この世界は、かなり広かったようだ。
 どうしてそんな曖昧な言い方をしているのかというと理由は簡単で、私はこの世界の広さをよく知らないからだ。ハイラル城下町でひっそりおばあちゃんと二人暮らししている私がそんなこと知る由がない。ゾーラの里とかゴロン鉱山とか、地名の話は聞いたりするけどそれがどこにあるのかさえも、このハイラル城下町から遠いのか近いのかもさっぱり。なぜそんなに無知なのかというとこれまた理由は簡単で、私はそんなものに特別興味がないからだ。生まれてからこの方ハイラル城下町から出たこともない。かといって外の世界に好奇心が芽生えるということもなかった。だってハイラル城下町だけでも十分に広いし、基本何でもあるし。

 しかし、そんな私は今目の前にかつて興味のなかったこの世界の地図を広げていた。なぜそんな気が変わったのかというと、それは現在進行形で私の隣に座っているこの男がきっかけだったということは明白だ。

「広い?」
「うん。とっても」

 私のその返事に「ほら」と小さく笑ったこの男、名はリンクという。

 容姿端麗、温柔敦厚。何するにしても器用で、老若男女誰に対しても分け隔てなく接する。そんな性格の良くて若いイケメンことリンクはこの城下町では今や人気者だ。流行りや外に興味がない私でさえ、知り合う前から彼の存在は知っていたほど。スタアゲームに挑戦する彼へ、キャアキャアと黄色の声援を送る女の子のファンたちが凄いんだもの。

 まあ、そんなリンクと対照的かのように街外れで質素に暮らす私がなぜ今こうして一緒にいるかというと。これまたリンクのイケメン談になってしまうんだけれど、商店街で大量の買い物をしてほぼ前が見えなくなってしまうくらいの大荷物を抱えて帰路についていたとき、さらりと助けられたのだ。「よかったら持つよ」って。緑の衣を着ている彼が、噂の彼だということにすぐ結びついた私は思わず感心してしまったことも記憶に新しい。本当に紳士だったから。

 荷物を家まで持ってくれていた僅かな時間に、私はリンクが今何をしているのかを聞いた。日々呑気に暮らしている私にとってその話の内容はとても重かったけれど、とにかく彼はとてつもない使命を果たそうとしているのだということは理解していた。聞くところによると私と同い年らしくて、そんな大変なことを一人で全うしようとしているなんて凄いと心底尊敬だってした。

 それからというもの、リンクは城下町に来る度になぜか私の家へ訪れるようになっていた。どうしてかは分からない。毎回のように外の世界の食べ物や見たこともない植物を持ってきてくれて、そして二人でお茶をして彼は帰る。もう一度言うけれど、どうして毎回私の家へ寄ってくれるのか、その理由は分からない。やんわりとこの前聞いたことがあるのだけれど「迷惑、だったか?」と悲しそうな目をしてくるものだから急いで否定する私を見て、次は嬉しそうに「良かった」とはにかむだけだった。結局求めていた答えは聞けなくて、その後に改めて問いかけてみても上手くかわされるばかりだったから、それ以降その類の質問を彼に投げかけることはなかったし、しようとも思わなかった。とはいえ私たちが生きるこの世界の平和を取り戻そうとしてくれている勇者様だし、彼がそれで満足してくれるならと私もリンクを受け入れていた。

 私はリンクのことを、噂だけで純然たる完璧な男と想像していたのだけれど、実際のリンクは意外とやんちゃでよく笑うし、外の世界に興味がないと言っているのにいつもそればかり話す頑固なところもあった。何度か料理を振る舞ったことがあるのだけれど、トアルカボチャのスープが大好物らしくて何度も「美味い!」と言ってくれてはおかわりを頼まれた。ファンの女の子たちが知らないような、そんな彼の一面を見てどこか優越感に浸っている自分もいたときに私は彼に対して好意のようなものを抱いていることに気が付いた。それが恋心なのかどうかは、経験値が滅法少ない私には微塵とも分からない。なんて言ってる時点で答えは露わになっているんだけれど。

 もっと私に外の世界の興味を持って欲しい。リンクはいつもそう口にしていて、この世界についてたくさん語っていた。とはいえ初めはやっぱりというべきなのか、どうしても興味が湧かなかったのだけれど。
 人間っていうのは案外単純な生き物で、何度も繰り返されると心境も変わってくるものである。それに、名前もつけられないほどの淡い想いを抱えている彼が嬉々と話す姿を見て、その想いが加速する度に私はその世界とやらにいつしか興味が沸いていた。リンクの見ている、この広くて美しい世界に。そして気が付けば今こうして彼の所持品である地図を眺めているのだ。

 持ち主が頻繁に使っているのがよく分かる小汚くて薄っぺらい地図。こんなものを見ただけじゃあ世界なんて分からんでしょうと思っていたけれど、私は初めてそれを目にしてとても驚愕した。地図の真ん中にはハイリア城があって、周りには橋がいくつもあって、そこからたくさんの平野と繋がっていた。平野の先には私が名前だけ知っていたゾーラの里、ゴロン鉱山もある。どこまでも果てしなく続いている大地。今までの世界というのはこのハイラル城、そして城下町が全てだった私はすごく不思議な気持ちになった。だって、城が豆粒みたいな大きさに見えるもの。

「ねえ。リンクはこの前、どこへ行ってたの?」

 常にこの世界の各地を行き来しているリンクにそう尋ねると、「この前は」と前置きをして私の手をそっと掴んだ。距離がぐっと近くなって変な声が出そうになるのを堪えた。そのまま彼は掴んだ手を誘導させて、私の指で地図のある一点を指した。

「ここ」
「……ここはどこなの?」
「ゲルド砂漠」
「砂漠って本当にあるんだ。水はないの?」
「無かったよ。もう一面砂だらけ」
「へえ。絵本の中のお話みたい」
「凄いだろ?」
「もう、どうしてリンクが自慢げなのよ。……ねえ、その前はどこ?」

 その前はここ。その前の前は、ここ。リンクは私の指をわざわざ案内させて地図で説明した。ゲルド砂漠に、ゾーラの里。西のゴロン鉱山にはデスマウンテンといった活火山があって、麓にはカカリコ村という小さな集落もある。その村には今幼馴染や仲の良い子供たちがいるから良く行くんだ。そうだ、あそこは温泉がすっごく気持ち良い。いつか名前にも行ってほしいな。楽しそうにそう説明するリンクを見ていると私もつられるように笑みが込み上げた。

「じゃあ、これからはどこへ行くの?」
「次はこの、スノーピークっていう雪山」
「名前からして寒そう……」
「……極寒らしい」
「だろうねえ」
「大変だよ、勇者ってやつは」
「あら。勇者様が弱音を吐いてるわ」

 彼のちょっとした冗談に少しからかうようにそう突っかかると、リンクはいつもの凛々しく吊っている眉尻を下げて、言うのもなんだけど情けない顔をしていた。あら、何か言い返されるのかと思っていたけど予想は外れたようだ。リンクはそんな弱々しい表情をしながら私の目を見上げるように覗き込んだ。

「名前の前だけだから。許してくれよ」

 そう言って、リンクは私の頭をがしがしと毟るように撫でた。遠慮を忘れているのか、はたまた純粋に力を込めてるのか、かなりの強さで頭を掻き毟られる。ああ、もう! せっかく今日は誰かさんのために髪の毛を綺麗に整えていたのになんてことをするの!

「ちょ、ちょっと。女の子の頭を撫でるならもっと優しくしないと嫌われちゃうよ?」
「…名前のことか?」
「なあにその言い方。私は女と思ってくれていないのかしら」
「なっ! ちがっ」
「ふふっ、冗談よ。女の子みーんなのこと」
「……」

 本当にリンクって鈍感で少し抜けてるところがある。そこがまた面白いから、ついついからかってしまうんだけれど。こんな人がこのハイラルを救う勇者様なんてちょっぴり信じられないような。私はリンクが戦っているところは愚か、剣を振るっているところだって見たことがないから。
 すると、なぜかずっと黙りこくっていたリンクが口を開いた。

「他の人に、こんなことはしない」
「え?」
「……さっきから言ってるだろ。名前だけだって」

 機嫌を損ねてしまったのか、リンクの声色は少し怒気を含ませたようだった。けれど、そんなことを言いながら私のぐちゃぐちゃになってしまった髪を今度は丁寧に解いて戻してくれていた。その彼の手付きがひどく優しくて、彼の蒼い目が優しくて、青いピアスが飾られた彼の耳が朱く染まっていて、私は首元からじわりじわりと熱が浮かび上がってくるのを感じた。とりあえず、何でもいいから言わなくちゃと口を開けようとした瞬間にどうやらリンクは私の髪を整え終えたらしく、ポンとひとつ頭を軽く叩いては「ん、元通りになった」と口角を上げた。私の狂ってしまった調子は元に戻ってはいないんだけどね、なんて心の中で彼に悪態をついてみた。

「…リンク」
「ん?」
「リンクが住んでいるのは、どこなの?」

 教えて、と私の手を彼に差し出した。リンクは一瞬キョトンとしていたけれど、すぐに微笑んで私の手を嬉しそうに取った。リンクの手によって、誘わられる私の指は地図の一番南の位置へと到着した。

「ここ。トアル村っていう、小さい村なんだ」
「へえ…リンクはここで暮らしているのね。城下町からどのくらいで着く?」
「歩いてたら一日じゃ足りないな」
「ええ! そんなに?」
「エポナに乗ったらすぐだよ」
「さすがはエポナね」

 それにしても歩きだと丸一日使っても辿り着けないなんて、やっぱり世界とやらはこの地図で見る以上に相当広いらしい。俄かに信じ難いけれど、リンクがそう言っているなら間違いなく事実なんだろう。
 私は、地図に描かれたトアル村の地形をまじまじと眺めてはリンクの顔を見上げた。

「トアル村は、どんなところ?」
「自然が豊かなところだよ。城下町みたいに繁栄はしていないけど、 緑がいっぱいで食べ物も美味しいんだ。ほら、トアルカボチャは城下町でも売られているだろ? あれはトアル村で栽培しているんだ」
「えっ、そうだったの!? 確かにトアルって名前は何だろうって不思議だったけれど…それじゃあ、トアル山羊のチーズも?」
「ああ。牧場があって、そこで山羊を放牧しているんだ。俺もたまに山羊追いの仕事を手伝ってる」
「へえ…!」

 他にも緑が広がるトアルの森には美しい泉もあって、そこでいつもエポナを水浴びをさせていたり。住んでいる人が少ないから、村人はみな家族のように親しく心を許す人ばかり。リンクは故郷を懐かしむようにそう教えてくれた。ハイラル城下町とは正反対みたいなトアル村。リンクは今まで世界のたくさんの各地を教えてくれたけれど、私が一番にここまで興味を持って好奇心を抱いたのはリンクが住んでいる小さな村だけだった。

「…ねえ、リンク」
「ん」
「私、トアル村、行ってみたい」

 私のその言葉を聞いて、リンクは面白いくらいに目を丸くさせた。そりゃそうだろう、今まであんなに散々と私はこの城下町以外に興味はない、この街から一生出たくないの一点張りだったんだから。
 驚きを隠せていなかったリンクは、そのままみるみるうちに表情を歓喜へと変えていく。

「行こう、俺と一緒に」
「うん。……歩いて?」
「名前が歩きたいなら」
「嘘でしょ!」
「はは、嘘。エポナに二人で乗って、な」

 楽しそうにけらけらと笑うリンクは本当に上機嫌で、つられるように私も笑ってしまった。

「それにしても、まさか名前がトアル村に興味を持ってくれるなんて夢みたいだ」
「…そんなに?」
「ああ。やりたいことがいっぱいある。村のみんなにも紹介したいし、そうだな、いつか名前もトアル村に住んで欲しい。もちろん、名前のおばあさんも。名前の作るトアルカボチャのスープを毎日飲みたいし、それに…」
「ちょ、ちょっと! 私まだ行きたいとしか言ってないから!」

 なんだか話がとてつもなく飛躍しているリンクに慌てて突っ込むけれど、まだ自身の“やりたいこと”とやらを挙げていく彼を見ると私もつい気が抜けてしまった。リンクの嬉しそうな顔を見ていると私もなんだかとても嬉しいし、その瞬間と空間がとても幸せだとも思うのだ。それに、彼が望む未来には私が側にいることが何よりも嬉しかった。私はきっと、この世界というよりリンクが語る世界に惹かれているんだ。きっと、リンクに言葉では表せないほど惹かれているんだ。

「俺のこの旅が終わったら、行こうな」
「……終わったら、ね」
「絶対だぞ」
「リンクも、絶対に連れて行ってね?」
「ん、当たり前だ」

 すると、リンクはこちらに小指を差し出した。それを見て私もそっと小指を出して、彼のそれと絡ませた。そこに言葉はなかったけれど、お互いに視線を合わせながら考えていることを共有したような気がした。なんてロマンチストみたいな見解をしているんだって思われてしまうかもしれないけれど良いんだ、誰にも見られてないんだもの。

 小指がそっと離れて、名残惜しさと同時に恥ずかしさが込み上げる。まっすぐに私の目を射抜く彼の視線に耐えきれなくて目を逸らしたときに目に入ったのは、窓越しからの空が黄昏に染まっている景色だった。

「名前と居たら時間が経つのが早いよ」
「…私も。リンクと話していたらあっという間」
「そっか。…嬉しいよ」

 リンクはそう言って、机の上に広げていた地図を折り畳み直す。そして脱ぎ外していた緑の帽子を再び被った。

「…もう行くの?」
「ああ」
「せっかくだし、夕飯食べていきなよ」
「ありがとう。そうしたい気持ちは山々だけど、今から酒場に行かないといけないんだ」
「…そっか」
「気持ちだけで十分だ。ありがとう」

 何度も感謝の言葉を口にしていたリンクは「それじゃあ、そろそろ行ってくる」と立ち上がってそのまま扉の方へと足を向けた瞬間に、私はとあることを思い浮かべて「リンク!」と彼を呼び止めた。不思議そうにしているリンクを半ば放っておきながら、自分の部屋へ走った。はやる気持ちで目当てのものを見つけて、扉の前で手持ち無沙汰の状態で突っ立っている彼の元へ駆けつけていく。リンクは私が手に持っているそれを見て目を大きく見開いては首を傾げた。

「これから寒いところへ行くんでしょ。だから、せめてものだけど」
「…良い、のか?」
「もちろんよ」
「綺麗なまま返すことは約束できないかもしれないけど、それでも?」
「そんな約束いらないわ。世界の勇者様の役に少しでも立てるのなら、きっとこの子も本望だから」

 ほら、受け取って。少し強引に、私は手に持っていたものを彼に渡した。

「温かいな…」
「ふふ、でしょう? このマフラーがあれば寒さもまだ和らぐはずだわ」

 彼に手渡したのは、私が今までずっと愛用していたマフラーだった。すごく温かくてお気に入りのものだったけれど、リンクのことだからきっと雪山へその服装で行こうとしているのは目に見えていたし、放っておけなかった。最近は日が落ちている間は冷え込むし、雪山にいるときだけじゃなくても使えるだろうと思ったし。
 リンクは、私のマフラーをしみじみと眺めてぽつりと呟いた。

「なんだか…俺、名前から貰ってばっかりだな」
「えっ?」
「いや、こっちの話。ありがとうな、名前」

 頭に優しく手を置かれて、リンクを見上げる。ドアの窓から溢れる黄昏がだんだんと姿を変え、藍色に染まり始めている。お別れの時間だ。

「…これからはしばらく、ここへは来れないと思う」
「………そう」
「名前」
「ん?」
「この世界を救って、俺の役目を果たして、全ての旅が終わったら。そのときはまた、必ず迎えに来る」

 それで、一緒に行こう。トアル村に。リンクの眼差しは、とても真剣なものだった。

「うん。気を付けて。どうか、無事で」

 私の言葉に、リンクは決意の篭った目で頷いた。そして扉を開けて、私の家を出て行く。しっかりとした足取りで歩いて行くリンクの背中を目に焼き付けるように眺めた。リンクはこれからも私が想像出来ないような旅へ出る。私の知らない、見たことない世界の平和を救うために旅を続ける。戦いを続ける。そんな勇者が私のことをいつか迎えに行くと言ってくれているんだ。なら私がすべきことは一つしかない。待ってる。私はずっとずっと、リンクのことを待っている。この街外れの小さな家で、あなたのことをずっと待っている。

 
 足を止めることなく歩みを進めていたリンクが、そのとき勢いよく振り返った。そして無邪気な、だけどどこか緊張したような表情で私の名前を大きな声で呼んだ。

「迎えに来たとき、名前に言いことがあるんだ!」

 リンクのその言葉に私は頷きを返すと、彼もまたそれまでの表情を解いて嬉しそうに頷き今度こそ走り去っていった。私は見えなくなるまで、その背中をずっとずっと見届けていった。


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