一夜目:丑三つ時
「こんばんは、悪い子」
DADAのふくろう試験を終えた日の深夜だった。シリウスは自分がどこにいるのかを見失った。女がシリウスの上に跨っている。ずっしりと感じる重さが夢ではないことを告げていた。ホグワーツの隠れ部屋で夜遊びをして寝たのだったか? 瞳を眇める。ちがう。女の背景がグリフィンドール男子寮のベッドの天井だとわかり、シリウスは眉間にシワをよせた。
「誰だあんた……」
寝起きの掠れ声で誰何する。
「夢魔だよ」
ぎょっとした。夢魔。彼の優秀な頭にはきっちり教科書の記述が暗記されている。スクブス。睡眠中の男を襲い、誘惑し、精を奪う生物だ。彼はとっさに女の下半身と自分の状態を確認した。スクブスは獲物の理想の女の姿で、下半身は裸で現れるというからだ。良かった、服を着ている。
となると、こいつはなんだ。夢魔を騙る人間だろうか。
「夜這い?」とシリウスはせせら笑う。ずいぶんな女だ。異性からアプローチされることはうんざりするほど経験があるが、寮へ忍び込んでくるほど強引な者はいなかった。周囲に気を配れば、ジェームズたちの寝息やいびきが聴こえる。ルームメイトがそこにいるのだ。こんなところで何をしようって?
「楽しいことさ」
スクブスと名乗る女子生徒が身を屈めてきた。薄闇を裂いて近付いた顔は、黒い薄布で覆われどんな容貌か伺えない。
「どけ」
シリウスは無理やり寝返りを打った。まったく気分が乗らない。そもそも積極的すぎる女は嫌いだ。非常識であれば尚更だ。抱けばとてつもなく面倒臭い展開になるだろう。どんな美女でもお断りだった。
イライラする。悪い夢を見ていた。悪い子、Bad boy. この女、なぜそんなことを。いやどうでもいい。
「さっさと失せろビッチ」
夜風のような笑い声が返ってくる。
「そんなんじゃ夢魔は追い返せないよ」
おいで。
女は夜霧のような囁きでシリウスを誘引した。これっぽっちも心惹かれない。夢魔を名乗るには夢魔に失礼だ。
女がギシリと実態ある重みの音を立てて、後ろを振り返った。シリウスの足元の、中途半端に閉まっていた赤いカーテンを無遠慮に開ける。おい、と声をかけたが、女はシリウスの足元からベッドを降り、勝手知ったる自室のごとく部屋を横断した。向かう先は部屋の扉。なんだ、帰るのか。意味わかんねえ、とシリウスは辟易した。とんでもない変人に目を付けられた。
「シリウス・ブラック」
女が声を張る。
「おいで」
ジェームズたちの寝息といびき。月明かりのない暗闇。夜の静けさ。おかしい、と思った。足音がしなかった。それに誰も起きない。なにかおかしい。
シリウスは半身を起こした。
女が扉に寄り添うようにして待っている。
「……どこへ?」
女は無言で手を差し出すだけだった。黒いローブ、黒いスカート。顔が黒布で隠されているホグワーツ生。脚は……夜に溶け込んで見えない。
シリウスはワシワシと黒髪を混ぜた。
こいつを追い返して、それで、寝れるのか? 気になって眠れないんじゃないか。迷いはわずかな時間だった。布団を引っペがしてサンダルに裸の足を突っ込んだ。
☆
女はシリウスの手を取って談話室へ降りていった。片手にはランタンを提げている。手は真っ黒な手袋をしていた。ローブにはエンブレムがなくネクタイも締めていないため、どこの寮生か判別できない。肌が見えるのは黒い薄布と髪の隙間からのぞく僅かな面積だけだ。髪色は夜のような複雑で深い玄いろ。
正体を隠すための用意が周到だ。だからきっと尋ねても答えないのだろう。
「あんたの名前は?」
「うーん。夢先案内人と呼んで」
「Dream Pilot?」
シリウスは行儀悪く舌打ちをする。スクブスの次は造語。
「偽名にしてもひどい」
「アダ名だよ。きみたちの悪戯仕掛け人みたいな。私個人のことはどうでもいいんだ、気にしないで」
女がゆるくランタンを振った。三日月型の光かふらふら揺れる。気にしないでと言われても無理な話だ。忍びの地図を持ってくれば良かった。あれを見れば、女の正体は一発で判明する。
「顔も見せないで俺と一晩を楽しむ気かよ」
「見せてもいいけど、夢魔は獲物の理想像の姿になるから、私の顔じゃないよ」
「本物の夢魔ならな」
相変わらず女から足音はしないけれども、シリウスはこの不審な女を夢魔だと思えなかった。グリフィンドール、ひいてはホグワーツ中を簡単に左右できる悪戯仕掛け人をからかい、ちょっかいを出すなんて図太いやつだ。
シリウスがこの不審者についてきたのは退屈しのぎだ。日ごろからよく行っていることで、あらゆることに器用にこなす彼は、慢性的な刺激への飢えを感じている。少しだけこころを弾ませて談話室へ足を踏み入れた。
さあ図太い女は、いったいなにを用意して、なにを見せてくるのだろうか。
明るい。キラキラと輝いている。いや、それよりも音がする。騒がしい。うるさいくらいだ。談話室の特等席、暖炉前のソファで我が物顔でくつろぐ一団がいる。
ジェームズ。
リーマス。
ピーター。
だれもシリウスを追い越さなかったのに目の前で親友たちが遊んでいる。一瞬呆気に取られたシリウスは勢いよくうしろを振り返ったが、暗い廊下が続いているだけだ。
あいつら、とシリウスは悟った。この女とつるんでシリウスを驚かせようと悪戯したんだ。
「手酷くエバンスに振られたからって変に手の込んだことをしやがって……!」
寮への階段を一歩踏み出した瞬間に、身体がひどく重たくなった。水中でもがいているようにまどろっこしく、麻痺したように力が入らない。
「一方通行だよ」
夢魔が黒い手でシリウスの手を引いて向きを変えさせ、トンとシリウスの背中を押した。嘘みたいに身体が軽くなった。危なっかしいなあ、というぼやきが遠くから聞こえた。
「パッドフット、なにやってるんだい? ひよこ爆弾が完成しそうなんだけど」
寮のベッドにあぐらをかいた寝間着姿のジェームズが、丸眼鏡の奥でひょいと眉をあげた。
「ひよこ爆弾って」
「エバンスの機嫌を損ねちゃっただろ? たまには可愛い悪戯でもしようって言ったじゃないか」
「頭だけひよこになるようにできたか試さないとね」
珍しくムーニーが乗り気だった。シリウスは自然とプロングスの前に積まれた黄色い毛玉を掴んでいた。ワームテール覚悟はいいか、と言い終わる前に慌てるワームテールへ毛玉を投げつける。すると黄色い粉が舞い、頭だけ大きいひよこになった小柄な少年が現れた。
成功、大成功! プロングスもムーニーも、腹を抱えて笑った。シリウスたちの寮部屋に笑い声が響く。ぴーぴーとワームテールが鳴き、見えているんだか不明の視界で、ひよこ爆弾をムーニーのほうに投げつけた。結局四人とも頭部ひよこ人間に成り果てた。
「さあ実践しに行こう!」
まともな頭のジェームズが、ハシバミ色の瞳をきらめかせて言った。シリウスは勢いよく談話室へ駆け下りて、絵画を踏み倒して外へ飛び出す。談話室でチェスをしていたジェームズまで一緒に着いて来る。明るいホグワーツの廊下をジェームズ達と駆け抜けた。
キラキラと明るく輝く。
軽やかに足が弾み、跳んでいるみたいだ。
生徒をひよこ頭だらけにしていきながら渡り廊下から中庭を見下ろすと、ぎとぎとの油っこい黒髪が見えた。なにか一帯が黒ずんで見えた。空気がくすんで陰っている。
「スニベリーだ」
「あいつに食らわせてやろう」
「ぴーぴー」
ジェームズがニヤリと笑む。ジェームズが意気揚々とひよこ爆弾を握りしめる。ジェームズが鳴き声ではやし立てる。
ジェームズが……?
シリウスは足を止めた。キラキラした時間が終わりを迎えて、身体が石廊下に着地する。
「い、今のは」
「ん?」
シリウスは目を丸くして女を凝視した。女は密やかにシリウスの後ろにいた。今のは、なんだ。
「ジェームズが三人もいた」
「ああ。いたね、よっぽどジェームズ・ポッターが好きなんだね。良い思い出だ。キラキラしてる。弾けるポップコーンみたい」
面白かったよ。女がそよそよと吹く夜風のように笑う。
「なあ、これって……」
「うん」
これって、なにか、その一言がなかなか出てこない。ぼんやりと霞がかかって捕まえようとすると逃げてしまう。目で女に尋ねるが、女は人差し指を薄布のまえに添えてポーズを取った。
「夢魔は答えられないから、自分で気付いてね」
夢魔。そう女は名乗る。夢先案内人と呼べと言う。不思議な空間は、つまり。シリウスは霧を集めるような心地がした。難しい作業のせいですこし頭痛がする。
つまり、
「これって夢?」
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