「分かんないよ」

 ぽろり。自分の口から溢れたその言葉は、自分の胸を締め付けるものでしかなかった。
 目の前に広がるネイビーブルーの海が寄せては引いて、心地の良い波音を奏でている。空に浮かぶ黄金の満月が、多数に散りばめられた星たちが、海にも映り輝いている。そんな美しい景色をぼうっと見つめながら、私はそう言い放った。

「ハウのことが、わかんないよ」

 ああ、ほら、また。胸の痛みがジンと広がる。自分で言っておきながら、勝手に傷ついているのだ。そんな私の心情など露知らず、隣に腰を下ろしている彼―ハウはいつもの通常運転通り、呑気に「なにが分からないのー?」と言い返してくる。そして、彼は左手にぎゅうと力を入れた。私の右手と重ねた、自身の左手に。

 だから、そういうところじゃんか。

 そんな私の心の叫びは当然この目の前にいる男に届くはずもなくて、ハウはいつものようにニコニコと笑っている。私の悩みなんて、これっぽっちも理解していないみたいに。いつもそうだ。私ばっかりが、ハウに心を振り回されてる。


 このアローラ地方に引っ越してきたばかりの私に、すぐさまハウがポケモンバトルを申し込んできたのは記憶に強く残っている。それからは共に島巡りを始めて、時たま再会してはまたバトルを申し込まれたり、一緒に試練の場まで向かったり、島巡りから外れてはハウに連れられてマラサダを食べたり、ポケモンセンターで一緒に休んだり。友達というよりかはライバル、だけどライバルというよりかは友達、そんな関係性だった。だけど、その曖昧さが私は逆に心地良かったし、今思えばずっとその関係であった方が私も気が楽だった。

 気がついたときにはもう、後戻り出来なかった。ポケモンとの仲だったりバトルに行き詰まってしまったとき、ハウが真剣に相談を乗ってくれたとき。いつもヘラヘラしているようで、彼はとてもよく様々なことを観察しているんだとようやく気付いた。そんな彼が、偉大すぎる自身の祖父――しまキングのハラさんにややコンプレックスを抱いているという彼の弱い部分を知ったとき、どうも他人事には出来なかった。辛い時や悲しい時にハウの笑顔を見れば、心底安心して気持ちが弾んで元気になれた。そう、いつしか私はそんな彼に惹かれていたのだ。ハウのことが、いつの間にか一人の男の子として好きになっていたのだ。


 けれど肝心のハウは、もちろんそういう恋愛系のことに関してはとことん疎いなんてことは重々承知していた。だから少しでもアピールしようとそっと手を繋いでみようとしても「あれー、どうしたのー?」って不思議そうにしながらも何の悪びれもなく手をぎゅっと握り返してくる。そして挙げ句の果てにはぶんぶんと繋いだ手を振りながら楽しそうに歩いていくのだ。そういうことなんだけど、そういうことじゃないのだ。

 しかし、それからというものハウはこうやって二人きりになると私と手を繋いでくるようになった。今だって――たまたま島めぐりの最中にハウと遭遇して、時間も遅いから一緒にポケモンセンターで休むことになって、ハウの提案で海辺にやってきて、お互い隣に腰を下ろして。そして、何も言わずにハウは私の手を取るのだ。やさしく包み込むように、そっとさりげなく。

 彼が、こうやって手を繋ぐのはきっとこの前のその一連の出来事から始まったのだと思う。私が強請ったから、ハウは私を喜ばせるためにしてくれているというか。ハウがそう言ったわけではないから手を繋いでくる真相は分からないけれど、きっとそういうことだ。可愛い可愛いと私を褒めてくれるのも、きっと私という“友達”を純粋に喜ばせたいが為なのだろう。そうに違いない。だって、ハウのことだもん。だけど、だからといって、そういうのを何の躊躇いもなくされるのは、本当に私のことを意識していないからなのだと痛感させられて胸が痛むのだ。

 それなのに、そう痛感しているはずなのに、私の右手を包んでいる褐色の左手が、時たま私を見つめてくる瞳が、とてもひどく優しくて。益々彼が分からなくなってくるのだ。分からなくて、わからなくて、苦しい。私の想いに気付いて、彼は私を振り回しているのだろうか。いいや彼は絶対にそんなことしない。だけど、もしも――。考えれば考えるほど沼に引きずり込むかのように理解不能に陥っていく。ハウという人間が、分からなくなっていったのだ。



「名前ー」
「……なに、」
「お月さまが綺麗だねー」

 ああ、もう、ほら。またこうやって、ハウは意味深な言葉を投げかけてくる。でももう分かってるから。単純にそれは月が綺麗ってことなんでしょう。そうだね、今日は本当に美しい満月だもん。まん丸で、輝いていて、この地上を照らしていて。若干投げやりな気持ちになりながら、「そうだね」と返事をすると、ハウが「あれ?」とこちらを伺ってきた。

「月が綺麗って、ちゃんと意味あるよねー」
「……え?」

 うーん、と頭を捻らせるみたいにうなるハウの言い分に、一瞬頭の思考が停止する。「意味って、ハウは、分かってるの?」震える声でそう尋ねれば、「当たり前だよー」と相変わらず呑気な声色でそう返事がかえってくる。ドクリ。心臓が強く跳ねた。

「あなたを愛してます、だよねー」

 ハウは言葉の真意を答えながら、大きな満月を見上げた。私の右手と繋がったハウの左手に、微かに力が込められる。まさかハウがそんなことを知っていたなんてと関心すると同時に、私はそれよりも気になっていたことを勢いよくここで投げかけようと思った。いや、この目の前の男に聞かなくちゃいけないという、そんな使命感があった。

「どうして、いきなりそんなことを言ったの」
「えー、どうしてって」
「どうして」
「……そ、それは分かるでしょー」

 ハウは視線を右往左往させ、冷や汗を流しながら口をぱくぱくとさせていた。ここまで彼が動揺しているのを見るなんて、貴重かもしれない。ハウはふい、と私から海の方へ目を移す。どうして、目をそらすの? 心の中でそう彼に問いただした時、はたと私はあることに気が付いた。

 目をそらしているのは、私も一緒だった。

 ハウが手を繋いできたりしても、勝手にハウがそういう子だからといってその真相に目を背けていた。友達だから、私のことなんて女として見てないから。もしそんな理由だったら? 本当の理由を聞いて、傷付くのが嫌だったから私は彼に真意を問いただすこともなかったのだ。こわくて、彼から逃げて、彼のことを分からない分からないとごねて、本当は分かろうともしていなかったのだ。なら、私も。しっかりと彼のことを分かろうとする気持ちが大事なのだとようやく気がついた。


「……わからない」
「ええ」
「私は、ハウのことがわからないよ」

 手を繋いでくるのも、可愛いねってたくさん言ってくれるのも。そうやって意味が知ってるのにも関わらず、私にそういう言葉を投げかけてくることも。ぜんぶ、分からない。

「だからね、」

 未だあちらこちらに彷徨っている彼の視線を捕まえて、真っ直ぐにその透き通った黒い瞳を見つめた。彼の瞳に、私の真剣とした顔が映っている。

「おしえて、ハウ」

 もう私も逃げないから。目をそらさないから。ハウが、私のことをどう思っているのかしっかりと聞くから。分かろうとするから。

 ハウはしばらく私の顔をぼうっと見つめていた。心ここにあらずというか、だけど頭の中で悶々と考えているような、とても難しい顔をしている。そして観念したかのように、ハウは視線を下におろして、ひとつ息を吐いてからゆっくりと口を開いた。

「名前に……その、」

 しばらく沈黙が続いたのち、ハウが顔をあげて、今度は彼が私の目を真っ直ぐに捉えた。心臓がどくりと跳ねる。

「名前に、言いたかったから」

 なにを、なんて聞くほど野蛮でもないし馬鹿でもない。目の前にいるハウは顔を林檎のように真っ赤に染めて、ぽりぽりと頬をかいている。そして、何から言えば良いのか分からなくなっている私の視線に遂に耐えられなくなったのか、ふいと顔を逸らされてしまった。「うわー、言っちゃったよー」そして、いつもの平常通りに振る舞いたいのか、わざとまたヘラヘラとだらしない笑みを浮かべてそうぼやいた。

「おれねー、名前のこと、好きなんだー」
「……それは、友達として? それとも、」

 これが、全ての答えになることを悟った。私は意を決してそう問うたけど、ハウはきょとんと不思議そうな顔を浮かべてからまたふんわりと花が綻ぶみたいに笑った。そして、私の右手と繋がったハウの左手に力が込められる。

「女の子としてだよー」

 ハウはえへへー、とのんきに笑いながら「これ、ちょっと恥ずかしいねー」とぼやき、繋がっていない片方の手で照れ隠しみたいに鼻をこすっていた。そんな目の前の彼が、だんだんとぼやけていく。

「え、……ええ!? 名前、なんで泣いてるのー!」
「っ…うう……」
「そんなに嫌だった!? ごめん、謝るよー! だから泣かないでー!」
「ちがう、嫌じゃない…」
「ええっ」

 ハウはどたばたと慌てながらも、ポケットからハンカチを出して私の涙を拭ってくれる。そんな彼のやさしさに、また想いが込み上げて涙が溢れるのだ。

「これは、嬉し涙だから」
「…うれし、なみだ?」
「私もハウのことが好き。ひとりの、男の子として」

 今まで伝えたくて、だけど秘めていたその想いをようやく彼に届けることが出来た。言えた、やっと言えたんだ。すごく嬉しくて、たまらなかった。ハウは事を理解していないようで、しばらく目をぱっちりと開けたまま微動だにしなかった。けれども時間が彼の頭を整理してくれたのか、徐々にその表情が変わってゆく。

「それじゃあ、名前とおれは、両思いって、こと?」
「そう、……なるのかな」
「や」
「や?」
「……やったー!!」

 ハウは満面の笑みを浮かべながら、喜びを前面に押し出した。そんな彼を見てつられない訳がなくて。彼のその言葉に、また改めて実感をして。そっか、私、ハウと両思いだったんだ。なんだか未だに信じられないのが、もどかしいとさえ感じる。

「まさか、ハウが私のこと好きなんて、ちっとも思ってなかった」
「ええ、それはおれもだよー」
「……いつも手を繋いできたり、可愛い可愛いって言ってくれる理由が全く、分かんなくて。ハウってば、そういう恋愛とか、疎いと思ってたし」
「ああ、えっとー。それはね、」

 リーリエが教えてくれたんだ。おれが名前のことひとりの女の子として好きになっちゃったんだけど、どうすればいい?って聞いたら、アプローチするしかありませんって言われてー。そのアプローチの仕方が、さりげなく手を繋いだり、褒めてあげたら女の子は喜ぶって教えてくれてー。あ、もちろん、名前のこと可愛いって言ったのは本心だよー! 名前はいっつも可愛いもんね。バトルしてるときは、格好いいもんねー。おれのアプローチ、伝わってたのか分かんないけどー、でもこうやって両思いになれたから良いよねー。

 全ての真相を洗いざらい話してくれたハウに、思わず拍子抜けしてしまった。つまり、今まで私が頭を悩ませていた彼の行動というのはリーリエの助言からだったのだという。私はリーリエに、ハウに対しての想いを話したことがあるからきっと企んでそうハウに教え込んだに違いない。う、うわあ。そういうことだったんだ。なんだか、今まで彼に(というかリーリエにも)翻弄されるようになっていたことが恥ずかしくも思えて仕方なかった。でも彼の言う通り、両思いだとお互い分かることができたんだから、もうなにもかも良いのかもしれない。


「名前ー」
「なあに」
「ハグしていいー?」

 返答する前や否や、ハウはずっと繋いだ手をほどいてがばりと勢いよく私を抱きしめた。いつもへらっへらしてるけど、彼の胸板はとてもしっかりしていて、やっぱり男の子なんだなあって思って、きゅんと胸が高鳴ったような気がした。少し照れくさいけど、私もおずおずと彼の背中に腕を回すとより一層彼と体温を分け合っているような感覚に陥る。

「ねえ、ハウ」
「なにー?」
「これからは、お互い伝えたいことはちゃんと目をそらさずに言葉で表そうね」
「ん、わかったー」

 なんだか随分と適当な返事だったから、本当に分かってくれたのかな。そう不安に思っていたけれど、それはどうやら杞憂のようだった。
 ハウは、ぴったりとくっつけていた体をほんの少し離して私の目を覗き込んだ。どうしたんだろうと不思議に思ったのも束の間、彼の顔が視界全てに埋まっていて、唇には柔い感触。頭が沸騰しかけた。

「名前、だいすきだよー」

 へにゃりとすごく幸せそうな笑みを浮かべたハウに、自分の真っ赤な顔を見せたくなくて今度はわたしからキスをした。やっと収まりかけていたハウの顔がまたみるみるうちに林檎のようになっていって、してやったりと私は笑みがこぼれた。

「ハウ、わたしね」
「う、うんー!?」





「なんでー! ダメだよ、死んだらー!」
「えっ、月が綺麗ですねの定番の返事だよ」
「なにそれ知らないよー、死んじゃダメだよー!」
「しし、死なないってば! 私はあなたのものですって意味だから! ちょっ、ハウ、泣かないで!」

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