好きな人がいた。同じクラスの、斜め右前の席の女の子。名前は苗字名前っていう。

 苗字さんは、どちらかというとワイワイと騒ぐタイプとは真逆の大人しいタイプで、授業もいつもきちんと真面目に聞いているような子。一部の仲の良い大人しめな友達とは話すけど、基本的に必要最低限は他のクラスメイトとは話さない。もちろん男子と喋るのなんか以ての外で、同じクラスになってから彼女が男の子と話しているところなんか見たことがないくらいだった。単純に人見知りなのか、それとも男の子が苦手なのか。

 まぁ、そういうことでもちろん俺だって苗字さんとちゃんとした会話をしたことは一度もない。むしろ顔を合わせたこともないかもしれない。じゃあ、何で好きになったのかって?聞いてビックリするなよ。

 とある授業で俺がなけなしの消しゴムを誤って落としてしまって、それが斜め前の苗字さんの足下まで転がってしまったんだ。正直そのときは、苗字さんのことを本当にただの大人しいクラスメイトという認識しかしていなかったから、取ってくれって頼むのも少し気が引けるなぁと思っていたくらいに。
 だけど、苗字さんは俺のそのもはやカバーさえつけられないほどの小さな小さな消しゴムに気付いて、それを拾い上げた。そしてクルリと斜め後ろへと振り返った。咄嗟に俺は小さく手を挙げてその消しゴムは自分のものだとアピールするが、なんと彼女はそれを俺に返すこともなく再び前に向き戻った。
 俺が呆気に取られている中、彼女はゴソゴソと自分の机でなにかをしているようだった。しばらくして、再び俺の方へと振り返っては 少し距離のある席から体と手をめいいっぱいに伸ばして手を差し出した。

「どうぞ」

 何が起きているのかさっぱりで、ただただそれを呆然としたまま俺はそれを受け取った。苗字さんから渡してもらったのは、俺のなけなしの小さな消しゴム。そして、一片が歪な形をしている真新しそうな綺麗真っ白な消しゴムだった。一瞬それが何なのか全く分からなかったけど、しばらくしてから完全に理解して俺は「えっ」と情けない声が漏れた。
 もしかして、彼女が自分の消しゴムを俺のために割ってくれたのだろうか。しばらくその消しゴムを眺めていた視線を急いで苗字さんの方へ向けると、彼女はただにこりと笑って再び黒板へと体を戻してさっそくノートを取っていた。

 彼女のその優しさと、その控えめな笑顔に、俺はまんまと一目惚れしてしまったというわけだ。


 そんな彼女に一目惚れしてから早一週間が経った。もちろん進展なんかひとつもない。けれどそれより重要なことがあった。

 まだ消しゴムのお礼を、伝えられていないのだ。なんて情けない話なんだって思われるだろうし、それは俺自身が一番思っている。

「席も近いんだし、普通に話しかけりゃ簡単じゃん」
「それが出来たら俺だってお前に相談してねーよ!」
「はぁ。一目惚れってことは潔く認めてるくせにアタックどころか喋りかけることすら出来ないとか、やっぱり半田ってどこまでも中途半端だよね」

 唯一俺が苗字さんに寄せている想いを知っている、同じクラスでありサッカー部のマックスに相談したらこの言われようだ。だから、中途半端なんか俺が一番分かってるんだって。だけど、マックスの言い分はどこから見ても正論の他なくて言い返すことすらままならない。

「どうやって話しかければいいんだよ…」
「だから普通に。この前消しゴムありがとうって言えばいいだけじゃないの」
「……」
「ていうか好きな人云々の前に、礼も言えないとか半田の人間性疑うよ、僕はね」

 どデカイ岩が頭にガツンとぶつかったくらいの衝撃を受けながらも、俺は大きく溜息を吐いた。そうだよな、さすがにお礼は言わなくちゃいけない。それで望むことなら、それから少し話してみたい。

「明日、話しかけてみるよ」
「決意したんなら今すぐでもいいじゃん」
「…心の準備ってのが、必要だろ」
「ほんと、やること中途半端」

 もうこの際、何とでも言ってくれ。









 翌朝。今日はいつもより比較的早く朝練が終わった。部室を出る前に時間を確認した時で、朝のショートホームルームまで30分以上はあったから教室も誰もいないだろうな、なんてマックスと駄弁りながら時間の潰し方を考えていた。まぁそれが何とビックリだ、教室には人影があった。

「うわ、早っ。もう来てる奴がいるのか」

 後ろ姿だから誰かは分からなかったけど、既に教室には一人だけ生徒がいた。一番乗りの奴は教室の鍵を取りに行かなくちゃならないから純粋に有難いな、なんて思っていると隣にいたマックスが神妙そうな顔を浮かべて俺の肘をつんつんと叩いた。

「半田、あの席にいるのって」

 マックスがそう言って、俺はもう一度その一番乗りの奴を確認した。あの席っていうのは、よくよく見れば俺の席の斜め右前で。思わずビックリして目を見開いた瞬間、目の前の扉が何者かによってガラガラ!と大きな音を立てて開いた。もちろん俺の近くにいるのはマックスしかいないし、開けられるのもマックスしかいない。

「!」

 さすがにこの大きな音には驚いたのか、席に着いて何か小説のようなものを読んでいた苗字さんが扉の方へ振り返った。目を丸くさせていて、何事だといわんばかりに。けれど、俺とマックスの姿を見てホッと安堵の息を吐いては何事もなかったように小説に目を戻した。俺(とマックス)を見て怯えられている訳でもないから喜ぶべきなのか、それとも何事もないようにされているのを悲しむべきなのか、複雑な気分に駆られていたその時だった。

「あ、いっけなーい」
「ん?」
「僕、部室に忘れ物しちゃった。取りに行ってくるよ、じゃあね半田」
「は、えっ、おい、ちょ、はっ!?」

 突然のビックリ発言を頭で飲み込む前に、俺はマックスに背中をかなりの強さで押されて教室に足を進み入れられたかと思えば、ガラガラピシャン!と扉をまた大きな音を立てて閉められた。振り返ったときには既にもうマックスの姿は見えなくて、おいおい嘘だろと思わず口元が歪んだ。

 
「………」

 いや、苗字さんと教室でふたりきりって…やばすぎるだろ。緊張のせいか体が固まって動けない。どうすればいいんだよ、と心の中で尋ねると頭の片隅で「今お礼言わないでいつ言うの?」と尋ね返してくるマックスの姿が浮かんだ。ごくり、と生唾を飲み込む。いくんだ、俺。昨日の夜、覚悟を決めたんだ。

 震える足を進めながら、自分の席へ向かう。自分の席に着いて鞄を置いてから、よし、と心の中で意気込んだ。そして斜め右前の席へと俺は歩み寄った。


「……な、なぁ」
「…」
「あの、苗字さん」

 体だけでなく声まで震えていて、自分でも本当小心者な男だなと項垂れそうになる。心臓は嫌になるくらいうるさく、激しく鼓動していて それが更に俺の緊張感を高めさせていた。

 小説を読んでいた苗字さんが顔を上げて、ゆっくりと俺の方へと振り返って――目と目が合う。うわ、より近くで見ると…めちゃくちゃ可愛い。目がすげえぱっちりしてる。

「あ、あの、えーと」
「…」
「その、苗字さんに」
「…?」
「言いたいことがあって」

 途切れ途切れに言葉を紡いでいく度に、苗字さんの目の丸さも帯びていく。

「この前!消しゴム、ありがとう!」


 がばり、と効果音がつくくらい勢いよく俺は頭を下げた。どちらかというと、感謝という意味もあるけど顔を見られたくないから頭を下げたという意味の方が強い。何せ、冷や汗が酷いことも表情も強張り過ぎているのも俺自身が自覚しているのだから。

 なんて言われるのか。あの消しゴムを貰ってから、もう一週間も経つ。今更だと呆れられるだろうか。昨日散々決意を固めたはずなのに、マイナス思考ばかりが止まらなくなっていく。
 俺が頭を下げて、どのくらい経ったか。実際は数秒なんだろうけど、俺にはそれが十数秒、――数十秒にも感じられた。


「ふふ」

 待ちわびていたようで恐れていた彼女からの反応は、まるで小鳥が囀ったかのような小さな笑い声だった。思わず俺は顔を上げる。
 彼女は、小説を持っていない片方の手を口元に添えてしばらく小さく笑っていた。どうも笑いを我慢したいようだけど出来ないみたいに。だから俺もつられて苦笑した。そして、意を決して尋ねた。

「な、なんで笑ってるの?何か面白かった?」
「ふふ、だ、だって」

 授業で当てられた時にしかまともに聞かなかった彼女の声は、まるで鈴の音のように聴き心地が良かった。

「そんなにかしこまってお礼なんて、大丈夫だったのに」
「あ、いや…それは、なんていうか」
「半田くんは素敵な人だね」

 苗字さんはそう言ってはふわりと笑った。心臓がじわりと疼く。俺の名前、知ってくれていたんだ。

「…そんなことない。苗字さんこそ、こんな俺のためにわざわざ消しゴムを半分にしてくれただろ。そっちの方が俺はその…凄い、良い人だなって、思うよ」

 俺は苗字さんが言うような素敵な奴でもない。何なら、一週間も礼を言うことを躊躇する意気地なしの情けない男なんだからさ。

「…それが、面白かった理由?」
「ううん、違うよ」
「え?」

 会話をどうにか続けたくて、俺がかしこまってお礼を言ったのが笑っていた理由なのか改めて訪ね返した。すると、苗字さんはあっけらかんとそれを否定するので頭に疑問符を浮かべる。それじゃあ一体、何が面白かったんだろう。
 苗字さんは、また楽しそうに笑った。

「私、勘違いしちゃってたから」
「…うん?」

「私、半田くんの言うように良い人じゃないよ」

 小説を机において、苗字さんは席から腰を上げた。呆然としている俺を放って。

「消しゴムだって、半田くんに私のものを使って欲しいっていう下心だし」
「サッカー部がいつも朝練をしているから、少しでも早く学校に来て半田くんを見ているんだし」
「さっきだって、真剣な顔で私に言いたいことがあるって言うから。私、半田くんに告白されるのかなって思っちゃったし」

「好きな人に好かれたいけど意気地無しなことばっかりする、情けない女だから」

 言い終わると、へらりと笑ってから扉の方へと向かう苗字さんの細い手首を咄嗟に掴んだ。もはや、無意識で、衝動だった。

「苗字さん」
「……」
「俺も、好きだ。苗字さんのこと」

 真っ直ぐに彼女の目を見て、気付けばその言葉は口から溢れ出ていた。

 本人から告げられた、苗字さんの本性は正直ビックリした。だけど、それが嫌だとか気持ち悪いだとか思うはずがなくて。これが惚れた弱みなのかなと思うほどに。それに、俺が彼女に惚れたのは一目惚れなんだから、結局どうなっても俺は彼女を好きになっていただろう。彼女の笑顔に、俺は一瞬で惹かれたから。

「半田くん、顔はかっこいいのにこんな私を好きになるなんて、そりゃあ中途半端って言われちゃうよ」
「それは苗字さんだって、同じだろ」

 二人で、おかしくなって、思わず笑いがこみ上げた。気が付けば大きな笑い声を、俺たち以外誰もいない教室に響かせていた。


 ー―30分後、教室に戻って来たマックスに「苗字さんと付き合うことになった」と報告したときのあの驚いた顔は今でも忘れられない。

「進展があればいいなとは思って邪魔者はさっさと退散したけど、さすがに進展早すぎない?いつもは中途半端のくせに」
「苗字さんはそんな中途半端な俺が好きらしいんだから、全く照れるよな」
「うーわ、半田のくせにウザい」

 ふと、苗字さんの席の方へ視線を向けると 友達と喋っていた苗字さんもタイミングよくこちらへ振り向いていて目が合う。そしてどちらからともなく笑い合っていると、横から「うーわ、やらしい」と野次が入った。

「ほんと、半田どんな手を使ったのさ」
「何だよその言い方……」

 俺より苗字さんの方が好きになったのは早かったらしいなんて言えば、マックスはどんな反応をするだろうな。けれど、まだ苗字さんの意外な本性は誰にも知られたくないからしばらくは秘密にしておこうと心の中でひとり考えていたのだった。


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