そいつは、俺が小学六年生の頃に同じアパートに引っ越してきた。隣の部屋に引っ越してきた訳でもないし、なんでそんなことを知ってるかというと、一緒のアパートに住んでる母さんの友達から母さんが直接話を聞いたらしい。俺と同い年の女がウチの隣の部屋に越してきた、と。そのときは夏休み期間。小六の二学期から違う学校で過ごさなきゃいけないって、可哀想な奴だなあと顔も分からない相手だが同情した。
なんの偶然か、そいつは俺と同じクラスになった。そのときに名前を知った。苗字名前。自己紹介のとき、そいつは声も小さくてモジモジしていて、何言ってるか分からなかった。分かったのは黒板に書かれたそいつのその名前だけ。
まあ当然、そんな性格だからなかなかクラスメイトもそいつに近寄らない。喋りかけられてもドモるだけで、そいつが転入して一週間後にはもう一人ぼっちが確立していた。俺はそれを自業自得だなあとしか思わなかった。
そんな俺とあいつの関係に転機が訪れたのは、とある日の帰り道のことだった。いつものように家までの道を歩いていると、前になんだか見覚えのある後ろ姿が見えた。あれは――まさか、苗字か?まあ、同じアパートに住んでるしそりゃあ同じ帰り道なのは間違いないが。俺は少し早歩きして顔を覗くと、やっぱり苗字だった。
「おわぁっ!!」
いきなり顔を覗かれて、目をまんまるにして驚いたこいつに俺もつられて目を丸くした。おわぁって、なんだよ。つい「ヒャハハ!」と笑っていると、顔をムッとさせたこいつが目に入った。
「驚かすつもりはなかったけどよ」
ごめんな、とひとつ謝るとこいつは「別に、ええよ」と顔色ひとつ変えず、そのままテクテクと帰り道を歩いていく。そこですぐさま出てきた疑問があった。それを俺はぶつけるため、小走りして再びあいつに近寄る。
「お前って、関西から来たの?」
「うん」
「へえ、大阪?」
「大阪で生まれて、九歳から京都に住んどった」
「まじか」
「……自己紹介のとき、言うたよ」
「お前の声、ちっさくて聞こえなかったんだよ」
「…そうなんや」と返して、こいつは顔を俯かせた。初めて生で関西弁を聞いて、こいつはまるで違う世界からやって来たみたいだなあと思った。「ほんまは、みんなともっと喋りたいんやけどなあ」「じゃあ喋りかければいいじゃねーか」「なかなかそれが上手くいかへん」ひとつ溜息をついて、こいつは視線を更に下へ向けた。その横顔に、俺は胸を掴まれた気がした。
「…しゃーねえなー」
「?」
「俺が相手してやるよ」
「ほんまに!?」
「おー」
「そっか、ありがとう!めっちゃ嬉しい!」
「って、お前そんくらいのノリなら誰でも仲良くできんじゃねーの」
「それは…」
あんたは、なんか話しやすいねん。少し照れたように笑ったこいつに、どくりと心臓が高鳴った。そして、すぐさま自覚した。あ、俺こいつに惚れたわーって。
それから学校では俺とずっと喋っていて、そのお陰でクラスメイトも初めは俺を挟んで、徐々に名前と仲良くなっていって、卒業式まで楽しくできたと思う。もちろん俺と名前は中学校も同じで、入学してしばらくしてから俺は名前に告白した。泣きながら「私も洋ちゃんのことが好きやよ」と言ってくれたときは正直、めちゃくちゃ嬉しかった。俺が唯一胸張って自慢できる野球する姿もいつも見に来てくれていたり、俺が他校の奴らと喧嘩するようになると、泣きそうになりながら「洋ちゃん、こんなん怖い」って言ってたっけな。
なんやかんや、俺と名前の付き合いは中二になっても順調に続いていて、付き合ってもう一年以上が経っていた。出逢っては、二年。ガキのくせに、俺 名前と結婚すんのかなーとか、マジで考えていた。俺自身、恥ずかしいけどこいつにベタ惚れだったし、こいつ以外と恋人みたいな関係になるのは全く予想も出来なかったし、というよりしたくなかった。
そんなある日のことだった。その日は野球の練習がたまたま休みで、学校が終わってから名前と公園で駄弁っていた。夕方の五時になると、ワイワイガヤガヤと騒がしく遊んでいたチビたちが一斉に帰っていく。あんな賑やかだった公園が、あっという間に俺たち二人だけになった。すると、ベンチに下ろしていた腰を上げ、名前はちょいちょいと俺を手招きした。俺もベンチから腰を上げ、名前に近寄ると突然ぎゅっと抱きしめられた。男の俺がきゅんとさせられる。
「ごめんなあ、洋ちゃん」
「…あ?」
そんなとき、いきなり謝ってきた名前に俺は首を傾げた。謝られるようなことなど覚えもない。聞き返しても、本人は俺の首に回した腕をぎゅうぎゅうと強めるだけだ。仕方なく俺も相手の背に手を回せば、名前が俺の顔を見ながら「好きすぎてごめんっていうことや」と、へらりと笑った。「そーかよ」と冷たく返したが、言葉とは裏腹に俺の口角は素直に上がっていた。
「ほんまに、ごめんな」
「まーた謝んのかよ、ヒャハ」
「何回でも謝る」
このときの俺は、この謝罪の本当の意味を理解しているはずがなかった。ただ、好きすぎてごめんっていうくせに、なんでそんな悲しそうな顔をするんだよ、という小さな疑問が泡のように浮かんではすぐに弾けた。ただの気のせいだと思った。
「洋ちゃん、キスしていい?」
「は?」
「…あかん?」
切なそうに眉を顰めて、名前は俺にそう問うた。別に、無理なこたねーけど。名前は再び俺の首に回していた腕を強めて、俺と名前の顔の距離をぐっと近寄せた。うおっ、と焦りの声をあげた俺が体制を整えようとする間もなく、名前の唇が俺のそれに重なる。四、五秒ほどの長いようで短いキスを終えると、名前は心底嬉しそうに笑っていた。途端、こいつがとてつもなく愛しくなって、「好きだ」という言葉が口から零れそうになった。けど、やっぱり恥ずかしくて言えなかった。そんな俺をなんとなく見据えたのか、名前はまた笑った。目が涙のようなものできらりと輝いていた。泣きそうに、笑っていた。それもただの気のせいだと思った。
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「苗字が転校した」
夏休み明け。担任の口からそう聞かされた。 クラスメイトの誰にも、あいつが転校したってことは聞かされていなくて、あまりの突然の報告に泣き出す女子もいた。俺はただただ呆然とするしかなかった。
「ごめんなあ、洋ちゃん」
あのときの謝罪は、このことを示していたのだとすぐさま悟った。なんで、なんでだよ。なんで何も言わずに行っちまったんだよ。頭の中に次々と浮かんでいく名前の笑顔が苦しくて、俺はそれを苛立ちに変えた。立ち上がって、椅子を蹴った。担任やクラスメイトの肩がびくりと震え上がる。俺はそんなのに目もくれず、教室を出た。後ろから担任の俺を呼ぶ声がしたけど、全部無視した。
その日は授業はもちろん、部活にも行かなかった。外でずっとフラフラして、行き場のない苛々をかき消すように、誤魔化すように、一日中喧嘩をしていた。空が暗くなった頃には、俺は顔も身体も傷だらけだった。なのに、まだ気分はモヤモヤしていた。「洋ちゃん、また喧嘩したん?」「ほっぺたから血出てる!早よ消毒せな!」頭の中で、空想の名前が俺にそう叱っている。名前の顔が浮かんで、浮かんで、浮かんで。一時も消えずに、色んな名前が次々と出てくる。何をしても、お前が頭から離れない。そのときに俺は知った。あいつが俺にとって、どれだけ大切な存在だったのか。俺がどれだけ、あいつのことを好きだったのか。美羽が俺に謝った日。俺たちが最後に会った日。あの日、あの時、悲しそうな顔をしていたあいつを気のせいだとまとめていなかったら。あの日、あの時、「好きだ」と言っていれば。あいつはこのことを教えてくれていたのだろうか。
何を叫んでも、何度叫んでも、想いは無情にもあいつに届かない。誰にも、届かない。俺は心も傷だらけだった。
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