還るべき場所
還るべき場所


 朝は安室透としてポアロでバイトをし、昼からはバーボンとして組織の任務を淡々とこなしていく。基本的にこの2つの顔を駆使している訳だが、本当の顔はこのどちらでもないのが紛れもない事実だ。
 本当の顔――降谷零は“本来の職場”である警察庁やその同僚である者たちにしか見せることは許されない。しかし、そんな“本来の職場”であっても やはり気を緩めることなど出来ず、潜入捜査官として、降谷零としての仮面を被っているかもしれないのも、これまた事実だ。
 俺が、降谷零が、本当の自分として心を許しながら過ごすことができ、この荒んだ心身を癒し、安らげてくれる場所は、この世でたったひとつしかない。


 マンションの入り口にて24時間警備をしているコンシェルジュと目が合うと、向こうから「お疲れ様です」と声をかけられ、そちらこそ、と返す。ここ数週間全く帰ることができなかったのに、どうやらこのコンシェルジュに自分のことを覚えて貰えていたらしい。その証拠に、俺の顔を見て「そういえば」と言葉を続けた。

「今日の昼間、あなたさまの帰りをすごく楽しみそうにお話されましたよ」
「本当ですか」
「はい。とても可愛らしかったです」
「それは嬉しいこの上ないですね」

 コンシェルジュから聞いたその話に、思わず表情筋が緩んだ。俺の帰りを楽しみに話す姿を頭に浮かべるだけで、嗚呼それは絶対可愛いな、なんて更に口が綻ぶ。欲を言うならその姿をこの目で見たかった、なんて口にすればきっとあいつには苦笑されるだろうな。
 早く会いに行ってきます、とコンシェルジュに別れを告げ、2重オートロックを解除しエレベーターのスイッチを押した。早く、あいつたちに会いたい。


 数週間ぶりの自室に辿り着き、少しの緊張に駆り立てられる。それでも楽しみな気持ちには勝てず、俺は半ば急ぐようにインターホンを鳴らした。途端に部屋の中は、なぜかドタバタと騒音が響く。「今開けるから、ちょっと待ってね」センサーから聞こえた愛しいその声と同時に、ドアの鍵が内側から解除され 勢いよくそれは開けられた。ドアを開けてくれた張本人と目が合えば、彼女は花が綻ぶように表情を輝かせた。

「パパーーー!!」

 想像をも超えた勢いで飛びついてきた可愛い可愛い我が娘を、しっかりと胸で受け止める。これだけで一気にバーボンとしての疲労も、安室透としての疲労も、降谷零としての疲労も、何もかも吹っ飛んでいく。自分でも既に親バカだということは自覚してあるし、何も恥じることではないと自負している。娘が可愛いなんて、全世界の父親が思うことだろう。

「おかえりなさい、パパ!」
「ああ、ただいま」
「わたしね、パパが帰ってくるのずーっと待ってたんだよ!」
「そうか。良い子にして待っていたか?」
「うん!ママの言うこともぜーんぶちゃんと聞いてたよ!」
「よし、偉いな」

 頭を撫でてやると、嬉しそうに頬を染めて娘は俺の胸の中でスウ、と一息吐いた。小さい声で「パパ…あったかい…」なんて囁いてくるもんだから溜まったもんじゃない。しばらくその状況を続けていると、何とも規則的な呼吸音が耳に入ってきた。まさか。娘の顔を覗き込んで見ると、気持ち良さそうに眠っている。そうか…そうきたか……。
 娘を抱き上げて、リビングの手前にある寝室を開け そこへゆっくりと寝かせる。最後にもう一度、頭を撫でて寝室を後にする。そして、忙しなくリビングへ入った瞬間、目の前にいた彼女を見て、なんともいえない安心感に一気に包まれた。

「おかえりなさい、零くん」
「ああ、……ただいま」

 久々の会話に、なんだかこそばゆい気持ちになる。それは嫁も同じだったようで、少し恥ずかしげに笑ってる。嗚呼――親バカに加えて俺は嫁にもベタ惚れなんだってことも、自覚済みだ。

「あれ。あの子は?」
「ちょっと話してたらすぐ寝てしまったよ」
「そっか。 よく頑張ったよ、あの子」
「頑張った?」
「もう10時よ? いつもならとっくに寝ている時間だもん」
「ああ、そういえば……そうだったな」
「明日の朝会えるのに、少しでも早く会いたいからって」
「はあ…可愛いな」

 思わず漏れた言葉に嫁がくすくすと笑う。こんな気の抜けた降谷零を見ているのも、間違いなく嫁である彼女だけだろう。

「先にお風呂入ってくる?」
「ああ、そうするよ」
「それじゃあ、ご飯温めておくね」
「今日のメニューは?」
「ハンバーグ」
「よし、すぐに上がってくる」
「ゆっくり疲れを取ってきてくださいな」

 困ったように笑う嫁が愛しくて、少しの時間でさえも一緒に過ごしたくて、やはり風呂の時間はなるべく短く済ませてしまうのだ。







 数週間ぶりである嫁の手料理に満足して、久しぶりにまったりとソファに座りテレビを見ながら酒を楽しむ。洗い物を終えると、嫁も俺の隣にちょこちょことやってきては腰を下ろした。お前も飲むか?と提案するが、目を伏せながらゆっくりと首を振った。―――?
 観察力、洞察力が必要である探り屋として組織で働いている以上、人の変化には気が付きやすい。それが自分のパートナーとなれば、即座に気が付くのは当然だろう。

「…どうした?何かあったのか?」

 控えめに尋ねてみるが、返事は返ってこない。しかし、しばらくすると俺の腕に擦り寄るように身体を密着させてきた。思わず唾を飲み込む。こんなに甘えてくるなんて、いつぶりか。いや、これは甘えているのか?それとも本当に何かあって――。

「久しぶりだね」
「ん?」
「こうやって、2人でゆっくりするの」
「ああ……そうだな」

 その嫁の言葉を聞いて、ゆっくりと俺は体制を変え、肩に凭れかかる彼女を胸の中に閉じこめる。頭を撫でてやると、嬉しそうに頬を染めてスウ、と一息吐いた。既視感があるのも間違いない、先ほどの玄関での娘と全く同じだ。親子はこういうところも似るのか、と思わず笑ってしまった。

「いつもお疲れ様、零くん―――会いたかったよ」

 上目遣いでそう囁いた嫁に、息を飲んだ。――何せ数週間ぶりの嫁だぞ。こんな可愛い姿を見せられてスイッチが入らない方がおかしい。
 
「んっ……」

 目の前にある唇にそっと自分も重ねる。重ねては離れて、重ねては離れて。そっと嫁をソファへと押し倒した。散らばる彼女の髪だけで色っぽさを感じてしまって、今すぐ食べてやりたいという欲に駆られる。

「明日、あの子がパパと一緒に朝ごはん食べたいって言ってたけど」
「もちろんだ」
「それなら、少し早起きだから、…その」
「……ああ、なるべく長くはしないように努める」
「ふふ、お願いします」

 頬を染めた嫁の唇に、再び重ねる。手を合わせ、指を絡めて、至近距離で見つめ合い、どちらからともなく微笑み合った。

 本当の素顔を出せる愛しい人が待つ、還るべき場所がある。帰るべき家がある。だからこそ、“本当の降谷零”はこれからも失われずに存在し続けていくだろう。

// 170802

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