職場は天空闘技場


【天空闘技場の設定に捏造があります。ご注意ください】



まただ、と思った。また昨日の女と違う。
今日で何日目かと指折り数えようとしたところで気付く、まだたったの一週間であることに。

 *

彼女は強い男が好きだった。
世界中から猛者が集まるここ天空闘技場の、更にその頂点となるフロアマスターという称号は、彼女にとって強者の最たる証である。
だから懸命な貯金を行い、この街に移り住み、何度も何度も何度も何度も足しげく通ってはついに人員の空きを見つけようやく就くことが叶った職だ。常に間近で最強の男たちを拝むことができる。これ以上の天職はない。
特殊な地であるここ天空闘技場といえど、内部構造はおよそ一般的な企業と変わりはなく、各種サービス施設を支えるための人員は多数存在している。中でも自分が配属されたここ清掃部門は一番小回りが利くものと彼女は推測していた。これだけの広さを誇る巨大施設だ、受け持つエリアは限定されてしまうものの、常に逞しき肉体が目に入るのだから願ってもない辞令である。事務部門にだけは回されなくてよかったと当時は諸手を挙げて喜んだものだが、室内では常時闘技場の中継が映し出されていることを知り、それはそれで羨ましいものがあると彼女は思った。
働き出してすぐのこと、印象深い出会いがあった。十にも満たない小さな子どもが、力自慢の大人たちを次々とリングに沈めていったのだ。銀色の髪を持つその男子は、数年後再びこの地に姿を現すこととなる。今度は黒髪の少年を連れて。改めてすごい世界に就職できたものだと己の行動力にも感心していた。
そんな色鮮やかな充実した日々を繰り返し、彼女はついに二百三十階以上の清掃を任命されることとなる。二百三十階、つまりはフロアマスターの称号を手に入れた二十一名からなる最高位闘士たちの所有エリアである。
一流ホテルにも引けを取らないほどの内装や設備に、当然彼女もまた客室清掃員としてそれに見合うだけの厳しい指導を叩き込まれここにいる。
闘士によって使い方はさまざまである。中には一切の入室を拒む者もいた。完全なプライベート空間だ、当然の主張である。だからこそ、容認してくれる闘士に対しては己を最大限に奮い立たせることができるのだ。
「誰よりも強いマスターたちが、今日も健やかに戦闘を行えますように」
同僚には笑われたが、毎度気合が入るというものだろう。

前置きが長くなってしまったが、ここで冒頭の様子を振り返る。
つい一週間ほど前に、新しくフロアマスターになった男がいた。名をクロロ=ルシルフルという。
容姿では年齢を判断しかねるが、艶のある漆黒の前髪から覗く底知れない瞳と、十字の刺青が非常に印象的な青年であった。
女性たちからの人気の度合いでいえばあのカストロを彷彿とさせた。もっとも、共通するところはその甘いマスクという一点のみであり、その中身はというと、インタビューはおろか声援にすら応じることはない。そこがまたクールで魅力的だと顔見知りの広報が騒いでいたことを彼女は覚えている。
最短での勝利を積み重ね、容易に手に入れた座がこのフロアマスターという地位だ。気まぐれな男ヒソカと同様、過去に類を見ない強者とのことである。
彼女も最初は興奮していた。なんといってもあの顔面である。強き男を追い求める彼女にしてみれば言うことはない。上等なスーツを着こなし、生地の上からでもよくわかるほどの逞しい肉体には思わず二度見するほどときめいてしまった。第一印象だけでいえば、あのヒソカすら越えている。
しかし、それもたったの三日で終わりを告げた。毎度清掃後にすれ違う彼の隣には、異なる女の姿ばかりだったからだ。
一日目は彼女持ちかとがっかりし、二日目は浮気現場の目撃かと緊張した。三日目ともなると彼女とてさすがに気付く、彼はそういう男なのだと。四日目に至っては、敢えて時間をずらしたのに鉢合う始末だ。
常時決して目を合わせず、いち従業員である彼女は廊下の端に避け頭を下げてやり過ごす。そんな状況が七回も続いたとなれば、さすがにうんざりするというものだろう、もう彼に対しての恋にも似た憧れなど綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
いつものようにこのフロア直通のエレベーターが開き、彼女は早々と立ち止まり頭を下げる。
また違う女を連れている。毎日毎日お盛んなことで。
聞こえないのをいいことに、内心では言いたい放題である。
ただ今日がこれまでと違ったのは、いつも通り重厚なカーペットで視界が埋め尽くされていた中、至近距離でその革靴が止まったのだ。まさか口に出ていたかと焦る彼女に男がどのような目をしていたのかは知る由もない。急かす女性の声だけが耳につきようやく背後の扉が閉まる音がした。
一体何だったのだろう。思うも、彼女は顔を上げその場からの退出を急ぐ。闘士が帰宅したのだ、これ以上の長居は許可されていない。
明日から彼女は貴重な二連休である。八人目の女を見なくてすみ、せいせいした。

 *

彼女にとってここは、職場である以前に大事な憩いの空間である。二百階クラスの観戦チケットを手に今日も元気に猛者たちの応援だ、決して暇をもて余しているわけではない。
本来ならば明日行われるフロアマスター同士のチケットを彼女は入手しているはずであった。だからこそ無理して取得した連休である。夜が明ける前から奮闘し各所に掛け合ってもみたのだが、これほどの人気では会員限定販売ですら奪い合いとなるらしい。
なんせあのヒソカとクロロの対戦だ。入手倍率を甘く見ていたわけではないが、やはり悔しいものは悔しい。一度でいいから史上最高峰と言わしめた男たちの戦闘を生で眺めてみたかったと彼女は泣いた。
そんな事情もあってか、彼女はこの日一度も帰宅することなく、それこそ早朝から深夜にかけてずっとこの闘技場に入り浸っていた。同僚に目撃されては相変わらずだと笑われるほどである。
夜には酒も入り、ほろ酔い気分で帰路につこうとしたところ、通りの正面から歩いてくる見知った顔に呼吸が止まる。クロロだ。
その雰囲気はこれまでとは一変、印象的なコートの裾が夜風にふわりと舞い、彼の額もまたよりいっそう強調されている。そして、その傍らに女の姿はない。
芽生えたこの感情を一体何と呼べばいいのだろう。
視線を外せるはずもなく、彼女はただずっと、ずっとずっとその男を見つめていた。気配も匂いも眼差しも、何もかもがこれまでと違いすぎる。
こわい、以前に高揚した。なんて魅力的な男性なのだろうかと。

「さて」

その時、彼女は初めて彼の吐息を聞いた。数いる女たちに笑いかけるあの声ではなく、これが生来の姿なのかもしれないと本能で悟る。
夜道に二人、周囲には誰もいない。

「オレは明日で闘士を降りることになるだろう」

そう、そうだ。彼女は知っている。だから欲しかった。目の前にいる、歴代最高の闘士だろうと謳われるほどの実力を持った男同士の試合を直接生で見てみたかったのだ。
けれど不思議だった。原因はこの言い方だ。二百階を越せば勝利の条件に互いの死を賭け合う者たちも少なくはない。しかし彼のこの台詞はまるでニュアンスが違う。負ける気などさらさらなく、もっと他の理由が。自らこの地位を手放すことなど彼女には想像すらできないが、それほどの違和感がそこには生まれていた。

世界の広さを、まだ彼女は知らない。
彼は、いや彼らは彼女が思う以上に別格すぎる存在であった。

「これが、最後の機会だと思え」

オレの言ってる意味はわかるか?
問われ彼女はもう何も考えられなかった。あまりにも違いすぎるその男の雰囲気そのものに飲み込まれ全身が硬直する。浮かんだ汗は玉となって流れた。

呼吸が浅いのは、
視界がぼやけるのは、
口が渇くのは、
指先が凍えるのは、

「あなたが……好き、です……」

これが彼女の意思だった。本当はずっと悲しかった。さびしかった。最初から一目惚れだった。すれ違うたび何度、何度自分もと恋い焦がれてきたことか。
涙を流す彼女に、彼は何も言わなかった。何も言わずにただ、口元に笑みを浮かべ彼女を引き寄せた。

彼女は明日、ようやく知ることとなるのだろう。彼の素性その全てを。
観覧及び視聴は会員限定であるこの試合。自宅のパソコンで一人緊張した面持ちで向かいあっていたときのこと、一般人である審判をクロロが殺したとき彼女はすぐに察した。彼はこのような場にいる人間では決してなかったことに。
後日、会員サイトからの報せで知る。A級首の頭目、それがクロロの正体だった。
連日報道される天空闘技場での大規模な爆破被害の裏に潜むその真実とは。

「クロロ……さん……」

あの部屋は、彼女が片付けることとなるだろう。
相手が旅団と知りながら、それ以上踏み込み手を出す組織など存在しない。
メディア、警察共々この惨事から手を引きそうして風化していく中で、それでも彼女はもう一度だけ会いたかった。

- 結磨様/空模様色模様