痕のまつり


 不規則に訪れる安息日、なんの前触れもなく、玄関のチャイムがひび割れた音を奏でた。
 ミギーはというとつい先程、ようやくベッドから抜け出して遅めの朝食をとり始めたばかりだった。口の中のパンのかけらを慌てて飲み込み、とりあえず手櫛で髪を整える。
 訪問者に心当たりはなかった。が、今はなんでもネットで手に入る時代だ。いつぞや衝動買いした何かが、ちょうど熱も冷めた頃合いにやってきたのかもしれない。
 ミギーはやや足音を忍ばせて、リビングとほとんど地続きになった玄関ドアに額を寄せる。モニターなんて便利なものは、この古びたアパートにはついていなかった。
 自然と目を細めて魚眼レンズを覗き込めば、歪んだ視界の先に黒い服の男が立っている。

「……まだ来るんだ」

 ため息と共にドアを開いて、そんな本音をぶつけた。決して歓待している口ぶりでもなかっただろうに、男は少しも意に介した様子がなく、それどころか彼には似合わない普通のことを言った。

「不用心だな、チェーンくらいかけて出ろよ」

 部屋にひとつしかない一人がけのソファーに腰を下ろしたあと、クロロはぐるりと室内を見回して、相変わらずだな、と呟いた。それからテーブルの上に広げっぱなしだった朝食の残りに目を止め、呆れたように肩を竦める。

 ――約束も無しで来たくせに。

 思わず文句が口をついて出そうになるが、そもそもミギーはクロロに訪ねてきてほしいとは思っていない。下手なことを言って、今後訪問の約束が取りつけられるようになっても困る。

「人の部屋をじろじろ眺めないでよ」

 席をとられて仕方なくベッドに腰を下ろしたミギーは、自分の膝をテーブル代わりにして朝食の続きを再開した。今でこそ行儀が悪いと分かっているが、流星街時代には知らなかったことだ。
 クロロはそんなミギーをじっと見つめると、相変わらずだな、と今度ははっきりと言った。

「変わったよ、最後に会ってから一年も経ってるんだから」
「ここに来ると懐かしい気持ちになるんだ。がらくたの山に囲まれているせいか?」

 確かにクロロが揶揄したように、この部屋は多くの物で溢れかえっていた。けれど、決して汚くはないつもりだ。新品の品物が封も解かれずに積み重なっていて、ちょっと倉庫のような印象を受けるかもしれないが、懐かしいなんて感想は失礼極まりない。

「ここにあるのはがらくたじゃない。誰かが捨てたものじゃないもの」
「そのようだな」
「その箱は電子ピアノでしょ、あっちは圧力鍋、そしてこれは冬物コート」
「どれも普通のものばかりだ」
「このうちで普通じゃないの、クロロだけだよ」

 だからミギーはクロロに訪ねてきて欲しくない。流星街が故郷であるという実感は確かにあるが、クロロのように懐かしさを感じられるほど、ミギーはあの街のことが好きではなかった。流星街にあるものは――ミギー自身ですらも――全部誰かが捨てたごみなのだ。
 でも、そんな人生は嫌だ。ミギーは新しいものに囲まれて、普通の人みたいに暮らしてみたかった。ミギーが苦心してお金を貯めて一番初めに買った新しいものは、他でもない自分自身の新しい戸籍だった。

「心外だな、今日はここ十数年のなかでも極めて普通の人間だと自負しているのに」
「それはどうも。普通の人っぽいオーラの垂れ流し、今日は一段と上手いもんね」
「念能力を封じられてるんだ」
「ふーん、そうなんだ。なんで?」
「恨みを買った。団員との接触も禁止されている」

 あまりに淡々と他人事のように話すから、本当なのか冗談なのかわからない。「……ふーん。自業自得だね」ミギーは使い終わった皿をキッチンに下げると、真剣に考えるのはやめた。どのみち、彼がここに来る時はいつも一人だ。それも連絡もなしにふらっと現れて、特に明確な用事がある訳でもない。いや、用事というのなら、心理的にはあるのだろうか。

「何度も言うけど、本当にもう、私のことは気にしなくていいんだよ。私は別にクロロのこと恨んだりしてないから」

 ミギーは無意識のうちに、自分の胸元をそっと抑える。寝間着同然の部屋着のわりに首の詰まった服を着ているのは、ひとえにそこに大きな傷痕があるからだ。とっくの昔に痛まなくなって、見た目にも痛々しくないように誤魔化しているのに、どうやらクロロは未だに責任感に囚われているらしかった。その気持ちがわからないでもないからこそ、ミギーは彼を無下に追い返すことができないでいる。

「別に贖罪のために来ているわけじゃない」
「でも、いつも確認するでしょ」
「わかっているなら、早く湯を張ってきたらどうだ?」
「……」
「それとも、今日はベッドの上で脱いでくれるのか?」

 ミギーはこれ見よがしに大きなため息をついて、彼の言葉に従うべく浴室へ向かう。反論しても、抵抗しても無駄なのは、長い付き合いだからよく分かっていた。裸を晒すことに対する羞恥心は、思春期の時点で蔑ろにされているし、過去には本当にベッドを共にしたこともある。クロロのほうはどうだか知らないが、ミギーにとっては間違いなく初めての相手だったので、それも含めて水に流したい過去だ。
 熱いお湯がどぼどぼと浴槽に注がれていくのを見ながら、ミギーはリビングに戻るのを少しでも先延ばしにしようとしていた。しばらくして背後に立たれた気配がしたときは、流石に無視出来ないと観念したけれども。

「……本当に今日は、びっくりするくらい普通だね。念が使えないって、あれ冗談じゃなかったりするの?」

 振り返れば入口の壁にもたれ掛かるようにして、クロロがこちらを見下ろしている。気配を消さなかったあたり、案外この男も律儀だ。そう言えば″普通″に拘るミギーが、不法侵入や玄関以外からの訪問を禁じたのも、なんだかんだこの男はずっと守り続けている。

「ふ、どうだろうな。お前はどっちがいい?」
「幻影旅団の団長と、ただのクロロ=ルシルフルと?」

 どちらが良いと問われれば、ミギーとしては当然後者だ。だから彼と幼なじみ達があの街を出ると決め、一緒に行かないかと声をかけられた時も、ミギーは着いていくことを選ばなかった。
 クロロが、旅団が渇望をしたものは、どれもちっぽけなミギーの手に余るものばかりだったからだ。

「ただのミギーには、幻影旅団の団長は重すぎるんだよ」
「クロロならいいのか?」

 不意に後ろから腰に回された腕と、耳元にかかった吐息の温度にぞくりとする。しかし服の裾からもぐりこんできた彼の手は、もっともっと熱を帯びていた。

「……待ってよ、まだお湯が溜まるまで十五分はかかる」
「十五分も、俺にただ待っていろと?」
「十五年近くも、昔の女のところへやってくる根気があるなら大丈夫だよ」

 心臓が煩い。ずっとクロロの罪悪感に押し負ける形で扉を開いてきたつもりだったが、こういうとき、ミギーはわからなくなる。誰よりも普通を望んでいるはずなのに、一体どうしてこうも普通でない男に惹かれてしまうのか。
 虚勢を張ったミギーの声が震えていることに気が付いたのか、クロロは愉快そうに喉で笑った。

「なるほど。一理あるが……こんなに期待されていては、できない相談だな」

 一人暮らしの浴槽は、大人が二人で入ることを想定されていない。時間をかけてせっかく溜めたお湯も、半分近くがあふれ出てしまった気がする。
 向かい合ったクロロが胸元の傷痕を指でたどるのを、ミギーは浴槽のふちに頬杖をついて好きにさせていた。
 本当に必要だった行為はこれだけだ。その前の交わりなど、おまけでしかないのかもしれない。

「もうほとんど、わからないでしょ。そもそも、刺青を入れたあとからわからなくなったよ」

 ミギーが言った通り、胸元で目立つのは放射線状に広がる“蜘蛛の巣”の刺青だった。傷跡は確かにそこにある。が、今では張り巡らされた糸の一部と化している。いわゆる、“カバースカータトゥー”というやつだ。
 クロロはゆっくりと視線を上げ、刺青に口づける。やっていることは後戯のようなものなのに、彼がやると何か神聖な儀式のように見えてくるから不思議なものだ。

「……そうだな。だが、消えたわけではない」
「だから私は気にしてないって。だいたい、クロロは私を助けてくれたんだし」

 流星街の人間は、仲間を傷つけた者に激しい報復を行う。ある程度、裏の世界に片足を突っ込んだ者なら誰でも知っているだろうに、ミギー達が子供のころ、街では“人攫い”が横行した。ゴミ捨て場に捨てられているものなら、誰が拾ってもいいとでも思ったのだろう。 
 戸籍も、守ってくれる者もいない子供たちは、とある人身売買組織に目をつけられた。 

「俺が本を読んでいて、約束に遅れたせいだ。ミギーを一人にした」
「もう全部終わったことなんだよ、クロロ。今の私はあの街を出た。戸籍もある普通の人間だもの。傷はたぶん消えないけど、もう誰にも拾われたりしないから様子を見に来なくて大丈夫なんだよ」

 悪いのはよその奴らであって、クロロが負い目を感じることはない。そもそも多くの人間を自己都合で殺している男が、子供時代の幼なじみの傷にいつまでも責任を感じるなんて馬鹿馬鹿しい話だ。
 彼がいつまでも過去にとらわれているのを見ると、ミギーのほうが前に進めなかった。あの街とも、普通でないものとも縁を切って生きていきたいのに、クロロのことを拒むことができない。

「それに結構、このタトゥーも気に入ってるんだ。最初クロロが蜘蛛の巣にしようって言ったときは気持ち悪いと思ったけど、ほんとにうまく傷に馴染んでるし、大人になってみればなかなかお洒落よね」
「傷を隠すためだけに、そのデザインにしたと思っているのか?」
「あのときのクロロの趣味でしょ? 旅団のシンボルも蜘蛛にしたもんね」

 腰を持ち上げられ、ざぶりと水面が揺れる。突然の動きに声をあげそうになったミギーだったが、それより先に唇は塞がれた。

「だったら、そう思っていろ。俺は何度でもここに帰ってくる・・・・・
「……っ」
「念が戻って、俺が“団長”になろうと、な」

 水に流したいことは山ほどあるのに、流されているのはいつもミギーばかりだ。いくらあの街から出ようが、クロロと出会ってしまった以上、平穏なんて望んでも意味がなかったのかもしれない。
 そっちこそ痕が残ればいい、とクロロの首筋に噛みつけば、彼は心底愉快そうに笑った。

「お前の傷が、消えていないようで安心したよ」

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