「万理さん、コーヒーどうぞ」
「ああ、ありがとう名前さん」

 ふわあと一つを欠伸を漏らしたあと、俺のデスクに湯気のたったコーヒーがことりと音を立て置かれた。気が効くなあ、と内心感謝の気持ちでいっぱいになりながら、すぐさまそれに一口つければ、良い具合の苦みが口に広がり、少しだけ眠気が覚めたような気がした。
 現在の時刻、午後十時。ここ小鳥遊事務所には俺たち二人しか存在しない。明後日からアイドリッシュセブンの重大なイベント情報がホームページにて解禁されるのだが、そのメンテナンスが間に合うかどうか怪しく、二人で残業真っしぐらという状況だ。アイドリッシュセブンもまだまだスタートしたばかりの駆け出し段階の時期であり担当事務員やスタッフというのも数少ないのが現状で、このようにイベントやライブ前になると睡眠時間を削ってパソコンと向き合うというのが当たり前になっている。

「あの、万理さん。今大丈夫ですか?」
「ん?」
「ここのレイアウト、どうすればいいでしょう」

 隣のデスクに椅子を移動し、パソコンを覗き込む。片耳から聞こえるマウスをクリックする音、彼女の髪から香るシャンプーの匂いに心地が良くなり再び襲いかかる眠気に頭を振った。

「んー、色変えてみるのも有りだね」
「……こんな感じですか?」
「うん。良いよこれ!」
「よかった。ひとまず細かい部分以外は完成しました」
「お疲れ。一旦休む?」
「いえ、一気に終わらせちゃいます」

 明日の徹夜時間を減らそうと思うので。茶目っ気に笑う名前さんにつられて笑みを浮かべながら、俺は彼女の手に自分の手を重ねた。少し驚いた表情を向けてくる名前さんに愛おしさを感じながら、「キスしてもいい?」と尋ねると、「し、仕事中です」と真っ赤な顔で返される。残念だ、と心の中でぼやきながら素直に自分のデスクに戻りパソコンに視線を向けた。俺も早く終わらせないと、朝が来てしまう。せめて三時間は寝たい。

 眠気がひどい時に仕事に没頭していると、かえって周りが見えないくらいに集中してしまうことに気が付いたのはこのプロダクションで事務員になってからだ。メンテナンスがひと段落し、腕時計を確認すれば日付などとっくに過ぎた午前二時だった。咄嗟に隣も確認すると、首がこくりこくりと宙で遊んでいる。

「……名前さん」
「ん、はい……?」
「もう寝た方がいいんじゃない?」
「まだ、大丈夫、ですよ」
「強がらないでいいから、ほら」

 ほとんど寝かけてしまっている名前さんを半ば強引に所謂お姫様抱っこすると、寝ぼけていた目が一気に見開かれジタバタと反抗される。しかしそれは一瞬で、眠気には勝てないのか力が段々とか弱くなっていくのが分かり口元が緩んだ。仮眠室へ運び、ベッドへ大事に扱うように彼女をそっと下ろすと静かに彼女の体はマットレスに沈んだ。必死に瞼を上げようとする彼女の頭を片手でゆっくり、優しく撫でているとそのもう片方の反対の手を貧弱な力できゅっと握られた。

「万理さん、」
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「……万理、さん」
「ん?」
「万理さんは、寝ないの」
「どうしようかな。あと少し片付けたら…」
「万理さんも、いっしょに」
「……一緒に寝るの?」
「うん」

 名前さんと俺は恋人で、いわゆる職場恋愛というものをしている。しかし仕事には人一倍厳しく真面目な彼女だからこそ、仕事中は必ず俺を上司とだけでしか見ない。メリハリをつけるのが上手だともいう。だから、仕事から離れると普段の敬語も離れ、恋人として甘えてくる彼女のギャップにいつも俺はやられてしまうのだ。

「……しょうがないな。それじゃあ、パソコンの電源とか部屋の電気とか消してくるから――」
「、だめ」

 か弱い力は何だったのかといわんばかりの強い力でベッドへ引き寄せられ、一瞬の出来事で気を抜いていた俺は呆気なく名前さんの隣に倒れ込んでしまった。

「万理さん、ちゅー」

 そんな可愛いことを言われてしまえば、俺も留まることなどできない。それに、寝ぼけている彼女の目はとろんと潤っていて正直キテる。目の前にある小さな形のいい唇に自身のそれを何度も何度も重ね、瞼を閉じ、しばらく二人の世界に浸っていると我慢していた眠気が脳の奥からムクムクと覆い被さっていくのが何となく分かった。まずい、このままじゃ寝てしまう、と思ったのも後の祭りで、俺はゆっくりと確実に、意識を手放してしまった。

 気が付けば、カーテンの隙間から心地の良い日差しが差し込んでいて朝だと寝ぼけた頭が認識し、寝る前の記憶を必死に呼び起こし思い出す。そうか、名前さんを寝かせてから俺も結局落ちたのか。隣を見れば、まだ気持ち良さそうに夢の中にいる名前さんがいる。相変わらず幼い寝顔だ。目にかかっている前髪を指で掬うように退かし、露わになった額にそっと口付ける。それだけで踏みとどまることが出来るわけもなく、瞼、頬、そして唇に口付ける。すると身動きをし始めた名前さんに、あ、と思ったのも束の間で目の前にある両眼がゆっくり上がった。

「ごめん、起こしてしまったね」
「ばん、り、さん」
「おはよう、名前さん」
「……万理さん、おはよう」
「うん。おはようのキスしていい?」
「、うん」

 ついさっきぶりの唇の感触を味わいながら、名前さんの頭を抱え込むようにこちらへ引き寄せる。小さな体はすっぽりと俺の胸の中に収まるので居心地が良い。「昨日お風呂はいってない」と身じろぐ名前さんに「一緒にシャワー浴びる?」と尋ねれば真っ赤な顔で胸をぽこぽこと叩かれた。意地悪の度が過ぎたみたいだ。朝っぱらから幸せだなあ、なんてぼやきながら彼女の髪に口付けているそのときだった。

「―――ひえっ」

 その短い悲鳴は、俺のものでもなく名前さんのものでもない。それじゃあ一体誰のものだ。目の前の彼女とぱちぱちと目を合わせながら、恐る恐ると悲鳴の聞こえたドアの方へ視線を向けるとそこには――

「……り、陸くん」

 うちのアイドリッシュセブンのセンターが、真っ赤な顔で口元を抑えて扉の前に立っていた。

「え!あ、えっと、そのいや、ちょっと俺昨日事務所に大事な忘れ物しちゃって、今日は朝早く行こうと思ったら万理さんたちのいつも仕事してる部屋が電気点けっぱなしだしパソコンも開きっぱなしだしで、何かあったのかと思ってそれで、仮眠室来て、その、えっと、ご、……ごめんなさいいい!」

 本来なら俺たちの方が慌てふためきたいところだが、陸くんの慌てようについこちらが落ち着いてと宥める側になってしまう。俺と名前さんが交際しているなんて誰にも公言していなかったし、そんな二人が朝っぱらからベッドでイチャついてる光景なんて見れば目玉が飛び出るほど驚いてしまうのも当然だろう。陸くんは顔を真っ赤にしながら俺たちの関係を尋ねてきたので、正直に答えることにした。するとその日、メンバー全員と紡さん、そして社長にもそれは知れ渡ってしまうことになる。

「へー、万理さんと名前さんがね。まあなんとなくそんな気はしてたけど」
「なっ、おっさん知ってたのかよ!」
「大人のカンってやつ?」
「Oh!バンリも男だったという訳ですね」
「てゆーか、バンちゃんそれ職場恋愛だろ!?うっわあ、やーらしー」
「やらしいって、環くん……」
「いや、四葉さんのおっしゃる通りです。大神さん、職場の人間と交際するというのは個人の自由かと思いますしそれについては何も言及しません。が、普通仮眠室で一緒の布団で寝ますか? ここは職場ですよ。しかもそれを見つけたのがよりによって未成年であり尚且つメンバーの中で一番純粋な七瀬さんだったなんて……! くっ、七瀬さんにとって刺激が強過ぎます。今後、公私混同は極めて避けてほしいと思いますし――」
「まあまあ一織!落ち着いて!」

 名前がシャワーを浴びている間、様々なメンバーのリアクションを受け、予想はしていたけどやっぱり一織くんに説教を受けてしまった。けど、それ以上に俺が恐れているのはその様子を隅で何の気持ちも読み取れないようなニコニコとした笑みでそれを聞いている社長だ。隣の紡さんは目をキラキラと好奇心に満たせながらこちらを見ている。

「社長、お騒がせしてすみません」
「いや、全然構わないよ。万理くんも名前くんも、昨晩は遅くまで頑張ってくれていたんだろう?ご苦労様、ありがとう」
「本当にいつもありがとうございます!今日は私もマネージメント活動があまりないので、メンテナンス作業に徹しますので!」

 小鳥遊親子の気遣いに胸がジーンとするのを感じていると、シャワーを浴び終えた名前さんが未だ騒がしい部屋に入ってきた。

「あーー名前さんきた!」
「名前ちゃん、バンちゃんのどこが好きなの?」

 刹那、早速俺のように冷やかしを受ける名前さんは顔を真っ赤にさせて戸惑っている。そんな様子が可愛くてついついぼうっと眺めているとふと目が合い、バツが悪いようにお互い苦笑し合った。その光景を見ていたメンバーが再び冷やかすのは言うまでもない。

(でも、まあ…一織くんには悪いけど)

 二人きりの残業のときくらいは許してほしいな、と恐らく今晩も待ち受けてあるだろう徹夜生活を思い浮かべながらそう内心でぼやくのだった。

170917