「見て、降谷くん。とっても綺麗」
漆黒に散りばめられた無数の星を背景に浮かんでいる、まるで存在感を強調するかのように爛々と輝く満月を指差しながら彼女はそう呟いた。すぐ隣にいる俺はその彼女の指を辿るように満月に視線を向けた。たしかに、月は綺麗だった。地上に光をもたらす満月が、ひどく美しく見えた。月が綺麗と思うなんていつぶりなのだろうか。いつもなら何の感情もなくただぼんやり眺めるだけだったそれが、今日は全く違うものに見えた。なぜなのだろうか。理由を考えて、はたと隣の存在が頭に浮かんだ。
月明かりに照らされている横顔は、俺の視線に気がつくとこちらに振り向く。ばちり、と電気が流れたかのように勢いよく目と目が合う。しばらくその状態は続き、俺は金縛りにあっているような感覚だった。視線を動かすことも出来なければ、もちろん体だって動かすことが出来ない。すると彼女はそんな俺を見て口角を上げた。そよ風が吹き抜けたときのような心地良さを感じる笑い声を漏らしながら。
「どうしたの」
「ああ、」
「うん」
「……いや、何でもない」
「ふふふ、なにそれ」
「いや、何でもないことはないんだ。違うんだ。その…ちょっと、時間をくれないか」
「変なの」
彼女はおかしそうに笑った。彼女は猫みたいに笑う。少し吊りめな目を更に吊り上げ、口角を上げる。ああ、可愛いな。なんて言葉が喉元まで込み上げてきて、咄嗟に寸でのところで飲み込んだ。
ポーカーフェイスを装いながらも、俺の鼓動はバクバクと今にも破裂しそうで鬱陶しいほどに耳障りだった。うるさい、うるさい、静かにしてくれ。心を落ち着かせようにも、鼓動は容赦なく邪魔をしてくる。…駄目だな、これじゃあまるで格好がつかない。
好意を持った異性にその気持ちを告げるという行為はこれほどまでに緊張するものなのかと、生まれてから約20年にして漸く痛感させられた。決して人を好きになるのが初めてではない。けれど、ここまで本気で人を好きになったのは初めてだった。初めて出逢った日、気が付けば彼女を目で追っていた。彼女の笑顔を見たとき、心臓を鷲掴みにされた。俺は彼女という存在に一目惚れしてからは、柄にもなく頭の中は彼女一色だった。想いを告げようとする己の唇は、カタカタと震えている。吐き出たのはため息なのか、はたまた無意識に深呼吸をしていたのか。そんな明らかにおかしい様子の俺を見て、彼女は不思議そうに首をこてりと傾げるも「落ち着きなよ」とやさしく、だけど眉尻を下げながら笑った。どうやら俺の緊張は何かしら彼女にまで伝わっているらしい。まあ、無理もないか。
「――苗字、」
この先の想いを告げて、俺たちの関係は果たしてどうなってしまうのか。昇進するのか、それとも友達でさえ居られなくなるのか。告白をしようと考えていた頃から幾度となくその疑問については頭を悩ましてきたのに、いざその時が来てもその恐怖は襲いかかってきた。
「苗字。君のことが、俺は、」
「…?」
それでも、俺は伝えたかった。恐怖と同時に、それを飛び越えるほど、乗り越えたいと思う程に、俺は君のことが――苗字のことが。
「好きだ」
その言葉は、己の口から溢れると呆気なく静寂の中を響き渡った。その一瞬で俺は、さまざまな念に駆られる。彼女は目を丸くし、小さな口をぽかんと開けていて、今の状況をあまり理解出来ていないようだ。それもそのはずだ。俺は彼女に対して何の触れもしていなかったし、今だってただの帰り道――大学から駅まで向かっている道中だ。そんなときに、唐突に告白なんてされると思わないだろう。
彼女は、小さく「えっ」と言葉を漏らした。その声色は明らかに動揺、焦りなどを含ませているせいか震えていて、急激に俺は情けない気持ちになった。まだ返事も何も言われていないのに、断られてしまったような想いに襲われる。全国、いや全世界の男諸君はいつもこんな思いをしていたのか。
「え、あっ、…えっと」
「…」
「少し、待って」
今まで歩き続けていた二人の足が、彼女のその一声でどちらも止まった。目の先に商店街があるはずなのに、賑わいの声はちっとも聞こえない。それどころか、誰の声も聞こえない。周りを見渡す度胸も今はなかったが、駅へ向かっている大学生が俺たち以外誰もいないということにも何となく気付く。まるで、俺たち二人だけの空間のようだ――と言いたいところだが、俺が彼女の次の反応に全神経を集中し過ぎて、他の世界が全く見えていないということだとも自覚していた。
少し待ってと促されてから、一向に返事はなかった。困らせてしまったか、と胸の中でぼやく。何と断れば俺が傷付かないで済むのかと考えているのかもしれない。彼女はお人好し過ぎるんじゃないかと思うくらい、人思いだから。
そんな必要はないということを伝えようとし俺は一度彼女の顔を伺おうとした。しかし今度は俺が目を丸くし、間抜けな顔を浮かべる番だった。彼女は口元を震わせ、目は潤っていて、今にも涙が溢れそうだった。何事だと、ゾッとした。
「す、すまない!そこまで嫌だったとは思わなかった」
俺は咄嗟に謝った。覚悟とかタイミングとか関係なしに、彼女のその表情を見た瞬間に。謝るしかないと思って、真正面から。すると、彼女はビー玉のような瞳を更に見開いては、ぶんぶんと首を横へ振った。
「ちがっ、違うよ、降谷くん」
「え…?」
「わたしも、好きなの」
耳を疑った。全神経、彼女の声に集中させていたはずなのに。
「私も、降谷くんのことが、好きなの」
彼女のその言葉を聞いて、一体どのくらい時間が過ぎたか。数秒だったかもしれないし、数十秒だったかもしれない。到底俺には分かるはずもなかった。ただ、着々とその言葉を頭の中で理解していくのは分かった。彼女も、俺のことが、好き。つまり俺の想いは、――叶った?
「…本当か?」
「うん、ほんと。降谷くんのこと、ずっと好きだった」
「!」
頬を上気させながら、彼女は恥ずかしそうにそう暴露した。その瞬間、俺の中で何か破裂したような気がした。柄にもなく、彼女を抱き締めたいと本能に駆られるが踏み留まる。こうなれば、まだ彼女に言わないといけないことはウンとある。俺は、先ほどよりもずっと軽くなった気持ちで、だけどこれから告げる言葉に大きな責任を乗せながら、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「俺と、付き合ってくれるか」
「…はい、お願いします」
その返事を聞いて、俺は体全身に入っていた力が一気に抜けた。そして大きな安堵の息を漏らした。良かった、嬉しい、良かった、嬉しい…その感情が、ごっちゃまぜになって溢れる。
「ふふ」
「…何かおかしいか」
「降谷くんが、あんなに緊張してるの見るの、初めてだったから」
未だに頬の赤い彼女は、面白そうに、でもまだ照れ臭そうに俺をそうからかうように言う。彼女はもうただの友人でも、想いを寄せる友人でもなくて――俺の、恋人なのか。
「初めてなんだ」
「何が?」
「告白するの」
「えっ」
「……人と、付き合うとかも」
「ええ!それは…意外だ」
それじゃあ、私がはじめての彼女なんだね。何だか降谷くんの人生で結構、記憶に残るやつじゃんね。だから、たくさん良い思い出作ろうね。矢継ぎ早にそう言葉を並べる彼女が、途端愛おしくなった。俺も彼女も、想いは同じなのだという安堵感と自信。
「名前」
「は、はいっ」
「そう呼んでもいいか」
もう既に呼んでるのだから、それを尋ねるのは野蛮かもしれない。
「ぜひ、呼んでください」
「…あぁ」
「それじゃあ私も、いいかな?」
「ん?」
「零くん」
――って、呼んでも。引きかけていた彼女の頬の熱が、また再発し始めて真っ赤になっている。そう言っている俺も、首元がやけに熱かった。俺は微笑を浮かべてそれを肯定の意味と彼女に向けた。
周りには人がいない、何の音も聞こえない。それが本当なのか、はたまた俺が全神経を彼女に集中させているからなのかは分からない。俺は前者だということに期待して、彼女の小さな肩に手を置いた。それが何の合図なのかを悟った彼女は、緊張した面持ちを浮かべた後、そっと、ゆっくりと、目を閉じた。瞼が、待ち受ける唇が、ほんの少し震えている。俺は、その無垢な唇に己のそれを重ねた。何せ人生で初めてだ。それは、下手だろうし、不恰好なものだったかもしれない。だけど彼女はやさしく受け入れてくれた。
数秒のち離れると、どちらからともなく俺たちは笑い合った。
「零くん、見て」
「ん」
「月が、さっきよりも綺麗だよ」
それを聞いて、月明かりに照らされている名前の方が綺麗だ、なんて思ってしまうほど、俺は幸せの絶頂にいるのだということは確かだった。
//180210