その扉の向こう側
その扉の向こう側


 恐らくこの一生の中で、彼女を超えるような存在には出逢わない。いや、彼女を超えられるような者は、もはやこの世界中どこを探しても存在しないともさえ思う。そのくらい彼女は俺にとって必要不可欠で、なによりも愛しくて、大切な人だった。

 大学の一年生のときに出逢い、彼女と交際を始めてからというもの、およそ七年弱。同棲を始めて、およそ一年半。
 自分の仕事柄など重々承知していた。もしかすると彼女に危険が及ぶかもしれないのも分かっていた。駄目元でも良いと思った。大切な人だからこそ、少しでも早く彼女を養いたかった。俺の側にずっといてほしかった。あまつさえ、彼女を正式に俺のものにしたいという独占欲があった。若い故のものではないと断じて言える。彼女と、――嫁と人生を歩みたかった。

 そして俺は、決意した。








「ちょっと、零くん?」
「え」
「どうしたの、ぼーっとして」

 俺の隣でバラエティ番組をげらげらと笑いながら見ていたはずの嫁が、こちらの顔を伺うように覗き込んできた。目と鼻の距離に彼女の顔があって、もう慣れていたはずのそれに今は過敏に反応してしまう。「あ、あぁ、いや」と曖昧な返事を返すと益々彼女の顔は不思議そうに首を傾げる。

「眠い? もう寝る?」
「いや、まだ眠くはないよ」
「ええー本当に?」

 そう言って、嫁は視線をテレビに戻してからコテン、と俺の肩に自分の頭を寄せた。ソファが僅かに軋む。彼女の髪からは、風呂上がりのシャンプーの匂いがふんわりと香った。時計をちらりと横目で確認すれば、後もう少しで日付が変わりそうな時刻だった。つまり、こうやってタイミングを見計らい始めてから小一時間。どう切り始めればよいのか悩み、もう小一時間だ。このままずっとこの状態を続けていれば、嫁が眠くなってしまうかもしれない。それに俺は男なんだ、今日言うと決めたからには必ず成し遂げたい。ならば、もう。


「嫁」
「んー」
「ちょっと、話があるんだ」

 その瞬間、両手からじんわりと手汗が滲み無意識に力を入れていたことに気付いて、力を抜いた。嫁はきょとん、と間抜けな顔で再びテレビから俺に視線を移す。恐らく俺の真剣な表情を見たからだろう、彼女のそれをどことなく引き締まったような気がした。

「大事な、話?」
「……あぁ。だから、真剣に聞いてほしい」

 俺がそう言えば、嫁はひとつ頷いて黙ったままリモコンを取りテレビの画面を消した。シンと静まり返る部屋の中に、居心地の悪さを覚える。チッ、チッ。時計の長針がリズミカルに移動していく。沈黙は長引かせるほど破りにくい。俺はひとつ息をついてから、ようやく口を開いた。

「前から考えていたんだ。俺と嫁の、これからのことを」
「……」

 俺の第一声に、嫁が息を飲んだのが分かった。それが何を意味しているのかは分からなかったけど、ただひとつ、彼女も俺と同様にこの話に緊張感を持って聞いてくれているのは一目でわかった。そんな彼女を見て、更に俺も肩に力が入る。

「俺は、警察だ」
「うん」
「公安警察だ」
「うん」

 嫁の顔がだんだんと下を向いて、しまいには完全に俯いた状態になっていた。表情が見えないことが俺の不安も掻き立てるが、今更やめなんて出来なかった。しようとも思わなかった。

「詳しくは言えないけれど、危険な仕事だってしてる」
「……うん」
「だから、この先もずっと俺と一緒にいたら」
「…」
「嫁にも、危害が及ぶかもしれない」

 その瞬間、嫁がガバリと勢いよく顔を上げた。漸く見えたその顔は、今にも涙が溢れそうだといわんばかりに歪んでいて今度は俺の方が息を飲んだ。頭が真っ白になる。まだ俺が伝えたい話の内容は序盤なのに、なんでそんな顔をしているんだ。
 混乱する俺をよそに、嫁は震える手で俺の胸辺りをきゅっと掴んでは綴るみたいに頭を寄せ付けてくる。そして、震えながら彼女は声を絞り出した。

「それでも、……いいから」

 嫁の顔がある俺の胸辺りに、生温かさが広がる。はじめはそれが彼女の漏らした息遣いが篭ったのかと思っていたが、それは外れていた。少し角度を変えて顔を伺えば、彼女は泣いていた。しかも大粒の涙をぼろぼろと止まらんばかりに。まるで小さな子供のように泣きながら、嫁は俺の寝巻きを握る。一体、何を言ってるんだ。

「危なくても、いいからっ」
「お、おい、嫁、」
「お願い零くん、私これからもずっと一緒に零くんといたいよ」
「は」

 一体、何を。

「別れたくないよ…!」

 その一言を聞いて、思考が一時停止した。


 先ほどまで混乱していた頭が嘘のように落ち着き始め、彼女の言葉がようやく理解し整理できて、綺麗にまとまっていく。それからというもの、わんわんと俺の胸で泣き続ける嫁がどうしようもなく愛おしくなるのは当然で、俺は彼女の背中に腕を回し強く抱きしめた。
 本当は、こんなはずじゃなかったんだけどな。全てを話す前に早とちりでそう勘違いしてしまったのだろう。思わず心の中で苦笑しながら、俺は未だ涙が止まりそうのない彼女の目尻を掬った。

「だれが別れるなんて言った?」
「う、っうぅ…」
「俺は別れたいなんて微塵とも思ってないけれど」
「っ、へ」
「ん?」
「ち……違うの?」

 見事な間抜け面を披露してくれた彼女に堪えきれず笑みを漏らしていると、少しムッと不服そうに眉をしかめられる。そんな顔さえ可愛く見えて仕方ない。

「だ、だって! 今の話、どこからどう見ても別れ話にしか聞こえないじゃない!」
「そうだな」
「反対に別れ話じゃなかったら何なの…」
「まだ続きはある」
「……え?」
「まだ話は、全然終わってない」

 俺はもう一度彼女の目を真っ直ぐに見つめ、真剣な面持ちを意識した。やっぱり、今から話す内容は俺がたくさんの覚悟をして決意したものだ。こればかりは緩い雰囲気ではなく、お互い真面目な状態で話したかったし、聞いて欲しかった。
 
「さっきも言った通り、俺は公安警察で危険な仕事もしている」
「……」
「嫁に危害が及ぶ可能性だって、充分にあり得る」
「……」
「でも俺は、これから先もずっと。……お前と一緒にいたいと思っている」

 今まで黙りこくっていた嫁が、はたと顔を上げる。

「無責任なのかもしれない、でも」
「……」
「お前のことが本気で大切だから、側にいたいと思うんだ」

 目を閉じて、俺は一息ついた。
 それから意を決して、瞼を上げる。嫁は相変わらず、何とも言えない顔を浮かべている。「嫁、」そんな彼女を安心させたいがために、俺はわざと柔く微笑む。そんな俺を見て安心したのか、嫁もひとつ目を見開いてから、まるで花が綻ぶように笑みを零した。そのとき、俺の口から言葉がするりと溢れた。

「結婚しよう」


 目の前の潤んだ目を真っ直ぐに見つめながら、俺はそう言い放った。
 嫁は、また泣いていた。ぽろぽろと涙を溢れさせていた。掬っても掬っても、止まることを知らなかった。でもそれ以上に、彼女は笑っていた。嬉しそうに、顔を綻ばせていた。

「はい。お願いします」

 その言葉を聞いた瞬間、どっと心の内に一気な安堵の感情が込み上げた。それと同時に、嬉しさとか、責任とか、諸々と。

 未だに涙を流し続ける嫁の頭を撫でてから、あらかじめソファサイドのポケットにいれておいたソレを取り出した。とはいえ、それはどこからどう見ても指輪ケースなのだから彼女も大方予想はついているだろう。だから何も勿体ぶることなく、俺はそれを彼女の前に差し出して開けた。

「すごい、綺麗……」

 目を爛々と輝かせる嫁に和みながら、その指輪をそっと丁重にケースから取り出す。そして、彼女の左手を手に取って薬指に通す。サイズはぴったりだった。このために、異常なほどに嫁の手を繋いだり握ったりして彼女から少し気味悪がれたことを思い出して、思わず苦笑が浮かんだ。だけど、よかった。アクセサリに似合うも何もないと思っていたが、俺がオーダーメイドで受注してもらったその指輪はとても彼女に似合っている。左の薬指で輝くそれを見て、心底そう思った。

「この緑色の大きな宝石は、エメラルド?」
「いや、ペリドットという宝石だよ」
「ペリドット……?」
「あぁ。実は宝石には石言葉といって、意味があって」
「へえ…!」
「このペリドットの意味は」

 夫婦の幸福。そう彼女の耳元で囁くと、分かりやすいくらいに顔を真っ赤にさせた。そのままもう一度彼女を自身の胸に抱き寄せる。すると、おずおずと彼女の腕も俺の背中に回ってきた。とめどなく嫁への想いが溢れて、俺の腕にも力が入る。

「ありがとう、零くん。本当にありがとう……」

 感謝の言葉を並べる嫁を黙って聞いていられるだけなんて、出来なくて。礼を言わないといけないのは、こっちだということを思い出して。

「……なあ、嫁」
「なーに」
「ありがとう」

 危険を覚悟して、俺と結婚してくれることを。言葉はなくても、彼女にはきちんとそう伝わったはずだ。
 嫁は俺の耳元でふふっと小鳥が囀るみたいな心地いい声色で笑った。そして、俺の背中に回っている手に力を込めた。

「零くんが、守ってくれるんでしょ」
「……あぁ、もちろん」
「それなら何も怖くないよ」
「そう、か」
「うん。……それにね、わたし夢が叶ったから」

 夢? 少しだけ体を離して、彼女の顔を伺いながら言葉を反復すると、うんと頷いた。その言葉の意味を問いただすと、とびっきりの笑顔で、嫁は言い放った。

「零くんの苗字を貰うっていう、密かな夢」

 そして、はにかむようにまた笑う彼女の無防備な唇にキスをした。何度も何度も重ねて、離れて、また重ねてを繰り返した。「んっ、零くん、」至近距離で嫁とばちりと目があった。「だいすきだよ」また、唇を重ねた。今度はそう簡単に離れずに、何十秒も長いキスを何度もした。「ふふっ、苦しいよ、零くん」ああ、俺も実はいうと少し苦しいんだ。でもそれ以上に、お前のことが。「嫁、」鼻にちょこんとキスを落として、額を合わせた。「愛してる」また嫁は、一つ涙を流した。

 恐らくこの一生の中で、彼女を超えるような存在には出逢わない。いや、彼女を超えられるような者は、もはやこの世界中どこを探しても存在しないともさえ思う。そのくらい彼女は俺にとって必要不可欠で、なによりも愛しくて、大切な人だった。そんな彼女と、この先何年も何十年も、一緒に過ごしていきたいと思う。愛しい女を――嫁を守ることができるのは、紛れもなく俺だけなのだから。


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