「―――であるから十九世紀前半には、」
世界史担当の先生の声と共に、チョークで黒板に文字を書く特有の音が教室に響き渡る。つい先日までIDOLiSH7はコンサートツアーで全国を飛び回っており、念のため休憩時間に楽屋で予習はしておいたもの本職である学業が疎かになっていたのは事実だった。久々の登校、おまけに定期考査も二週間前に近づいており授業についていくのに必死だった。予習をしていなかったら恐ろしいことになっている。先生の話を頭にしっかりと叩き込んでから、ノートを写していく。それが一番頭に残りやすく効率が良いからだ。しかし、どうにも集中を切らされる事案が一つあった。
「すー…んん」
「…」
「すぴー…んんぁ」
「……」
隣の席から嫌でも聞こえてくる寝息――というよりいびき――に、段々と我慢が出来なくなってきた。女子とは思えないそれを聞いて関わりのないクラスメイトに思わず溜息が吐きそうになる。
ツアーで長らく学校を休み、久々に登校したときにまず違和感を覚えたのは席順だった。以前まで自分の席だった机には他のクラスメイトが鞄をかけ腰を下ろしており、つい先日席替えをしたのだとその時に知った。同じクラスメイトでありメンバーの四葉さんは席替えに分かりやすく興奮していたが、大して自分は席順など気にしないので然程興味もなかった。まあ、周りは私語が少ない人が良いなと思うくらいで。
そして、隣の席にいたのが彼女だった。彼女は男女問わずクラスメイトからも先生からも「眠り姫」と呼ばれていた。その名の通り、彼女はずっと寝ている。授業中も休憩時間も関係なく机に突っ伏し、朝のショートホームルームから六限目までひたすらと。もちろん昼食を食べるときや帰りのときは顔を何度か見たことがあるが、基本それくらいだ。先生たちもさすがに注意をしているものの、なかなかその寝癖は改善されない。個人的に私語がうるさい人に比べれば有難いものの、このようにいびきも寝言も激しく気になってしまうし眠り姫の眠りというワードには共感だが、姫の要素は一切無いと勝手ながら思う。彼女は何のために学校へ来ているのかと少々呆れてしまうが、私には一切関係ない。未だにうるさい寝息はなるべく気にしないように、ノートに黒板に書かれた内容を写していった。
それから一週間が経った朝。今日から考査一週間前期間のためいつもより早く寮を出た私に朝が弱い四葉さんもなぜかついてきて、その理由を尋ねると一人で通学するのは面白く無いからという。通学に面白さを求めることが理解できないが、とりあえず四葉さんと一緒に登校したものの校門を見回しても生徒の数は当然のようにあまり見えない。しかし彼はこの数少ない生徒の中にも友人を見つけたのかそちらへと駆け出してしまった。その様子を見届けてから彼を放って、いち早く教室へ向かう。ツアー中に休んでいたときの考査内容でまだ理解していない範囲があるので、それを今日の授業までに理解したい。寮で勉強をするよりも人のいない教室で勉強する方が捗るのだ。しかしそれは叶うことがなかった。自分の教室のドアを開けるとそこには、“彼女”がいた。それも、机に突っ伏すことなく美しい姿勢で何やら書き写している彼女が。あまりにも突っ込みどころが多過ぎて、絶句してしまう。
「ええ、来るの早ーい。おはよう」
「……お早う御座います」
「わー、一織くんだ!」
「!…はい」
「初めて喋るよね?ね?」
「初めてです」
「えへへー、そっか!」
まるで昔からの旧友かのように親しく話しかけてくる彼女に少し狼狽えながら私は自分の席――彼女の隣の席に荷物を置いた。
「いつもこんなに早く来てるの?」
「いえ、考査一週間前なので」
「ふーん、じゃあ私と同じだ!」
「……」
「ていっても、私は先生に早朝指導で来させられてるからだけどねー」
「早朝指導……」
「ああそうだ、ねえねえ私の名前知ってる?」
次から次へと出てくる話題に、またもや狼狽える。彼女はこんなにも口数の多い人だったのかと意外性に驚きながらも、ふと彼女には友達が多いことを思い出す。物色するみたいだが、愛想も良く明るい性格なので人を引き寄せる力は充分に見受けられる。うちのグループでいえば、所謂七瀬さんのような存在だ。
「……苗字さんですか」
「そう!よく分かったね!」
良くどの先生にも名指しで注意されてるものだから、自然と覚えてしまうのだ。彼女が偉い偉い、と褒めては伸びて来た白い腕をみて頭に疑問符を浮かべたが、その手が私の頭に軽く乗った時に つい肩をビクリと震わせ反応してしまった。
「な、なにしてるんですか!」
「あれ、だめだった?」
「駄目も何も。貴方ただのクラスメイトにスキンシップが過ぎませんか」
「ただのクラスメイトじゃないよ、隣の席の男の子だもん」
「……私はそういうことを言いたいんじゃなくて」
「じゃなくて?」
「だから貴方が私のことをどう思おうが、とにかく今日初めて喋った仲なのに」
「あ、分かった。スキャンダルってやつ?」
「……はぁ」
「あはは!勝った勝った」
無邪気に笑う彼女に、無意識に溜息が漏れる。「この前の『キミと愛なnight!』見たよー。大和くんや三月くんでも一織くんを論破するのは大変だって言ってたでしょ!私今論破できた!」なんてケラケラと楽しそうにそう言う彼女に、思わずつられて笑ってしまう。
「あなた、想像していたよりも賑やかな方ですね」
「ふふ、ありがとう」
「でもさっき言った通り、誰彼構わずあのように懐けば私はどうあれ他の男性の方なら勘違いしてしまう輩もいるかもしれませんよ。誰にも親しみやすいのは長所ではあると思いますが、かえって短所になることもあって――」
「一織くんは馬鹿ですね」
ガタン。彼女がシャーペンを机に置いて 自身の椅子をこちらへ引き寄せた音が二人きりの静かな教室に響いた。ぐっと近くなった彼女と自分との距離に、ふわりと鼻腔をくすぐる彼女のシャンプーの匂いに、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「誰彼構わず、スキンシップなんてしませんよ」
「……っは?」
「うーん、そうだなぁ。私、寝ている時もたまに一織くんのこと見てたんだよ。知らなかったでしょー」
「な」
「こうやって、腕の隙間からね。実は何度も話しかけたいなあって思ってたけどビビって話しかけられなかったの。でも今二人きりのタイミングが出来てラッキーって感じ!」
「あなた、何言って」
「もー、分からない?一織くん賢いのに。もしかして、わざと分からないふりしてる?」
すると、更に顔を近づかせた彼女とのその距離に目を見開く。彼女の息遣いが、私の顔で感じるほどの距離だ。いつも寝ているのに、ぱっちりとした大きい目、綺麗にカールした睫毛、小さく血色の良い唇、薄っすらと赤みが帯びる頬、そして雪のような肌の白さ。授業中、あんなにいびきをかいていた者とは思えない。彼女はまるで。
「私、一織くんのことが好きなんだ」
眠り姫のようだ。
刹那、頬に感じた唇の感触に思考が止まる。ふっと離れていく彼女は、してやったりという顔でにんまりと笑っている。「よーし、一織くんにキスしちゃったから今日は一日起きていられるかも!」なんて楽しそうにいう彼女の言葉は右から左へ流れていく。そして、人の頭を混乱させておきながら「ねえねえ、世界史のノート持ってる?見せて?」と、通常運転で話題を変えてくること、せっかく早くに登校したのにもう時間がかなり過ぎてしまったこと、そして自分が彼女に間違いなく惹かれてしまったことに 思わず私は頭を抱えた。
//170917