人に好意を寄せられても、その核心がつけなかった。家族でも親戚でも友人でもない、異性への好意というその感情が理解できなかった。元はといえば赤の他人と、なぜ一緒にいたいと考えるのか。分からなかった。それ故、俺は好意を告げられても断る術も知らずさまざまな女と付き合った。それが果たして最善の選択なのかさえ分からないのも、俺がきっと異性に対して本気で好意を寄せたことが無いからだろう。「降谷くん、とってもイケメンよね」「こんな格好良い彼氏がいて、私ってば誇らしいなあ」今まで交際したことがある女は決まってこう言う。恋人というのは自分の株を上げるためだけのお飾りなのか。いや、違う。俺がただたんにお飾りにされていたのかと気付き、自嘲したのは高校卒業の頃だった。こんなのだから、俺はいつまで経っても異性に好意も持てなかった。それどころか、人の好意もいつしか受け入れることが出来なくなっていった。
はずだった。
「ふーるやくん」
こじんまりとした、知る人ぞ知る小さな地下カフェで一人、ついこの前に図書館で借りた作品のページをめくっていると両肩に僅かな重みを感じたかと思えば、待ち侘びていた声が左耳から聴こえた。鼻腔をくすぐるのは紛れもなく彼女のシトラスの香りで、思わず俺は一つ息を飲んだ。
「おまたせ。遅くなっちゃってごめんなさい」
「大丈夫だ。そっちこそ、電車が遅延なんて災難だったな」
「本当だよ。人身事故には敵わないや」
「人身事故だったのか」
彼女は俺が座る向かいのソファ席へ腰を下ろすと、彼女の来店を見かねてやってきたカフェの店員にコーヒーをひとつ頼んだ。荷物を自身の隣にまとめひと段落しては俺と目を合わせて、ふう、と一息ついて口元を緩めた。こっちも気が抜けてしまうような柔らかい笑みに思わずつられていると、暫くしてコーヒーが届いた。彼女は律儀に店員の目をしっかりと見て、「ありがとうございます」と頭を下げた。ここまで店員に対して丁寧に礼をする人が多くいるか?いや、いないだろう。普通ではない行動のように見えても、彼女にとっては至極当たり前の行いで。いつまで経っても彼女と人間性には関心させられる。これが彼女の魅力の一つだ。そう、一つに過ぎない。
すらりとした細く白い指が器用な手つきで、ブラックコーヒーにスティックシュガーを一つ入れ、また一つ。彼女がコーヒーを飲むときは必ず砂糖を二ついれるのも、すっかり把握していた。ミルクを入れないのが彼女のこだわりだということも。
「今日はなに読んでたの?」
「…『シラノ・ド・ベルジュラック』」
「エドモン・ロスタンの?」
「ああ。さすが、君は良く知ってるな」
「そんなことないわ、シラノってとても有名じゃない。それにしても…」
「ん?」
「降谷くんが戯曲を読むって珍しいね。しかも恋愛もの」
ほら、降谷くん言ってたじゃない。基本ミステリーしか読まないって。付け足しそう言われ、確かにそう彼女にぼやいた日を思い出した。出逢ってまだ間もない頃、一緒に大学の図書館で本を眺めているときに「降谷くんはどんな話をよく読むの?」と聞かれ、俺はこう答えた。基本ミステリーしか読まないし、何より恋愛ものは手をつけない。あまり理解ができないんだ――と。どれだけ内容が良いと評判があっても、どれほど描写がうまく書けていても、人の抱く好意という感情でさえ分かっていない俺が、架空の作品の恋愛を理解できるわけがなかった。彼女にそう聞かれたときは心底そう思っていた。そう、その当時は、だが。
「…まあ、たまには違うジャンルも読みたくなるよね。今はどのあたりまで読んでるの?」
彼女は人の懐に入るのが得意だ。もちろんズカズカと強引に入り込むのではなくて、物腰柔らかく落ち着いた彼女の雰囲気に気が付けば心を許してしまっているようで。しかし、どれほど仲の良い相手でもきっちりと一線は引いていて決して不快感を与えさせない。知ってほしくない、あまり聞いてほしくない――そんな相手の感情を彼女は瞬時に気付いては悟り、違う話題へと展開してくれる。それが更に居心地の良さを極めているのだ。
いきなり恋愛ものを読み始めたのは、俺が今まで理解することの出来なかった“異性への好意”に近いようで、似たような、そんなものを自分自身が抱いたからだ…なんて言えば彼女はどんな反応をするだろうか。自分のこの感情が果たして、一般的な恋愛の、異性への好意で正しいのかを。知人に聞くなんぞ恥ずかしいことは出来ないがために、こうやって恋愛ものの小説や戯曲を読んで確かめているのだと言えば、彼女はどう思うだろうか。笑うだろうか。変だと思うか。いや、変だろうな。それは自覚しているさ。
・
・
*
ある一組の女二人の客が、満足そうな顔つきを残したままカフェを出た。何気なく、腕時計を確認すると短針は5を既に越していめ、ここへは1時間以上居座っていたということに気が付いた。目の前にいる彼女も、そのことを察して「そろそろ出ようか」とほんの少し残念そうに、そう言った。
会計をするとき、俺は彼女の分のコーヒー代も支払った。人の良い彼女のことだから予想はしていたが、存外申し訳なさそうにしていた。「ごめんね、ありがとう降谷くん」そう控えめにお礼を言う彼女に、「男なんだから、このくらい払わせてくれ」と格好つける自分が馬鹿らしく思えたし、後から恥じらいも感じた。高校時代に俺に寄り添ってきていた女たちは、何が何でも自分を良いように見せてきていた。だが、今の俺はそんな彼女たちとそっくり同じじゃないか――と悟ったとき、なんだか恋愛感情というものが身近なもののように思えた。
地下カフェを出て、彼女の後ろについていくように階段を上っていく。漸く地上へ辿り着くと、景色はオレンジ色に染まっていた。
17時過ぎだと、夏の場合はまだ空に青さも残っている頃だろう。逆に冬の場合は、もうすっかり黒に近い藍色に染まっている。
秋、十月の夕暮れ時。俺は一番この四季、この時間が好きだった。大きな夕陽に照らされる街並みを見て「綺麗だね」と感嘆の声を漏らしている、自身もオレンジ色に染まった彼女もまた、綺麗だった。
「名前は、人を好きになったことがあるか?」
気がつくと、そのような言葉が無意識のうちに溢れていた。人を好きになったことがあるか。まるでこれでは、自分は人生で一度もないと言っているようなものだ。いや正しいともいえるし……そうではないとも言えるが。彼女はそんな俺の摩訶不思議な質問を聞き、口をぽかんと開けていた。そんなものをいきなり聞かれても、頭の回る人の良い彼女は、しばらくすれば俺が何か困っているのではないかと眉根を下げることだろう。
「いや、言い方が可笑しかった。好きな人はいたりするのか?」
急いで前言を撤回して、俺は言い換えるようにそう問うた。これだと理解もしやすいし、言ってることは可笑しくないだろう。
しかし直後に自分が言ったことがどんな意味なのかを彼女云々の前に己自身が理解したとき、思わず冷や汗が流れた。何をきいているんだ、俺は。
「ええー、好きな人?」
「あ、あぁ、」
焦りのせいか声がどもってしまって情けないと思った。完全に今、俺と彼女の話題は“好きな人”になってしまった。やってしまった。望まない彼女の返答がいくつも容易に想像できる。心の中でぐるぐると後悔の念に駆られていたとき、彼女は少し照れ臭そうに微笑を浮かべる。
「いるよ」
鈍器で後ろから頭を殴られたような衝撃に陥った。ナイフのような凶器で心臓を一突きされるような痛みが広がった。自分で聞いておきながらこうなることは分かっていたのに、それでも尚衝撃は凄まじかった。そうか、そうなのか、それはそうか。普通なら大学生で、しかも女の子だ。好きな人の一つや二つくらい居るはずだろう。
「降谷くんはどうなの?」
「えっ」
「私だけ暴露するのは、フェアじゃないんじゃない?」
確かに、この質問は軽々と答えられるものではない。それを彼女だけ答えて俺は言わないのは卑怯なのかもしれない。
「…分からないんだ」
「?」
「気になる存在はいる。だが、それが恋愛感情としてなのかが分からないんだ」
彼女は頭の上にはてなマークを浮かべている。この際、もう話してしまおうかと心の中の自分が己を勧めた。
「生憎、俺はこの歳にして恋愛感情をよく理解してないんだ。だから…それを理解するために、恋愛ものを読んで答え合せをしてる」
「…」
「まぁ、笑ってくれてもいい。俺も変だって分かってる」
一体どうして彼女にこんなことを言ったのだろうか。自嘲するかのように鼻で笑おうとすると、「そうね」と力強い意思のある彼女の声が耳に入る。思わず俺は隣にいる彼女の表情を伺う。
「降谷くんは、『シラノ・ド・ベルジュラック』のクリスチャンみたいね」
「…は?」
シラノ・ド・ベルジュラックは、つい今俺が読んでいるもの。まだ結末まで読んではいないものの、終盤までは読み終えているから登場人物であるクリスチャンのことはもちろん知っていた。
クリスチャンとは、主人公・シラノのある意味恋敵という表現で正しいのだろうか恋愛感情というものをまだ理解していないから二人の関係性も明確には分からないが、多分そういう関係性だとは思う。主人公のシラノは従妹のロクサーヌという女性に恋い焦がれるが、ロクサーヌはクリスチャンと両想い。クリスチャンは姿こそ美しいが、ことばの貧しく、ロクサーヌにその恋心を打ち明けるすべを知らない。そこで、シラノは自分がロクサーヌに宛てて書いた恋文を渡し、これをクリスチャンが書いたものとしてロクサーヌに送るように言うのだ。
それからというもの、シラノはクリスチャンに代わって愛の言葉を送り続け、ロクサーヌはその言葉に陶酔していく。だが、あるとき、ロクサーヌが愛しているのは今やクリスチャンの美しい姿かたちではなく、彼が「書いた」恋文の内容が伝える人柄であることをロクサーヌに語られる。当時戦地にいたクリスチャンは絶望し、そのまま前線へ飛び出て戦死するという、哀れな男だった。
「俺が、クリスチャン」
「ほんの少し似てるってことだよ。今の降谷くんの状況に」
「状況?」
「降谷くんてば、本を読んで答えを合わせているって言ってたけど。私にそれを言っている時点で、私に答えを求めているんじゃない?」
彼女の口元がゆるりと上がる。
「クリスチャンはことばが貧しく、ロクサーヌにその恋心を打ち明けるすべを知らない」
「……」
「降谷くんは恋愛についての根本の知識が貧しくて、その想いを理解するすべを知らない」
ほら、ちょっと似ているでしょう?降谷くん、実は不器用タイプだったりするじゃない。楽しそうな、でも宥めるような優しく柔らかい笑みを浮かべながら彼女は続ける。
「それに私が思うには、そうやって答え合せとか云々考えてる時点で、」
降谷くんは、その人のことが好きなんだと思うよ。
凛とした声のはずが、どこか震えているような声。俺は思わず表情を伺うと、彼女はやはり柔らかい笑みを浮かべていた。
「――そうか」
「ふふ、降谷くんが恋心を自覚出来たようで良かったです」
降谷くんがクリスチャンなら、自分の気持ちを抑えて後押しをしている私はシラノかな。主人公の器なんかじゃないけどね。へらりの笑いながらそう言った彼女の言葉が引っかかった。自分の気持ち抑えて後押ししている?どういうことだ?今の話から考えれば、まるで彼女が――そうではないのか。
「…自覚したなら、次はその想いを当人に告げるべきか」
「まぁ、それは降谷くんの心の準備が整ったらなんじゃない?」
でも、降谷くんは心の準備なんて要らないかな。すぐさま行動する性格だもんね。そう言って彼女はまた笑った。先程から彼女は一度も笑顔を絶やしていなかった――きっと彼女はそれを俺が不自然に思っているなんて考えてもみないだろう。この時ばかり、俺は自分の洞察力の良さに有り難みを感じた。そして、俺の予測が正しいことを願った。
「そうだな。もう今言ってしまおうか」
「え?」
目を丸めた彼女を真っ直ぐに見つめて、俺も笑みを返した。彼女は俺をクリスチャンだといった。確かに、この類の言葉は多く持ち合わせていない。今だって、格好付けた割にこれといった言葉は出てこない。言葉の貧しいところも、クリスチャンにそっくりだ。本の中のクリスチャンは、それでロクサーヌに幻滅された。だけど、彼女はロクサーヌではない。きっと俺の不恰好な言葉にも笑って聞いてくれるだろう。
人に好意を寄せられても、その核心がつけなかった。家族でも親戚でも友人でもない、異性への好意というその感情が理解できなかった。だけど、俺は今、彼女から激しく好意を求めている。同じ気持ちであってほしいと願っている。これが人を好きという感情――これが恋なのか、と俺は口元を緩めたまま、目の前にいる彼女に向かって想いを告げた。
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