背中合わせに進んでいく
背中合わせに進んでいく


 嫁が妊娠して半年を迎えた。
 この頃、俺は潜入している組織での任務が重なって、家は愚か本来の職場――警察庁にも戻れないほど多忙を極めていた。しかし、組織ではいち早くに上層部に上りつめたいため任務は全うする必要があったのだ。それが俺の、潜入捜査官としての使命だからだ。

 といっても、嫁のお腹には子を身ごもっている。しかも初めての妊娠だ。分からないことも多いだろう。不安も多いはずだ。だから、普段から俺は家に帰ることが多くないため、実家に帰るかと提案したものの断られた。本人曰く、「実家は遠い、でも零くんは優しいから疲れてても来てくれるでしょ? それは嫌なの。だけど、私も零くんに少しでも会いたいから、この家で零くんのことを待っていたい」と言うのだ。とはいえ、仲の良い友達とも気軽に会いに行ける距離ではないだろうし、常に家で一人だ。それだと流石に心細いだろうし、何せ俺たちの子供を預かってくれている身だ。産んでくれる存在だ。少しでも力になりたくて、俺はどんなに仕事が忙しくても時間を見つければ家へ帰ろうと決めているのだ。 

 そして、そんな多忙な任務も、漸く片がつき始めて明日か明後日頃にはやっお家へ帰れそうだなと思っていた時のことだった。

『もうつかれた』

 愛車で一人で車を走らせているとき、プライベート用の携帯が震えたかと思って取り出すと、嫁からメールが来ていてその内容は決して良いものではないと感じる。
 もう、疲れた? 今日は何かしたのだろうか。買い物? 家事? 一人でいること? 考えてもキリがない。ただ、次に車を降りるときはも潜入捜査員として顔を変えないといけない。今しか彼女の話を聞くチャンスは無かったのだ。
 夜の道を走りながら、俺は携帯で嫁に電話をかけた。3コールほど鳴り響いてから、応答が来た。

「もしもし、嫁?」
「……れいくん、ごめんなさい」
「え?」

 微かに嫁の声が震えている気がするし、非情にか弱い印象を受ける。

「さっき、変なメール送って」
「いや……そのことを聞こうと思っていたんだ」
「仕事は?」
「今は移動中だから、」
「そっか。ねえ、さっきのメールは何の意味もないの。なんか零くんに電話しようと思ったけど迷惑かなと思って、だからメールしようと思って、だけど何送れば良いのかわかんなくて、変なメール送っちゃっただけなの」
「…嫁?」
「ごめんね、気にしなくていいの、ごめんね」
「どうしたんだ、嫁?」
「ううん、大丈夫」
「何かあったんじゃ……」
「大丈夫って言ってるでしょ!?」

 思いがけない大きな声が響いてきて、思わず携帯を耳から少し遠ざけた。こんなに嫁が声を荒げるなんて今まで聞いたことがなくて、一体何事だと俺自身も状況をあまり把握できていない。しばらく言葉が出てこないでいると、嫁の方からハっと息を飲んだような音が聞こえた。

「ごめん、ごめんなさい、零くん。いきなり怒鳴りつけちゃって」
「……いや、」
「本当に、今日なんだか疲れちゃって。ごめんなさい」
「……」
「ごめん、なさい。仕事中に」
「明日か明後日には帰れるから、そのときにちゃんと話を聞く」

 こんな様子で、何もないが通じるほど俺も馬鹿じゃない。そう思って、俺は嫁にその旨を告げたとき、だんだんと目的地が目に入って来た。嫁の様子が気がかりで仕方ないが、とりあえず「そういうことだから」と電話を忙しなく終わらせた。切る前、「もう、つかれた」というメールの内容と同じような言葉が聞こえたのは気のせいだと思いたかった。






 翌日、組織の任務をこなし捜査結果を報告しに警察庁へと向かった。たんまりと事務作業も残っている。久々に顔を合わした同僚に手伝おうかと良心をきかせてくれたが、やんわりと断った。自分で言うのもあれだが、俺は完璧主義だとは思っている。だから自分以外の人間にあまり己の仕事をやってもらうのは気が引けてしまうのだ。とはいえ量が半端ない。今日中にどうにか家に帰ることが出来たら良いんだが。

 事務作業を淡々とこなしていったが、だんだんと集中力が続いていないことに気が付いた。少し気休めをしようと休憩室で、体制を緩めながらため息を吐く。まだここなら、安心出来る。こうして肩の力も抜ける。いつバレるか、いつ死ぬか、そんな分からない地獄のような環境に数日間休むこともなく居たんだ。そうなるのもおかしくない。まだ潜入して漸く一年経ったというところだが、いつかあの組織の空気にも慣れるときが来るのだろうか。それはそれで嫌だな。にしても、欲を言うなら家で安らぎたい。家のソファで、ビールを飲みながら、嫁と。……嫁。

「降谷」
「!」

 ひんやりとした冷たい感覚が頬に伝わり、俯かせていた顔を驚いて上げるとそこには一人の上司がいた。頬に宛てがられていたのは缶コーヒーで、「ほら、やるよ」と上司らしい余裕な表情で口角を上げていた。素直に礼を言って俺はそれを受け取り、さっそくと言わんばかりにプルタブを開けてブラックコーヒーを喉に通す。この仕事を初めてからいつの間にか、苦味は感じなくなっていた。

「浮かない顔してるな」
「…そんな顔、してますか」
「あぁ、酷いくらいにな。どうした、潜入先が辛いか?」
「それはいつか慣れますよ。……嫁のことで、ちょっと」
「嫁さん?」

 上司は、お前ら新婚なのにもう喧嘩? と俺の話に耳を傾けてくれようとしていた。職場でも数少ない年の近い上司であり、仲も良くさせてもらっている人だ。結婚もしていて、確かもう子供もいるはずだ。相談をするならこの人がうってつけだと思った。

「嫁、今月になって妊娠して半年になったんです」
「そうか、確か妊娠してたな」
「はい。それで、昨日メールで『もう疲れた』って送って来て、何事だと思って電話したんです」

 それから、電話の内容、電話での嫁の対応――全て洗いざらうように話す俺を、上司の人は真剣に聞いてくれていた。そして、心当たりがあるように「あー」と唸った。

「それ、所謂マタニティブルーってやつだろ」
「…マタニティブルー?」

 初めて聞いた単語に、思わず復唱し返してしまった。何かの症状なのか? 病気なのか?心臓がどくどくと煩くなっていく。

「妊娠中や出産後にあらわれる症状だったけな? ホルモンのバランスが崩れるだとかで起こるんだよ」
「どんな症状が?」
「普段温厚な人でも、旦那や周りにイライラしたり泣いたりとか。悪い言い方になるかもだけど、情緒不安定っていう言葉がぴったりかもしれないな」
「……」

 その症状を聞き、次はこちらが心当たりがあって唸りそうになった。普段温厚でも、イライラしたり泣いたり、情緒不安定。電話のときの嫁そのまんまじゃないか。

「なんでも、出産の痛みや赤ちゃんを育てることに対して不安を感じたり、その精神的プレッシャーから来るもんらしいぞ」
「……よく、ご存知なんですね」
「まぁな。うちの奥さんも、妊娠中はそれで大変だったし」

 それで、どういった対策をしていたんですか? 俺は矢継ぎ早でそう尋ねた。少しでも体験談を聞くのが一番いい。何ならメモでもしておきたいくらいだ。そんな真剣な俺の目を見て上司も、自身のその時を思い出すかのようにぽつりぽつりと語り出してくれた。
 仕事が忙しい時と奥さんのその時期が重なっていたから家にあまり帰れないから、散々話して実家で過ごしてもらうことにした。でも、実家でもなかなかその症状は治ることがないから、ひたすら俺は会いに行った。あと、やっぱり話を聞いてくれる人が必要らしい。特に女友達、だとか。だから、俺の愚痴でも何でも話していいから友達とはよく会えって言ってたよ。上司は当時を思い出したのか、だんだんと眉尻を下げてそう語り終えた。


「やっぱり、実家で過ごさせるのが一番ですかね」
「それはお前らで決めることだな。ま、俺の嫁だったらお前の嫁さんと年も近いだろうし、話し相手として頼めるぞ」
「……そうですね」

 上司はそう言ってくれているけど、やっぱり実家に帰らせようか。それが彼女にとっても、俺にとっても、子供にとっても一番良いのかもしれない。

「ただ、一番大事だと思ったことがある」
「一番大事?」

 嫁さんのことをしっかりと考えて、何より支えてやりたいって心から思う気持ちだよ。上司はそう言った。それが無いと、嫁さんもお前も乗り越えられない、と。








 その日、なんとか仕事を終えて家へ帰って来れたのは午後十時を過ぎたくらいの時間だった。はやる気持ちで警備の固い門をくぐりぬけ、自分の部屋へと向かった。
 部屋の前に着くなりインターホンを押そうとしたが、もしかしているともう寝ているかもしれないと思って、鍵を使って部屋を開けた。しかし俺の予想とは反して、リビングを通じるドアの隙間から明かりが漏れている。

「嫁……?」

 恐る恐るとリビングへ入ると、ソファーに座る嫁の後ろ姿がすぐ目に入った。しかし俺の問いかけには反応せず、ただテレビをぼうっと眺めている。姿勢は決していいとは言えなくて、まるで首に力が入っていないように顔を傾けている。

「嫁、」

 今度ははっきりと大きな声で名前を呼ぶ。すると、ゆっくりとその顔がこちらへ振り返った。ただいま。そう言おうとしたとき、嫁の顔を見て思わずギョッとした。

「嫁!?」
「……れいくん」

 泣いていたのだ。

 急いで駆け寄り、何事だと尋ねる。すると嫁は俺の顔をしばらく見つめた。そして彼女の中で何かが壊れた。

「もう疲れたよ、私。この子を、堕したいって思っちゃうの。最低だよね?」

 早口でそう心の内をさらけ出した嫁に、俺は息を吐く間もなかった。未だにぽろぽろと涙が溢れ出ている目に色はほとんどなくて、心が痛くなる。電話の内容、上司の助言から嫁がマタニティブルーだとは覚悟していた。なのに、まさかここまでとは思わなくて戸惑っているのだ。

「ねえ、どうしたらいい? どうすればいい? 私、分からない。こんなんじゃ、母親なんかになれないっ」

 本来なら堕ろしたいなんていえば、ふざけたことを言うなと怒鳴ったかもしれない。だけど、彼女をここまで我慢させて追い詰めさせたのは俺なのだ。彼女の性格を考えれば、俺の仕事が忙しいから何か弱音を吐きたいときでも遠慮するはずだ。それを見越していたというのに、俺は彼女のその優しさに甘えていたのだ。だから俺から彼女に連絡するなんてこと、今まであまりしてこなかった。気遣ってやれなかったのだ。俺の、せいでもある。

 こんがらがる頭で導き出した提案を、俺は深呼吸しながら彼女に持ちかけた。

「やっぱり実家に帰らせてもらうか?」
「何で?」
「え」
「どうして?零くんがそう思うの?」
「……その方が、嫁の為にも」
「私の何が分かるの!?」

 カッと目を見開いて、嫁はそう声を荒げた。こんな嫁を見るのは初めてで、驚きと戸惑いが隠せない。言葉が出てこなくて、生唾を飲み込んだ。
 しかし、俺を睨みつけていたその目はしばらくして寂しげに伏せられた。

「私この家にいたら迷惑?」
「っ嫁、」
「うう、零くんまで居なくなったら私……もう嫌だ……」

 再び泣き崩れる嫁を見て、やるせない気持ちになった。上司は言っていた。一番大事なのは嫁さんのことをしっかりと考えて、何より支えてやりたいって心から思う気持ちだと。なのに、俺は。嫁が以前、実家に帰るのを拒んだ理由を思い出した。――俺に少しでも会いたいから、この家で俺のことを待っていたいからと言っていたじゃないか。なのに俺は、のけのけと実家に帰れと。一番大事な嫁の気持ちを忘れて。

 俺は嫁の隣に腰を下ろした。そして、か弱い嫁の体を包むように抱き締めた。抵抗するように体を捩られたけど構いなしに抱き締める。

「嫁、聞いてくれるか」

 そして、あやすように背中を撫でながら、俺はぽつりぽつりと話し始めた。

「我慢ばっかりさせて、すまない」
「っ……」
「お前は優しすぎるからな。連絡するのも、ずっと今まで我慢していたんだろう?」
「……だって、れいくん、大変だから。邪魔しちゃ、いけないから」
「ああ。だから俺から連絡するべきだったよ。ごめん」

 腕の中にいる嫁が、俺の胸元を力弱く掴んだ。服に皺が入る。

「嫁」
「……はい」

 そっと、嫁のお腹に手を当てた。ここには、尊い命がある。俺の嫁の子供が生きている。

「俺は、この子に会いたいよ」
「……!」
「嫁は?」
「わた、しは……」
「うん」
「わたしも、…私だって、会いたい。だけど不安なの。この子をちゃんと守ってあげられるのかって」

 そう言って、嫁はまた涙を流す。俺はお腹においていた右手の親指で、その涙を掬うように拭った。

「大丈夫だ、嫁」
「!」
「お前は一人じゃない。それに、お前一人でこの子を守るんじゃない。俺たち二人で、守っていくんだ」
「……っ、うん」
「お前が俺をいつも支えてくれるように、俺もお前を支える。それが、夫婦っていうものだろう?」
「零、くん」
「嫁。お前はよく頑張ってるよ」

 その言葉に、弱々しくも嫁はしっかりと頷いてみせた。もう一度、確認するように俺は嫁のお腹を撫でた。すると、ぽこりと振動が伝わった。小さな命が、お腹を蹴ったのだろうか。

「ほら、この子だってお前に会いたがってるはずだ」
「……うん、そうだね。零くんにも、会いたがってるよ」

 嫁はそう言って、口元を緩ませた。やっと笑顔を見せてくれた。やっと、笑ってくれた。そうだ、お前は一番笑っているのが良い。今は辛いから一人で笑うことは出来ないかもしれないけど、俺がその笑顔を守りたい。

「零くん、ごめんなさい。怒鳴っちゃって」
「全然構わないさ。何とでも言ってくれ」
「ふふ、なにそれ」
「嫁」

 腕の中でこちらを見上げる嫁の無垢な唇に自身を重ねた。大事なのは、嫁のことをしっかりと考えて、何より支えてやりたいって心から思う気持ち。無力かもしれないけど、嫁の為、そして俺たちの子供の為なら何だってする。絶対に守る。そうだな、まずは上司に連絡しよう。そして、上司の奥さんに嫁の話し相手になってもらおう。上司には頭が下がらないな。そんなことを考えながら、大事なことに気がついたとある日の夜だった。


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- 真夜さまリクエスト @10万打

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