2月中旬。振り返ればあっという間だった一年もあと数週間で終わろうとしている。季節は冬を極めていく一方で、現在七時過ぎ、気温は三度。日が落ちるのも早くなって既に辺りは真っ暗。生まれた時からつい去年までインドアを極めていた人間としては、それはそれは堪え難い凍てつくような寒さだった。未だにこの時期の平均気温が一桁っていうことが信じられない。しかも年が明けたら益々寒くなるって何事? どういうこと? なんて、去年もずっと結論に辿り着くこともなく考えていた気がする。そう、何を隠そう私は寒がりなのだ。しかし私はインドア人間を去年めでたく卒業し、今は晴れて稲実野球部のマネージャーをさせてもらっている。そうつまり、基本は外でせっせと働いているということだ。夏は茹だるような暑さでそれはそれでたまらなかったけど、それより寒がりの私にとって冬はとにかく凍る。絶賛真っ最中の冬練とかマジで死ぬ。メンタルやられまくる。寒すぎて辛すぎて。特に水仕事! 洗い物とか洗濯とか地獄過ぎて理解不能過ぎる。もはや効果があるのかないのかは分からないけど、ジャージの中にヒートテックを5枚重ね着し、カイロを腰や背中はもちろんのこと足の裏、お腹にも常備。それでも寒い。寒がりってね、本当にいいことない。東京の冬でこんなんじゃあ、私北海道の冬とかどうなっちゃうんだろう? それこそ凍死するのかな?

「っ……ヒィいい!!! あーあーあー!! イ・タ・イ!!」

 今私がいるこの水道場はグラウンドから少しかけ離れているところに設置されていて、選手は整備や片付けをしてるから周りには文字通り誰もいない。だから洗い物をしているときは思う存分に叫べる。引かれる人もいないから大丈夫。こんなの叫ばないとやってけないのだ! ああもう、冷たい。冷たすぎる。ていうか痛い。マジで痛い。これは本当に経験したことがある人にしか絶対に分からない。この刺すような手の痛みは。

「冷たさを通り越して痛いんだよ、ったく……う、ううう、イタっ……そして冬の洗い物で辛いのは蛇口から出てくるこの水ではない。水と思うでしょ、違うんだ…ヒィ…イタタタっ! そう、一番の敵は風!! うう、風!止め! 止むのよ! 誰もお前を求めてなっ…いっッッ…つーー! 冷え切った手に凍てつく風が襲うなんて……激しすぎる追い討ち! ううう…泣きそう…早く泡よ…冷たい痛いうう…泡よ流れてくれ……っヒィイイだから風あんたは止んでーーー!」
「さっきから一人でピーピーうるせえな」
「!?!?!」

 驚きのあまり思わず洗い流していたコップが手から滑り、それは水道場に着地することなく私の足元に転がっていった。はい洗い直し決定。アーメン。……じゃない!!

「まままま雅さん! なんでこんなとこに!」

 一つ上の我らが元キャプテン、雅さんがいた。

「整備終わって暇持て余してたからよ」
「それでここに来てくれたんですか?」
「……まあな」
「きゃっ! 雅さんったら! 私がいるから来てくれたんですか〜!?」
「それよりお前、頭大丈夫か? 独り言やら奇声やらが酷かったが。ついに寒さでやられたか?」
「し・つ・れ・い・な! まぁ寒さでやられてるのはあながち間違いじゃないですけど」
「だろうな」

 相変わらずふてぶてしい表情をしている雅さんだけど、眉尻がちょっと下がってる。これは彼の笑っている証である! かっこいい! この、ちょっと呆れたような雅さんの顔が私はすごく好きだったりする。ん? いや、でも待って。あんな一人で叫んでるのを見たら引くのちょっとどころじゃないよね? かなりドン引きだよね? うわあ、最悪かも。
 私は転げ落ちてしまったコップをよっこらしょと拾い上げた。着込みすぎて体が思うように動かないのだ。少し、というよりかなり憂鬱な気分になりながら再びそのコップを洗い直す。……ヒィィ!! 駄目だ! やっぱり冷たすぎる。痛すぎる。奇声だとか頭大丈夫だとか言われてもドン引きされても何でもいい! これでこの地獄からほんの少しでも気が紛れるんだから!! でも、雅さんに(何だこの女)って嫌われたくもない! ……ん? ひょっとして、もう思われちゃってる?

「いきなり叫ばなくなったじゃねーか」
「ふふん、でしょう…いっヒィ……」
「冷たいなら変に我慢すんな」
「うう…やっぱり雅さんはナイスガイ……私の心配は杞憂! う〜あーつめたいぃぃ!! はい!ここは迅速に! 素早く! だけど丁寧に! 丁寧かつ迅速に! はい終わりました雅さん!」
「やっぱりうるせーな。全部終わったのか?」
「洗い物は全部終わりました!」
「そうか。毎日毎日お疲れさんだな」
「ふふふ!」

 雅さんに褒められて気分上々だ。こみ上げる嬉しさが抑えきれなくて、口角がにんまり上がっているのを必死に堪えようとするけどそれも無理な話だ。すると、雅さんがまた眉尻を下げて手を私の方へ伸ばして来た。
 ぽん。大きくて、温かい手が私の頭の上に乗った。私の、大好きな、大好きな手。わたしの、大好きな、




「雅さん、……わたし寒いな!」

 背の高い彼の顔を見るには、空を見上げるみたいに視線を上げないといけない。少し窮屈だけど、でも距離感が私はとても大好きなのだ。

「……ったく」

 雅さんは小さな小さな溜め息をついて、私の頭に乗せていた手を放した。そしてお互いの距離がぐっと狭まったそのときには、雅さんの大きな腕に包まれていた。雅さんの香りがふわっとした。

「んふふ、雅さんあったかい」
「おめーは相変わらず冷え性だな」
「……うん」
「こんなモコモコになるまで厚着してるくせに」
「雅さんはすーーーんごい温かい!」
「……さっきまで軽く体動かしてたからじゃねーのか」
「そっか……そっかあ」

 ぎゅうと雅さんの胸に耳を当てると、微かに鼓動が響いてくる。わあ、雅さんの心臓がすごいドックンドックンって波打ってる。寒くて仕方ないし、今でも足裏は感覚がないくらい冷たいのに。心がぽかぽかしてるって、きっとこういうことなんだろうなあ。ね、雅さん。雅さんもぽかぽかしてくれてるのかな? ……そうだったらいいのになあ、なんて。

「ねえ雅さん」
「ん?」
「……北海道って、」

 これから、あなたにとってホームグラウンドになる北海道って。

「東京よりどれくらい寒いのかなあ?」
「……さあな」
「行ってみないと、分かんないですね」
「……そうだな」

 雅さんの声を聞いて、彼の胸元のジャージをきゅっと無意識に掴んでしまった。
 先々月のドラフト会議で、雅さんは北海道の球団に二位指名された。すごい。とってもすごい! 部員も、国友監督も、林田先生も、学校の先生も、稲実の生徒みんなも、――私も。みんなが祝福して、みんなが彼の存在を誇った。それだけでなんだか雅さんが遠くなっちゃったような気分なのに。雅さんはあともう二週間そこらで入寮してしまう。精神的だけじゃない、もう物理的にも距離が出来てしまう。嫌だな、嫌だよ。雅さんと離れたくなんかないよ。……なんて、言えるわけないし、言う権利だって私には微塵もなくて。あーあー、もう! やだやだ! もどかしいなあ!

「それじゃあ、雅さんは速攻一軍に定着して、早く北海道に一軒家建てて下さいね!!」
「唐突だな」
「それで、私が北海道に遊びに行きます!」
「……そうかよ」

 雅さんはちょっぴり嬉しそうにそう言い捨てて、私の頭をぐいっと更に自分の方へ引き寄せてくれた。ああ、そんなことされたらこう、胸がきゅんってなってしょうがなくなるからやめてほしい。うそ、もっとやってほしい、なんちゃって。
 目の前にある体に頼りながら背伸びをして、雅さんの顔に近寄った。もう、眉間に皺を寄せたら周りの子たちを脅かしちゃうから辞めておいた方が良いって言ったじゃないですか! まあ私は当然、そんな雅さんの顔も好きだから怯えたりしないんですけどね。

「近ぇな」
「そうですか? 照れちゃいますか?」
「うっせーよ」
「あ〜! 照れてる!!」
「黙れ!」

 雅さんってコワモテって言われてるけど、こんなにも可愛い一面があるなんて知ったらみんなは驚いちゃうかな? でも出来ることなら私だけが知っていたい。でもみんなにも教えたい! 無い物ねだりって、きっとこういうことを言うんだよね、雅さん。
 調子に乗る私の頭を少し鬱陶しそうにがしがしと撫で回す雅さんに抵抗しつつも、目をしっかりと開けたときには視界いっぱいに雅さんの顔があった。私は吸い寄せられるように、そのまま雅さんの方へ顔を近付ける。

 ぴとり。

「わっ、雅さんのほっぺた冷たい!!」
「さすがに顔はな。お前のほっぺたも冷てぇよ」
「どっちの方が冷たいかな?」
「っおい、そんなになすりつけるな」
「それにしても、雅さんお肌カサカサですねえ」
「男がツルツルなのも気色悪いだろ」
「そうですか? 雅さんがツルツルお肌って可愛いじゃないですか!」
「……お前なあ」

 雅さんのほっぺたに自分のほっぺたをくっつけると、お互い同じくらいに冷たくてなんだか嬉しくなった。こんなことをしたら余計に雅さんの気持ちが大きくなっていくのは分かりきっていることなのに。


「……あーーあーー。でもやっぱり寂しいな。雅さんが居なくなるの!」
「まだ行かねーだろ。明後日からは冬合宿も始まんのに、そんなんでマネージャー大丈夫か?」
「それとこれは別ですう! 雅さんは分かってないですね! 女の子が寂しいなって言ったら俺も寂しい、とかその分活躍してくっから、とかカッコいいこと言わなくちゃですよ!」
「へーへー」

 でも、この気持ちは到底抑えきれないんだからしょうがないじゃないの。ね、雅さん!
 そう心の中で問いかけたとき、ザッザッと少し近いところから足音がなんとなく耳に入ってきた。多分それは雅さんの耳にも届いていると思う。

「雅さん、ちょっと待って、」
「……」
「あとちょっとだけ」

 誰かが来てしまう。来てしまっあらもう、この幸せであったかい時間は終わってしまう。終わらせないといけない。だからどうか、そのギリギリまでは――。


「――はい!! 超あったかカイロ終了!」
「人をカイロって呼ぶな」
「ええ〜実際そうじゃないですか! ありがとうございます、雅さんっ」

 名残惜しさも感じながら、雅さんの温もりから離れた。それまで感じていなかった寒さとか冷たさとかが一気にまた襲いかかって来て、なんだか心もじんじんと痛くなって。

「それじゃ、部室行くか」
「……」
「それ持ってくんだろ」
「……」
「苗字?」

 こうやって二人で過ごす時間なんて、もうないのかな。雅さん、遠くに行ってほしくないよ。ずっと私のそばに居てほしい。

「……」
「……」
「…………名前」
「…はい! すみません、ぼーっとしてました!」
「……やっぱ寒さでちょっとやられてんじゃねーのか。ほら、行くぞ」
「わわっ、置いてかないで! ちょっと待って雅さん、一緒に行きましょうよー!」
「うるせ、早くしろ」

 ねえ雅さん。まだもうちょっと、一緒にいたいです。そう言いたいのに、言ってしまいたいのに、言ってはいけない私はどれだけわがままで可哀想なんだろう。どれだけ寒いときに洗い物をして追い討ちで風が吹いたときの手の痛さよりも、もっと遥かに上回る痛さが私の心を突き刺した。冬はこれからなのに、わたしったら大丈夫かなあ。



//181010