汝は如何にも美しい
――こんな夢を見た。
ナハトは鏡を覗き込んでいる。
高価であることがひと目で分かるような、洒落た鏡である。
縁をぐるりと囲む金の装飾さえも美しく磨かれて、ナハトの顔を幾重にも反射していた。
鏡には、唇を引き結んだナハトの顔が映っている。
ナハトが身動ぎをすれば、対称に同じ動きを返す虚像である。
鏡の中、ナハトの肩口で影がゆらりと揺らめいて、形になった。
鏡に映ったそれを見てみれば、ナハトと契約を果たした悪魔達が肩口に並んで、鏡を見ろと急き立てている。
今も鏡越しに悪魔を眺めているナハトは、彼らの真意を図りかねて訝しんだが、悪魔達の慌てようは尋常ではない。
おろおろと慌てふためく悪魔達に眉を寄せながらも、水面から深い水底を見下ろすように、アイスブルーの双眸を眇めて、鏡をより深く見る。
鏡の奥、目を凝らしてようやく見えたそこに、ナマエは居た。
魔女も悪魔も我が物顔で闊歩する饗宴の中を、首筋に一本の赤い線を走らせて、ナマエは意志を感じさせない足取りで進んでいく。
その最中、ナマエの首がごろりと落ちて、ナハトは目を見張った。
意思の主が失われたことで、首から下の肉体も、がくりと膝をつき、やがて倒れ込んだ。
「……ナマエ!?」
ナハトが思わず手を伸ばしても、鏡の硬質な表面に触れただけで、鏡の中のナマエには触れられない。
つるりとした冷たい鏡に指を添わせて、ナハトは苛立ち混じりに叫んだ。
「ナマエは、ナマエは今、何処に居るんだ」
悪魔達は顔を見合わせ、何やらこそこそ話し合うと、どうやらひとつの決心がついたらしい。
ギモデロが、悪魔達を代表するように一歩進み出た。
彼がこそりと肩口で告げたその居場所に、ナハトは驚愕の声を漏らした。
「……王都の、極刑の罪人達が収められる牢獄だと?」
ナハトは、己の身体を流れる血が沸騰したかのように思えた。
ぐらぐらと憤怒の熱を帯びる脳髄もそのままに、ナハトは魔導書を手に取った。
ナマエを、助けなければならない。
だって彼女は、正しく生きていたではないか。
正しく他人を思い、正しく人を助け、きっと誰よりも正しく生きていたナマエが処刑されるなんて、そんなおかしい話があってたまるか。
ナハトの足元を、影が包む。
悪魔達が姿を消したことを確認すると、ナハトは奈落の影にその身を投げた。
影から足を踏み出した時、ナハトは夜闇に包まれた牢獄の格子の向こうで、目を丸くするナマエの姿を見た。
「ナハトさん。来てくれたんですね」
月明かりに照らされて、牢獄の独房は白々と明るい。
そんな独房の中、鎖に繋がれて、ナマエは驚く程美しく微笑んでいた。
石造りの床に座り込む彼女からは、脱獄の意思が窺えず、ナハトの方が余程焦っていた程だ。
「ナマエ、行こう。君はこんな所で処刑されるべき人間じゃない」
「この国の裁きで処刑が決まったのなら、きっと私は処刑されるべき人間なんです」
ナマエの微笑みが、ひと匙の苦味を帯びた。
緩やかな微苦笑を浮かべて、ナマエはそれでもナハトから目を逸らさなかったし、ここから脱獄するつもりも無いようだった。
「きっと、きっとナマエを助ける。だから、一緒に来てくれ」
「駄目ですよ。だって、どうせ捕まってしまいます」
なおも食い下がろうとナハトが口を開くよりも、きっとナマエが口を開く方が早かった。
「きっと、ナハトさんだけなら、ここから出られます。……ね、だから、ナハトさんだけでも、行って下さい。私なんて、置いて行って構いませんから」
どうして、ナマエを置いて行けようか。
ナハトはそれでも引かずに、ナマエにここから出ようと繰り返す。
独房を照らす光が熱を帯びたのは、恐らくそんな時だった。
太陽が山々の向こうから顔を出し、独房を朝の光に染め上げていく。
「処刑人が来ます。ナハトさんは、早く行って下さいね。……さよなら。どうか、ナハトさんは生きて下さい」
彼女は、きっとここから出ないだろう。
その事実が分かるから、ナハトは胸が締め付けられるより苦しかった。
処刑の時は刻一刻と迫っているのに、ナハトは重い足取りで独房から立ち去る他に無かった。
あの太陽が高く昇った頃、ナマエは鏡の中に見た幻影のように、首を落とされて死ぬのだろう。
朝の澄み切った静謐な空気を吸い込んで、ナハトは声も涙も出せずに慟哭した。
告げられたさよならの声が、生きろと告げられた呪いが、ナハトの頭蓋に幾重にも反響して、未だに離れてくれなかった。
引用・参考:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト』
BACK TOP