リュセは手を傘にして目映い空を見上げた。
太陽の光と青空の明るさで目が眩む。細めた目の先で、黒い影が空を駆けた。
「逃げた! 逃げたぞ! 早くガロウ!」
幾人もの里人たちが空を指差して怒っている。
(……ひと?)
まさか。という思いで目を凝らす。早くって、あんな空高くいる何かをどうしろと言うのだろう。ガロウとはたしか病人の名前なのに。
里人たちは偉そうに声を荒らげてただ空を見上げるだけで、なにも出来ない。当たり前だ、届くわけがない。
「ジェハがつい空に……!捕まえろ!」
そのとき長い緑髪を雑草のように生い茂らせたの男が地面を蹴った。
目を疑った。
地を離れ高く高く木よりも高く身体が宙へ舞ったのだ。
緑色の髪が空に軌跡を作る。まるで緑色の空翔る龍が青空に現れたように。
(うそ)
男の手が天まで伸びて。
遠くの空へ溶け込もうとしていた人影の脚を、重く絡めとる。
リュセは目を細めて、二つの影が跳ぶ空を見上げた。
里人たちのように、空の緑の影を指差す。
地上から空を見上げるリュセたちは、天に焦がれて手を伸ばしているようだった。
◇
リュセは小さな里の里長の孫娘だ。齢六つは数えたばかりで、三つ下に弟がいる。
里長の孫といえど里長と血の繋がりのある父親は既に亡くなっており、さらに故人の父は次男だった。将来、里長になるのは従兄の予定で、リュセ自身は暦や農業について少しばかり詳しく勉強しているだけの平凡な少女に育った。
偉いわけでも何でもなく、むしろ里の寄り合いの手伝いや、畑の刈り入れ種植え、里の共同の家畜小屋の掃除など行事雑用に率先して駆り出される。
役得といえば、ちょっと贅沢な髪紐を祖父から贈ってもらえるくらいだ。
リュセの里には代々病気を受け継ぐ病人がいる。
病人の住まいは里の中ほどにあり、周りの家から少し離されて建っていた。里人たちは忌々しそうに小屋を避けて通る。リュセも、母親の「あの家には近寄ってはだめだ」という言いつけを守って近寄らないようにしている。度胸試しをしようとする男の子たちを注意することもあった。
病人は二人だ。一人は雑草のように生い茂った緑色の髪の若者で、時どき食料を受け取りに出てくる。名前はガロウ。
もう一人は見たことがない。子供らしいけれど、ずっと家に閉じこもっているらしい。
リュセは気の毒に思う気持ちと里の手伝いをしなくて良いことを羨む気持ちが両方あった。
そうはいってもどちらかを選ぶなら、自由に野山を駆けて遊べる今の立場を選ぶだろう。
いくら病気とはいえ、リュセだったらずっと家の中にいるなんて耐えられない。
天気の良い日は特にそうだ。
風と草と太陽の匂い鼻をくすぐると、ウキウキと心が弾み外を駆け回りたくなる。
家の中に引きこもりきりでは良くなるものも良くならないのではないか、カビが生えそうだ、ほんの少しでも外に出られればいいのにーーそういう目で病人の小屋を見ていた。
そしてなんとなく不思議に思っていることがあった。
伝染る病気はこわいから避けるのも閉じ込めておくのも分かる。畑仕事をするわけでもないから厄介者扱いする気持ちも分かる。
でもーー病人だと言うのならば、なぜもっと里の外れに隔離しないのだろうか?
疑問は思わぬ形で晴れることになる。
◇
「ねえ! あれなに? なんで空を飛んでたの?」
リュセは近くの里人を捕まえて疑問をぶつけた。
「おまえは里長の孫か。たしかまだ6歳だろう? 7歳になったら親が教えてくれるーーって、もうアレが飛んじまったからなあ」
里人は困り顔で頭をかいた。
「お母さんも知っているのね? アレはなんなの」
「……緑龍だよ」
「緑龍……?」
「この里に付き纏う病魔だ。病気の者が二人いるとおまえも里長から言い聞かされているだろう? 彼らの正体だ」
「病気じゃなかったの?」
「もっと質の悪いものだよ」
詳しくはおじいちゃんに聞きな、と追い払われてしまう。もっと話を聞きたかったのに里人はガロウを囲う人々の輪に入ってしまった。
(……今、おじいちゃんはガロウを囲う輪の中心にいるんですけど)
リュセはふてくされて道端の小石を蹴り、大人たちを眺めた。大人たちがガロウを連れて移動を始めると、しぶしぶ諦めて家へ戻った。
『緑龍』は、大人が子どもへ弾き語りをするときに話してくれる建国神話に出てくる存在だ。
緋い龍神が人の姿になって天界から地上に降りてきて、国を治めていく話。
緋龍王を助けるために、青と緑と黄と白の龍が出てくるのだ。
なんで緑龍が?
どういうことなんだろう。
◇
リュセは帰宅して一番に、母親へ「緑龍ってなに?」と尋ねた。
母親は「おじいちゃんに話してもらおうね」と言って畑仕事に戻ってしまったので、リュセは隣の祖父の家に行って、悶々と焦れながら祖父の帰宅を待つ羽目になった。結局、祖父が帰宅したのは夕方になってからだった。
待ちくたびれたリュセは、祖父が座るよりも前に低い声で疑問をぶつけた。
「それで、緑龍ってなに?」
「ああーーおまえも聞いたか」
祖父が疲れた顔でため息をつき、母親を呼んで来なさい、と言う。リュセは窓から隣の自宅に「おかあさーん」と声をかけた。リュセの弟をだっこした母親が祖父の家に入ってきて椅子に座ったのを待ってから、祖父は重々しく口を開いた。
「ここは高華国の建国神話に語られる緑龍によって作られた里だ」
緑龍の、里。リュセは口の中で小さく呟く。
「神話を覚えているか?」
「なんとなく覚えてるよ。緋龍と四龍が出てくる話でしょ」
「……ああ。
緋い龍神は人となり緋龍王として高華国の初代国王になった」
慣れたように祖父が神話を諳んじる。
――人々の心は邪に満ち、神を忘れていき、国は荒れた。緋龍王も権力を欲する人間達に捕らわれ、あわや討ち滅ぼすされようとした。
――そのとき、天界から四体の龍が舞い降り、緋龍王を迎えに来た。だが、緋龍王は『人に憎まれ人に裏切られても、人を愛さずにいられないのだ』と誘いを断った。
――龍達もまた緋龍を愛し失いたくないと願った。青・緑・黄・白の四体の龍は、緋龍を守るために人間の戦士に自らの血を与え、力をもたらした。
龍神の力を得た戦士達は、部族を率い緋龍王を守り国の混乱を鎮めた。
やがて緋き龍は眠りにつき、四龍の戦士は役目を終えた。過ぎたる力を持つ戦士達は部族の元を去り、何処かへ消えていった。
――再び緋龍が地上へ戻るその時のため、四龍の戦士は子孫へその力を受け継いだ。
四龍の子孫は今なお高華国の地を彷徨い、緋き龍が還えるその時を静かに待ち続けている――。
「儂らは、四龍の戦士の子孫であると云われている」
神話。神話。神話って二千年も前の話だ。
自分たちが神話の伝説の戦士の子孫。信じがたい。けれど、リュセの脳裏には昼間見た光景が浮かんだ。ありえない高さを跳んだガロウを里人は「緑龍」と言った。
「ガロウの力は緑龍の力……?」
恐る恐る聞くリュセへ、祖父がゆっくりと頷く。
「ある者は、何をも引き裂く鋭い爪を
ある者は、彼方まで見通す目を
ある者は、天高く跳躍する足を
ある者は、傷つかない頑丈な体を得た。
我々の里に取り憑くのは、天高く跳躍する足を得た緑龍の力だ。
ーー里にはなぜか必ず、緑龍の力を宿した赤子が産まれる。赤子が成長して大人になると、また龍の脚を持つ赤子が産まれる。先に龍の脚を持っていた者は徐々に弱って死ぬんだ。
そうして代替わりをしていき、決して途絶えることがない。
災いを呼ぶ厄介な力だ」
リュセは恐ろしくなって身をぶるりと震わせた。
生身で人間があんなに高く跳べない。よく分からない力が、よく分からない方法で、確実に神話の時代から数千年も里に生まれ続ける。とても不気味な話だった。
(災いを呼ぶ厄介な力ってどういう事だろう……)
「空を飛べる以外に、なにか悪いことがあるの……?」
「空跳ぶ力だけだ。それだけで大いに災いなんだ。なぜ神話の中で四龍の戦士が部族の元を去ったと思う? そもそもなぜ緋龍王が討ち取られかけたと思う? すべては人とは違う力を持っていたからだ」
リュセはすっかり寒気に包まれた。
追い討ちをかけるように祖父が淡々と語る。
「実際に約80年前、緑龍の脚のことが里外に漏れて、力を求めた者たちに里はめちゃくちゃにされた。それ以来、儂らの里は、各地を点々とすることになった」
初めて見るくらい真剣な目で、祖父がリュセの瞳を見つめた。
「儂らは、緋龍王の生まれ変わりが緑龍を迎えに来るまで、緑龍の力を隠してひっそり生きていかなきゃならん。なのに緑龍はすぐに空へ逃げたがるーーだから緑龍は鎖に繋いでおくんだ。
おまえも秘密を守る里の一員だ。自覚を持ち、周りと異なることはしてはいけない。
分かったか?」
頷く以外に何が出来るだろう。
リュセは固くなった体でぎこちなく頷いた。
最後に祖父は微笑み、リュセの頭を優しく撫でた。
「おまえたちは絶対にあいつらに近づくんじゃないぞ。
忘れるな。
龍は災いで、呪いで、病魔なんだ」
◇
リュセはその晩、なかなか寝付けなかった。
なんども毛布の下で寝返りを打つ。
……ガロウたちは病人じゃなかったんだ。
里の外れに隔離しないのは、里から逃げられないようにするため。
ほんの少しでも外に出られないのは、すぐに空を跳びたがるから。
空を、跳ぶ。
龍のように舞う長い緑色の髪を思い出す。
あんなふうに人が空を舞えるなんて。
身一つで天高く跳躍できるなんて。
ーー空。
緑龍のように跳べたら……どんな景色が見えるんだろう。
木の上や屋根の上から見渡す景色が心地良いのは知っている。吹き抜ける風が爽やかなことも。ぷらぷらと宙に投げ出す脚が軽やかなことも。
空を見上げて鳥はいいなあ、なんて思っていた。
人でも跳べるのだ。
緑龍はただ高い場所へ登るだけじゃなく、身体一つで自在に動くことが出来る。
あんなふうに跳べるって、いったいどんな気分?
『龍は災いで、呪いで、病魔なんだ』
リュセは寝返りを打った。
一度も姿を見たことのない子どものことを考える。生まれつき龍の脚を持って、なにも悪いことをしていないのに、身体に悪いところもないのに、ずっと閉じ込められている。リュセが空を見上げて鳥を眺めたり木登りをしたり丘を走ったりしている間、子どもは狭い小屋に鎖でつながれている。
伝染らない病気なら、災いでも呪いでも、もう少し、外に出してあげてもいいんじゃないのかな。
ずっと閉じ込めておくから今日みたいに脱走してしまうんじゃないのかな。
自由自在に空を跳べるのに鎖につながれているのって、どんな気分なんだろう。
きっと辛いんじゃないかな。
ねえ、緑龍。あなた達は−−。