夜更けの色
夜更けの色


「今日、予定あるか?」
「ううん、ないよ」

 言え、俺。

「……それじゃあ、明日は?」
「あ、明日? えーと、バイトが夕方からだったかな」
「そうか」
「うん……?」
「いや。その、だから」
「んん……?」

 言うんだ。

「うちに来ないか」
「……」
「今日の夜と、明日も午前は空いているんだろう」
「……」
「……
「それは、……つまり」
「そういうことだ」

 余裕綽々にみられるような笑みを浮かべながら俺が言うと、嫁は一気に顔を林檎のように赤く染まらせた。ちなみにこの俺の余裕綽々の笑みは偽りだ。実際心臓がドックンドックンと飛び跳ねて痛い。そのくらい俺だって言うことに緊張したのだ。
 嫁も恐らく反応を見るに、俺が何の誘いをしているのか理解したのだろう。しかも、俺が回りくどい言い方をするから変に意識させてしまったに違いない。だから俺はもう一度、ちゃんと言葉で彼女を誘おうと決めた。

「……泊まりに来ないか、俺の家に」






 初めに言うが、俺はこの類の件について決して経験がない訳ではない。豊富という訳ではないが、まあそれなりにといったところだ。そんな俺がなぜ、恋人に泊りを誘うだけでこんなにも緊張しているのか。俺だって、本当はサラッと言いたかった。けれどそれにはもちろん理由だって存在しているのだ、

 嫁と交際を始めて、つい先日に三ヶ月となった。その期間というのは、俺も本当に新鮮な日々で楽しくてしょうがなかった。嫁は誰がどう見ても認めるほどのウブだ。はじめて手を繋いだときも、そしてキスをしたときも、彼女のその異常な緊張には俺も思わず肩に力が入った。そして彼女の衝撃的な事実を聞いたときに、俺は仰天した。
 俺が、嫁の人生ではじめての彼氏だという事実に。


 男とあらば。健全な男とあらば、やはりキスよりそれ以上を求めてしまうことは仕方のないことだ。例外なく俺だって、嫁とそういうことをしたいなと思う。でもやりたいからといってすぐにするんじゃなくて、やはりお互いの想いがきちんと合致してから、そしてお互いに覚悟ができてから、お互いが信頼出来るようになってからするということが何よりも大切だ。しかし、彼女が俺のはじめてだとなれば話は全く変わってしまう。
 
 男とあらば。好きな女のはじめて――いわゆる処女のはじめてが自分だということに興奮や嬉しさを抱く者もいる。しかしその反面、自分がはじめてだということで不安を感じる者もいる。俺は間違いなく後者だった。
 だけど、それでも彼女と深く繋がりたいなと思う。恋人として更に、親密になりたいなと思うのだ。断られるかもしれない、もしかすれば幻滅だってあり得るのかもしれない、だけど彼女も同じ気持ちだったとしたら。そんな一縷の希望にかけて、俺は凄まじい緊張感に駆られながら彼女を家に誘ったのだ。

「適当に座って」
「う、うんっ」
「どうしたんだ。もっと気楽にしてくれよ」

 夕飯を外で済ませ、俺の住むアパートに到着した。が、それからもずっと肩に力が入っている嫁にそう言うも、なかなか彼女の緊張感を取ることは難しかった。初めて俺の家に来るわけではあるまいし。というか、どっちかといえば基本俺たちはお家デート(しかも俺の家)が多いのだから、何もそこまで緊張しなくてもと思うけれど。やっぱり今日誘ったとき、俺が変に緊張していたから彼女にも乗り移ってしまったか。やってしまったな。今更悔やんでも仕方ないけれど。

 そういうことで全く会話もなく、無情にもテレビの音だけが部屋を包む。これじゃあ埒があかないな。

「嫁」
「は、はいっ!」
「……。先にシャワー浴びてくるか?」
「ひえっ」
「え」
「あ、えっと、あはは。ウン、ソウダネ、浴ビテコヨウカナ……」

 銅像のように体を固まらせたまま、なんとか足だけ動かして嫁はソファから立ち上がった。そして片言でそういいながら、着替えを鞄から取り出し浴室へ向かった。その途中、全く何もないところで躓いていて思わず笑ってしまった。いや、笑ってられないんだけどな、俺も。

 左から二番目の下の方の棚。この日のために最近買った避妊具を俺はそこから取り出した。なんだかな、これを見るとやけに現実感が増す。そう、増すからこそ俺の不安も膨らみつつあった。
 
 もしかすると、彼女はまだ心の準備が出来ていないのかもしれない。それどころか、まだ俺とやりたくないのかもしれない。もしかすれば、ただのお泊まりだと思い込んで、ただのお泊まりだと信じて、うちに来ているのかもしれない。先ほどからの嫁を見て、俺はそんなことを考え出していた。
 付き合ってそこそこの恋人の、しかも男の家に泊まりに来る。やはりそれだけで俺は彼女にも何を求めているのか誰しも分かるだろう。だからこそ、わからないのだ。彼女は俺のその求めに応えてくれたのか。はたまた、俺はそんなことをまだしないと信頼してここに来てくれたのか。もし後者ならば、嫌がられないだろうか。幻滅したと嫁が離れたら、どうする。そのくらい俺の中では今までにないくらい、彼女のことが大切だった。離れてほしくなかったし、考えもつかないのだ。

 とにもかくにも、俺はその避妊具をベッドの近くにあるタンスにいれた。その瞬間バタン、と音がする。はっと息を飲み、急いで振り返ればそこに嫁がいた。まさか、見ていたんじゃ、

「何してるの?」

 ――いや、見ていなかったようだ。もしかすると嫁がとぼけている可能性もあったかもしれないが、表情を見るに本気で俺の行動に疑問を抱いてるようだから心配ない。

「あーいや、ベッドを整えてて……」

 そうだ。シーツが乱れていたから、整えておこうと思っていたんだ。
 ……って、まずい。

「……そ、そそ、そっか」

 嫁はまた顔を真っ赤にして、そのままソファーに座ってしまった。俺から顔をそらすように背中を向けているけれど、耳が茹でだこのように赤い。
 しくじった。とにかく何でもいいから言い訳をと思ったがしかし、ベッドなんて単語。彼女からすればタイムリーだったに違いない。……さっきから何をしているんだ、俺は一体。

「それじゃあ、俺も浴びてくるから」
「は、はーい……」

 とりあえず、俺も頭を一旦冷やしてこよう。







 シャワーを浴び終え、部屋に戻るとテレビを見ながらけらけらと楽しそうに笑っている嫁の姿があった。あんなにも緊張していたから、もしかすると今この時間も気が気ではないんじゃないかと俺なりに考えていたがどうやら杞憂だったようだ。その笑いっぷりに拍子抜けしてしまい、思わず苦笑いが浮かんだ。

「嫁」

 俺が名前を呼ぶと、一瞬で飛び跳ね上がるその仕草にも。

 チャンネルを取り、テレビの電源を消すと部屋には静けさが広がった。時計の針の進む音しか聞こえない。あとは、彼女と俺の呼吸だけだ。俺はソファーに回り込んで、嫁の隣に腰を下ろすと彼女はまだ肩に力を入れた。そんな彼女の肩に手を置いて、至近距離で見つめ合う。およそ、十五センチくらいの距離だと思う。嫁の瞼は、閉じたいけれど閉じることができないと言わんばかりにぴくぴくと震えていた。それが可愛くてたまらなくて、瞼にキスを落とすとまた彼女は体を震わせた。

「……っ、」
「嫁」
「は、い」
「まだ、こういうのは嫌か?」

 責めるような言い方にならないように出来る限り優しく、宥めるように嫁にそう問う。彼女はその俺の質問を聞くなり、息を吐いた。その息でさえも、やはり震えている。

「無理はさせたくない。まだ嫌なら、嫌ってはっきり言ってくれないか」

 そうじゃないと俺は、進むことも、踏み止まることも出来ない。

「……れい、くん」
「ん?」
「あのね、わたし。嫌じゃ、ないよ」
「……」
「でも、……私、初めてだから。怖いっていうか、その……零くんに、幻滅されたらどうしようって不安で」

 耐えきれないといわんばかりに、目をぎゅっと瞑りながら嫁はそう心中を吐き出した。きっと嫁は、勇気を振り絞ってそう告白してくれたのだろう。幻滅、か。思わず俺は笑みが溢れてしまった。

「な、なんで笑ってるの!」
「俺が幻滅なんて、するわけないだろ」
「そんなのっ……そんなの、分かんないじゃん」

 口を尖らせ、拗ねたような表情ながらも眉間に皺を寄せ辛そうな顔を浮かべている嫁がなんだか可愛くてたまらなくて、その頭を腕で包んでは俺の胸に寄せた。

「実は、俺も少し不安だったんだ」
「へ? ……なんで」
「まだ嫁の心の準備が整っていなくて、がっついて、嫌がられたらどうしようかって思ってたんだ」
「お泊まりで家に来ているんだから、心の準備は多少なりとも出来てたよ。ただ、すごく緊張して、いざってなると私も不安になって、」
「……なんか」
「……うん」
「同じだな」
「同じだね」

 二人でそう言って、互いに笑い合った。なんか、悩んでたことが馬鹿らしく思えるような気がした。一通り笑って、また目を合わせた。先ほどより俺も、そして嫁も、凍てつくような緊張感は取り払われていたけど、それでもやはり緊張はしている。そして、そこには確かに期待とかそういうものが含まれている。これからすることへの楽しみ、緊張、好奇心、様々なものが混じり合って身体の芯が熱くなった気がした。

「嫁、」

 顎を優しくつかみ、そっと上げた。それが合図といわんばかりに彼女は目線を少し彷徨わせてから、そっと目を閉じた。もうキスなんて何度したか数えられないのに、未だに慣れないところが本当に可愛いな。そんなことを思いながら、顔を傾けて、その小さな形のいい唇に自分のそれを重ねた。これからすることへ、期待を膨らませながら。


//180912

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