ澄まされていたが故、だったのだろうか。
視界の隅で翻った黒に、ゴーシュは足を止めた。
誰かが、居る。
この鏡だけで築き上げられた奇怪な迷路の中に、ゴーシュと同じく彷徨う誰かが、居る。
「……おい、待て!」
視線を上げると、切羽詰まった表情のゴーシュが、無数に視線を突き刺してくる。
その全てに一瞥もくれず、ゴーシュは時折鏡の奥でひらひら揺れる黒を追いかけた。
よく見慣れた、黒。
一瞬にも満たない僅かな瞬間に見えた模様を、ゴーシュが見間違えるはずが無い。
あれは確かに、黒の暴牛のローブだ。
そう認識した瞬間、ゴーシュが伸ばした指の先で、黒を纏った人影が、振り返ったように見えた。
「――ナマエ!」
ゴーシュの声が、幾重にも反響する。
ナマエもこんな空間に閉じ込められているのなら、助けなければいけない。
こんな酷い世界に独りきりなんて、あまりにも悲しい。
「ナマエ、どこに居る! 教えろ、今そっちに行く!」
四方を探して見回してみても、ナマエの姿はどこにも見えなくなっていた。
見えるのは、己の姿ばかりだ。
「なあ、ナマエ! ここに居るんだろ!」
刹那、視界の最果てを、黒いものが掠めた。
「……ナマエ!」
黒が掠めた方向に向き直り、ゴーシュは勢い良く駆け出した。
ここに居ると言葉も無く示すように、ちらりちらりと黒が鏡を過ぎる。
そうしてようやく、ゴーシュはその背中を見つけることが出来た。
ナマエはゴーシュに背を向けたまま、足を止めずに走り続ける。
訳が分からないのは、ゴーシュの方だ。
どうしてナマエは、ゴーシュから離れるように走っていくのか。
「おいナマエ! 待て!」
黒いローブの裾をはためかせて走るアーテルは、しかし唐突に足を止めた。
あまりに急に立ち止まったものだから、ゴーシュもつられるように立ち止まる。
ゆっくりと振り返ったナマエは、悲しそうに笑っていた。
「おい、ナマエ、」
どうしたとゴーシュが問うより前に、ナマエは道の先を指して、唇を短く動かした。
『じゃあね』
見間違いで無ければ、ナマエは確かに、声も出さずにそう言った。
そして、動けずにいるゴーシュの前で、ナマエは光の粒になって姿を消した。
「……ナマエ」
何が起こったのか分からずに立ち尽くすゴーシュの目の前で、鏡がちかちかと瞬いている。
どうやら、ここが出口らしい。
ずるずると足を引き摺って進むゴーシュは、絵画の如く佇む巨大な鏡を見た。
その中で、ナマエが手を振って、笑っている。
ナマエはゴーシュの代わりに、鏡の世界に旅立ったのだ。
ナマエが笑う鏡の前に音も無くへたりこんで、ゴーシュはそう悟った。
そうだとしても、わざわざゴーシュを助ける必要など、無かったのに。
一人だけしか出られないのだとしても、姿なんて見せずに、ナマエが先に出てしまえば良かったのに。
そうすれば、ゴーシュが全てを悟って、もう届かないと知りながら力無く手を伸ばし、指先に触れる鏡の硬質さに後悔を噛み締めることも無かったのだ。
ナマエを救うことすら叶わなかったゴーシュの手が、鏡の中で何十何百にも映っていた。
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