どきどき、どきどき。自分の世界に響く音がそれしか聞こえない。いつもなら騒がしく感じる駅前なのに、自分の鼓動の音がしっかりと聞こえて嫌な気分になる。緊張して、心臓がどくどくと跳ねて痛い。今日のために、昨晩から鏡と睨めっこして、精一杯お洒落をして。メイクにもこだわって、一番可愛い自分になれるように頑張ったのに、滅法自信は湧いてこない。彼に可愛いって思ってくれるかな。

 今日は、彼氏と初めてデートをする。彼は野球部の元主将で、何事にも一生懸命で真剣で、とても格好良くて。少し、いや、とっても天然で。でもすっごく男らしくて。そんな彼に私は惹かれた。同じクラスだったけど、席もあまり近くにならなかったし言葉を交わしたのは片手で数えれるくらいで、けれど自分から話しかける勇気もなくて。所謂ただの一方的な片思いだった――はずなのに。つい先日、彼に告白されたときはなんの冗談かと思った。まさか、野球部で罰ゲームでも下されたんじゃないかと思った。でも彼はそれを否定して、「お前が好きなのは本当だ」って言ってくれて、私の脳はキャパオーバーだった。そうしてお付き合いすることになった彼の名前は、結城哲也くん。
 告白されたあの日を思い出すだけで顔が熱くなる。だって、だってだよ、結城くんと話すこともあまり無かったのに、目をあんなに真っ直ぐ見られて、好きだって言われたんだよ。返事をするとき、声が上ずってしまったことは今でも恥ずかしい。やり直したい。すぐに顔が赤くなってしまうのが嫌だ。自己嫌悪。いきなり鬱な気分になって、つい地面に向かって溜息をつくと「苗字」と頭上から大好きな声が聞こえた。

「あ、ゆ、結城くん」
「…待ったか?」
「ううん!私も今ちょうど来たよ」

 本当は落ち着けなくて二十分前には来ていたけど。

「そうか、良かった」
「うん!」

 結城くんの口角が上がって、私もつられるように笑みを浮かべた。「それじゃあ、行くか」結城くんはふい、と背中を向けて今日の目的地である映画館へとスタスタと歩き始めた。「あ、ちょっ」急いで私も彼に小走りでついていった。結城くん、歩くスピード早いなあ。やっぱり、サンダルじゃなくてスニーカーの方が良かったかな。

 ショッピングモールまでの行き道は、他愛もない会話をぽつりぽつりとする程度だった。今日は暑いなとか、今日見る映画、今大人気だねとか。
 ――ちょっとは、期待していたんだ。可愛いな、とか似合ってるな、とか言われるかなあって。結城くんは、思ったことは素直に真っ直ぐ言ってくれる人だから。いや、ということは…言われないってことはつまり、そもそもまず気にされてもいないし、思われてもいないってことだと気が付いて私は一人で肩を落とした。




 今人気の恋愛映画を見ている間も、その後ショッピングモールの中を回っている間も、何も無かった。本当に他愛のない会話だけが存在するだけだった。楽しかったことには全然変わりはないし、今日で色んな結城くんの一面も見れたし、とても充実していた。けれど、やっぱり。物足りなかったって思ってしまう。私は贅沢で、我儘だから。
 分かっていた。結城くんは元々、女の子に慣れていないことなんて。嬉しいことに私が初めての彼女って言ってくれていたから、そんなことなんて知ってる。クラスメイトのときから、そんなことはとっくに知ってる。だから、可愛いって言ってくれたり、手を繋いでくれたり。そんなことを彼がサラリとやってのけるなんて無いってことは分かっていた。でも、私も結城くんが初めての彼氏だから、やっぱり妄想していたことを期待したり望んでしまうことは仕方が無い。結城くんに、可愛いって言われたい。手を繋ぎたい。また、今朝のように溜息が漏れそうになったその時。

「…苗字の家は、こっちの道で合ってるか」
「えっ、あ、うん!」
「そうか」
「ていうか、結城くんのお家は逆だよね…?」
「ああ」
「えぇ、じゃあ大丈夫だよ!」
「大丈夫だ」

 そういって、結城くんは早足に歩いて行ってしまう。優しいなあ、って思いながら小走りで追いつく。もう少しで、私の家に着く。デートも、もう少しで終わりだ。

「…苗字」
「ん?」

 そんなとき、突然結城くんが足を止めた。結城くんの背中に顔をぶつけて、うぶっ、と変な声が出た。あ、あ、結城くんの背中と口くっついちゃった…!

「楽しかったか」
「…え」
「今日は、楽しかったか?」

 こちらに顔を向けずに尋ねてくるから、結城くんの表情は全く読み取れなかった。

「うん…楽しかったよ。とっても楽しかった」
「…すまないな」
「え?」

 ゆっくりと振り返って、私の目を真っ直ぐと見つめる結城くんに、私の心臓がまたどくどくと跳ね出した。片思いしていた頃は彼にこんな真っ直ぐ見つめられるなんて想像できなかったし、もちろん今でも恥ずかしくて、目を逸らしたいのに、結城くんの目に捕まったようでそれは出来なかった。

「正直、今日ずっと戸惑っていたんだ」
「…」
「せっかくのデートだ。…色々なことを言ってやったり、してやりたかったんだかな」
「え?…え?」

 結城くんの手が、ぎこちなく私の肩に置かれた。

「今日の苗字は、いつもより一段と可愛いな」
「!」
「俺のために、そうしてくれたのか」

 びっくりして、思わず目を見開く。恥ずかしくて、顔がどんどん熱くなって、必死にぶんぶんと上 下に首を振ると、結城くんがふわりと笑った。

「そうか。…ありがとう」

 結城くんのその言葉に、涙腺が緩むのを感じた。私って、本当に馬鹿だ。こんな人に、少なからず失望していたなんて、本当に馬鹿だ。最低だ。最悪だ。もう死んじゃえ。結城くんは、不器用だけど、とても素敵な人だなんて知っていたじゃないか。嬉しさと自己嫌悪で、涙が溢れそうになった。

「む…泣いてるのか?」
「…」
「苗字?」
「…結城くん、」
「ん」
「――ありがとう!」

 私は涙を引っ込めるように、結城くんに満面の笑みを向けた。すると結城くんは少しだけ驚いた顔をした後に、一緒に微笑んでくれた。

「帰るか」
「うん」

 結城くんの隣に並んで、私たちは再び足を進めた。結城くんのスピードが、私と同じ速さになっていることに気が付いて、口が緩んだ。そのとき、私の右手と結城くんの左手が微かに触れ合った。それが合図だったかのように、結城くんの左手が私の右手に重なった。胸がどくん、と飛び跳ねた。力加減が分からないのか、緊張しているのか、不器用な彼の左手が私の右手をぎゅうぎゅうと痛いくらいの強さで握りしめてくる。つい笑みが零れた。私も、彼の手を負けじと握りしめた。
どきどき、どきどき。今朝と同じ音が私の世界を支配する。けれど、今朝は緊張だけでしかなかったその音に、幸せもプラスされていた。結城くん、手汗が凄いなあ。

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